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人生💯倍の知恵😊【聖書】伝道者の書(コヘレトの言葉)1章 人生は無意味だ

2023年07月15日 11時42分04秒 | 伝道者の書
伝道者の書1章 人生は無意味だ
 今日から伝道者の書に入ります。
1.伝道者の書について
 書名は、ヘブル語聖書の冒頭のことば、ディベレイ・コヘレト(伝道者の言葉)そのままです。伝統的にはソロモンが書いたものとされてきました。しかし、宗教改革者ルターがソロモン著作説を否定してから、ソロモン説は疑わしいとされています。実際12節。「イスラエルの王であった」はハイティ、文法的には完了形の動詞で、すでにこの書を書いた時には、王ではなかったことを暗示しています。ソロモンは終生王でしたし、ダビデの子という表現も、ダビデの子孫と理解することもできますから、著者はソロモンであるとは必ずしも言い切れないわけです。著者は不明で、著作年代もよくわかっていません。捕囚期以降という説もあります。
2.全く無意味な世界と人生
 さて、2節、「空の空」、伝道者は全く意味がない、と言います。3節「日の下」、つまりこの地上での人生には何の益もない、と言います。「益」と訳されたヘブル語はイツローン、会計上の剰余金を意味することばです。つまり、この世で苦労しても、採算が合わないと言います。なぜか。著者は、自然現象と人生の現実から、それぞれ三つの例をあげて説明します(4-11節)。つまり、太陽、風、川、それらの自然現象を見ていくと、それらは、単調な繰り返しではないか。終わりもなければ、積み重ねによる発展もない(5⁻7節)。他方、人の人生も同様だ(8節)。人の人生に新しいものは何もなく、すべては過去にあったものの繰り返し(9-10節)。人間は忘れやすいから新しいと思うだけではないか、と(11節)。確かに、死後のいのちを視野に入れて語らない著者の論理は、実に、人生の虚しさを的確に言い当てています。
3.伝道者の試み
ただ著者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見出そうとした自分のこれまでの歩みを語り始めます(13節)。そして1章では二つの格言をとりあげながら、自分の結論を一つ一つ述べていくのです。まず15節「曲げられたものを、まっすぐにはできない、欠けているものを、数えることはできない」と言います。物事には、既に曲げられたもの、欠けているものがあるもので、人間がそれを何とかしようと思ったところで、何もできない。つまり人は、他人の成功を羨み、どうしたら成功できるかと考えたりするが、そんなものはない、曲げられたものは曲げられたまま、欠けているものは欠けているままである、人間に何かできる余地は残されているわけではない、というわけです。そして第二に「知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す」(18節)と言います。つまり、物事に聡明になって、あれこれわかれば、すっきりするかと言えば、そうではない、益々物事はわからなくなるばかりだ、と言うわけです。先の箴言では、愚かにならず、賢い人生を生きるようにという勧めがありました。伝道者の書はその真逆です。知恵を大事にする生き方に、何のメリットがあるのか、むしろ知恵が増せば、悩みを深め、苛立ちが増すだけだ、と言うわけです。
さて1章からいきなり、悲観的で重々しいものがありますが、これから12章、約2週間、著者の思考にお付き合いすることにいたしましょう。著者の結論はいかに!つづく、というわけです。では今日もよき一日となりますように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。誓願の中で、ナジル人の誓願をした者に求められていないものは何でしょうか?①ぶどう酒を飲んではならない、②髪の毛を切ってはならない、③肉を食べてはならない。答は③肉を食べてはならないでした。ぶどう酒を飲まない、髪の毛を切らない、合わせて死体に近づいてはならないことが定められていました(民数6章)。では今日の聖書クイズです。新改訳聖書2017では、伝道者の書と訳された書物は、聖書協会共同訳聖書では、音訳されています。それは、次のどちらでしょうか?①コヘレトの言葉、②エクレーシアステスの言葉、答えはまた明日。では今日もよき一日となりますように祈ります。
Ecclesiastes 1: Life is meaningless.
 Today we will begin Ecclesiastes.
1.About Ecclesiastes
 The title of the book is taken from the opening words of the Hebrew Bible, Dibelei Koheleth (Ecclesiastes). Traditionally, it was written by Solomon, king of ancient Israel. However, after the religious reformer Luther rejected the theory of Solomon's authorship, the Solomon theory is now considered doubtful. In fact, verse 12. "was king over Israel" is a haiti, grammatically perfect verb, implying that he was not already king when he wrote the book. Solomon was a lifelong king, and the expression "son of David" can also be understood as a descendant of David, so the author is not necessarily Solomon. The author is unknown, and the date of authorship is also not well known. Some say that it was written after the captivity.
2. a completely meaningless world and life
 Verse 2, "Meaningless!Meaningless!" says the evangelist, Utterly meaningless; verse 3, "under the sun," meaning there is no benefit to life on earth. The Hebrew word translated "profit" is iturone, which means surplus in accounting. In other words, he says that all the hard work we do in this life does not pay off. Why? The author gives three examples each from the reality of natural phenomena and life (vv. 4-11). In other words, if we look at the sun, wind, rivers, and other natural phenomena, they are monotonous repetitions. There is no end, no development through accumulation (vv.5-7). On the other hand, the same is true of human life (v. 8). There is nothing new in a person's life; everything is a repetition of what has gone before (vv. 9-10). People think it is new only because they forget easily (v. 11). Indeed, the author's logic of not speaking with an eye to life after death is indeed an apt description of the emptiness of life.
3. the evangelist's attempt
However, even so, the author begins to recount his past attempts to find satisfaction in life by using all of his wisdom (v. 13). Then, in chapter 1, he takes up two aphorisms and states his conclusions one by one. First, he says in verse 15, "What is bent cannot be made straight, and what is lacking cannot be counted. Things are already bent and lacking, and there is nothing that man can do about it, even if he wants to do something about it. In other words, people envy the success of others and wonder how they can succeed, but there is no such thing; what is bent remains bent, what is lacking remains lacking, and there is no room left for man to do anything about it. And secondly, he says, "As wisdom increases, so does trouble, and as knowledge increases, so does irritation" (v. 18). In other words, if we become wise and understand things, we will feel better, but this is not the case. In the previous Proverbs, we were encouraged to live a wise life and not a foolish one. Ecclesiastes is the exact opposite. He says that there is no benefit to a life that values wisdom; rather, wisdom only leads to more trouble and more frustration.
Well, from the very first chapter, there is a lot of pessimism and heavy-handedness, but we will be with the author's thoughts for the next 12 chapters, or about two weeks. What is the author's conclusion? To be continued. I wish you a good day.
<Quiz Corner</div>
First, yesterday's quiz. What is not required of those who have taken the Nazirite vow? (1) Not to drink wine, (2) Not to cut hair, (3) Not to eat meat. The answer was (3) do not eat meat. The prohibition against drinking wine, cutting hair, and approaching a corpse (Numbers 6). Now for today's Bible quiz. In the Sinkai-yaku 2017, the book translated as Ecclesiastes is transliterated in the Kyoudo-yaku. Which of the following is it? (1) the words of Koheleth, or (2) the words of Ecclesiastes, and the answer will be given tomorrow. Then I wish you a good day today.

伝道者の書12章

2020年04月26日 07時06分49秒 | 伝道者の書
伝道者の書12章 神を恐れて歩む
おはようございます。伝道者は、冷静にこの世の事柄を観察し、人にとって死が確実であり、死に向かって様々な生き方をしている現実を指摘します。しかしそれは、無に帰す歩みではなく、神のもとに帰る歩みであると結論するのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神のもとに帰る
伝道者にとって確実なのは、死である。そこで最後に、死に向かう人生について彼の冷めた所見が語られる。「何の喜びもない」と年月は、老いを意味する。「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後に雨雲が戻って来る」は、老いの現実を印象的に語る。そして3-6節は、いのちが衰えていく様を、絵画的に描いている。年寄りの腕は震え、背は丸くなる。歯抜けになる様を「粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ」と語る。「目は暗くなる」は、視力の衰えを語り、「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力の衰え、そして「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」は、声が弱くなることを言っている。年寄りの足は衰え、高い所は怖いし、転倒も心配だ。アーモンドの花、口語訳では「あめんどう」、は白髪を象徴的に語り、のろのろ歩くいなごは、まさに年寄りの歩き方をよく表現している。「風鳥木」、新共同訳では、ヘブル語をそのまま音訳し「アビヨナ」と訳す。口語訳では「欲望は衰え」リビングバイブル訳では「性欲もなく」と意訳される。というのも、ふうちょうぼくのつぼみは酢漬けにして料理されるが、それは食欲や性欲亢進に役立つと言われるからだ。「花開く」は、萎れる他ないことを言う。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」は、当時使われた油を用いた照明器具の、天井からつるす銀のひもが切れた様子、油の受け皿であった金の器が地に落ち砕けた様を語っている。若かりし頃は、次から次と湧き水が溢れ、世間話に花が咲く井戸のよう、老いは誰も足を運ばない涸れ井戸のよう。伝道者の観察力、まさにその通りだろう。そこで結論。人間はそのように老いて、確実に死を迎えるが、それで終わりではない。人間は確かに、塵で造られたのだから塵に戻っていく。しかし霊は、神より授かった特別なもので、これは、地上を彷徨うのでも、消滅するのでもなく、神のもとに帰るのだ、という(7節)。ここに伝道者の最終結論がある。
 日本人は、死んだら何も無い、すべては終わって消滅すると考える人が多い。天国も地獄もないと。ただ、極楽ぐらいは考えたい人もいるだろう。葬儀の後に、七回忌、十三回忌と追善供養を重ねるのも、そういう信仰があればこそである。しかし、いったいその死者の魂はどこへ行ってしまうのか?伝道者は、それは創造主のもとだ、と言う。だから今の世を、どうでもよく生きればよい、と言わず、大事に生きなさい、と言う。ただ彼の思索の中で、神の愛が自明のことと考えられているために、伝道者の書は、ギリシャ的な快楽思想と混同されて受け止められやすい。人生は空しいものだから、楽しめる時に楽しめ、と。だがそうではない。伝道者の書を正しく理解するためには、新約において、死を打ち破り、十字架によって確かな神の愛を示し、神の安息に招き入れてくださるキリストを知らなくてはならない。この世の世界は矛盾に満ちていて、すべては空しい。しかし、その殺伐とした社会にあって、人は、神のもとに帰るようにと束の間の生を受けている。人は、帰りを待ちわびている神のもとに帰るのだから、神を恐れ、愛し、従う歩みをすることが一番なのである。9-11節、12-14節は、二人の別の著者によるあとがきと言われている部分である。彼らもまた、伝道者のことばを支持する。神は正しく誠実なお方である。この世があなたにとっていかなるところであっても、神に帰る者として生きる、これがあなたにとっての最善なのだ。


伝道者の書11章

2020年04月25日 06時50分41秒 | 伝道者の書
11章 人生の不確かさを直視する
おはようございます。新世界の発見は、滝のように海の水が地平線の縁で流れ落ちている、と考えられた時代にあって、その未知の世界に踏み出す勇気がなければありませんでした。同じように、人生を安易に肯定せず、その不確かさを見て悟ることも大切です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.事柄は既に決まっている
 「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「すべてに時がある(3:1-8)」と同様、キリスト者の間でもよく親しまれている。しかし、その意味は正しく理解されているとは限らない良い例でもある。というのは、1-4節は、互いに関連し、これまでの文脈に沿って一つのことを言おうとしている。1節の前半と後半は、しばしば順接的に理解されてきた。ユダヤ人の伝統的な象徴的解釈では、パンを「善意」や「親切」と考え、善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、とした。福音派のキリスト教会では、パンを「福音」と考え、福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と説教されることが多い。しかし、1節の前半と後半を繋ぐ接続詞は逆説であって、順接ではない。パンを投げる、無駄なことをしたにも拘わらず、損をしないことが起こる、ということだ。2節もそれを補足する。これはいわゆる分散投資のことを言っているが、リスクを避けるための分散投資が全く意味をなさない、今回のCOVID-19のような、予測不可能なこと、人間には制御できない力によって左右されるようなことが人生には起こりうる、というわけだ。
 松下幸之助は、経営の極意は、「雨が降ったら傘をさす」にあると言ったが、伝道者は、事柄というものは、既に決まっているもので、人間の影響下にはないのだ、と言い切ってしまう(3,4節)。伝道者のそのような否定的な考え方は、5,6節で明瞭になる。つまり、人は、胎児にいのち(風)がやどる、不思議を理解しえない。神は人間の理解力を超えてすべてを支配し、物事を進めておられるのだ。人間は全く、神の前で無力である。朝の仕事がいいか、夜の仕事がいいか、仕事の成功は仕事の質によらない、行ってみれば、それは、博打と同じなのだ、というわけである。
2.そろそろ結論としよう
 7節から、伝道者は、そろそろ結論のまとめへと入っていく。まず、与えられたいのちが長いものとなるのなら、人はその人生を楽しむがよい、と。しかし、人間は、死のタイムリミットの中に置かれていることを忘れてはいけない、と。人間は自分がコントロールできない、神の支配の中に生きている。だから、「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩」(9節)んだらよいのだが、神が、それを評価しておられること、神の不可抗力の力の下に晒されていることを弁えて生きよ、というわけだ。伝道者は、新約聖書のパウロのように、人生を全面的に肯定はしない。むしろ素直に、人生の闇の部分を描いている。伝道者は、神の存在を認めているが、神の愛については語らない。つまり神の赦しと恵みを深く伝えるキリスト抜きに、この世の人生を生きることが、人間にとっていかに不安定であり、脅威であるかを、彼の否定的であっても、大胆に踏み込んだ思索によって教えられるのだ(つづく)。

伝道者の書10章

2020年04月24日 06時46分00秒 | 伝道者の書
10章 不本意なことが多すぎる
おはようございます。伝道者の書の著者の視点は、確かに私たちの人生の矛盾を様々についているところがあります。賢く生きることが何の益になるだろうか、というように。そんな著者に反論せず、しばらく彼と共に人生の矛盾を考えてみたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.不可抗力
1節、死んだはえが香油をだいなしにするように、少しの愚かさが、大きな損失をもたらすことがある。愚かさの原因は、心にある。「右」は、救いや霊的な事柄の象徴であり、「左」はその逆である。知恵ある者と愚か者とでは、心の向きが全くもって正反対である。
問題は、そうした愚かさを持った者に関わらねばならぬ時である。愚か者が上に立つこと自体が災いであるが、その彼があなたの上司であなたに立腹したならどうすべきか。4節、冷静に物事の推移を受け止めていくしかない。狼狽えず、逃げ腰にならず、忍耐を働かせることだ。それは驚くことではない、不本意な不可抗力と同じである。
 世の中にはそのようなことで溢れている。実際、畑で石垣の作業に取り組んでいる時に、蛇に噛まれる可能性がある。穴を掘る仕事をしている人が、思いがけない事故に遭うこともある(8節)。採石場で働いていれば、落石事故があり、伐採場では倒木の危険がある(9節)。蛇使いのまじないが蛇にかからないことだってあるだろう(11節)。人間の知恵が役に立つのは、斧が鈍くなったら研ぐことを思いつく程度のものではないか(10節)。人間の内的力など本当にたよりのないもので、一人の暴君の前には、何ともしようがない。
2.計算通りにはいかない
 愚かさは、無謀性、無計画性、そして見通しの甘さに現れるものであるが(12-15節)、言葉の習慣においてもそうである。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけだ。
 そのような愚かな者が上に立つようなことがあったなら、それは災いだ。国にとって必要なのは成熟した指導者である。しかし若輩者の王が、助言者のことばも評価せず、自らの欲望を満たすためだけのことをし、その取り巻きのエリートたちも無責任な者たちであったりするなら、その国は滅びる(16節)。もちろん、仕事を進めるように規律ある生活を心がけている人々のいる国は安泰である(17節)。規律が緩んで、腐敗した国、金銭が正しく用いられない国は、危うい(18節)。
だから、そんな愚かな指導者を呪いたい気持ちにもなるだろう。でも、そんなことを考えてはいけない(20節)。日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。陰で呪ったりしてはいけない。絶対漏れないと思うような会話が、盛れてしまうことがあったりするもので、人生には全く予測付かないようなことがおこったりする。
伝道者は、淡々と人間の知恵が役に立たない、人生の現象を語り掛けてくる。それは、預言者や、新約の使徒たちとは全く違う視点である。だが、それは、多くの正直な人間の代弁である、と言うべきだろう(つづく)。

伝道者の書9章

2020年04月23日 07時06分36秒 | 伝道者の書
9章 人生をよく観察する
おはようございます。伝道者の書の世界観、人生観と、パウロが語るような新約聖書の世界観、人生観の開きがよく見えてくる箇所です。その根本に、神観があるのでしょう。十字架愛を中心に据えた神を知っているか否かは大きな違いです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の御手の中にある
「正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある」(1節)伝道者の要約的な言葉である。これは、人が神の保護の中にあることを言っていない。神は及び難い崇高な存在でありながら、地上の人間の間に起こる出来事に決定的に介入される、方であると言う。パウロのような「神は、すべてのことを働かせて益としてくださる」、という神の愛に対する信頼は、語られていない。むしろ、人間は、善を行おうが、悪を行おうが、自分の人生をそれによって変えることはできない、という現実をシビアに見ている。そして、人は死んで終わりなのであって(3節)、死後に望みがあるわけでもない(5節)、とキリスト以前の人生観を明確にしている。だから「生きている犬は、死んだ獅子にまさる」と結論するのであるし、人生を四つの事柄で楽しむようにと勧める。つまり、よい食事の時を持つ(7節)。よい安息の時を持つ(8節)。ユダヤ人は、普通安息日に白い衣を着る習慣があった。そして、愛する妻との生活を楽しむ(9節)、人生のチャンスを生かす(10節)ことである。死後に、「わざも道理も知識も知恵もない」(10節)と明言するところに、新約聖書のキリスト教世界観とは異なる、死後理解がある。新約聖書によれば、人間の行く先は、暗い死者の国ではなく、キリストにある神の国であり、もはや、そこには「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」慰めと喜びの場である(黙示録21:4)。不条理な人生を忠実に生き抜いてきた者に対して「よくやった、多くのものを与えよう」と心からの愛情をもって迎えてくださる十字架のキリストがおられるところである(マタイ25:21)。
2.人生をよく理解しよう
 伝道者の冷静な観察が続く。成功は、才能や知恵によらない。神の気まぐれな配分にかかっている、と。どんなに足の速い者であっても、必ず勝利できるとは限らない。強い兵士も絶対勝つわけでもない。知恵ある人が、金儲けにたけているわけでもない(11節)。つまり、常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならない。「時と機会に出会う」つまりすべて予測しがたい力によって物事が決まってしまうのだ。万事は運命というべきもの、信仰者であれば神にかかっている、と言えるだろう。だが、伝道者の神は、崇高な権威者であって、十字架のキリストではない。だから、包囲されたある町についてのエピソード(13-18節)を語ることで再び無機質な人生の矛盾をついてくる。知恵が力に優るとは誰もが思うことだ。しかし、人は語る者の社会的地位や外観によってその知恵を評価する愚かさを持つ。社会的偏見という人の愚かさによって知恵も役立たずである。実際のところ人間社会はそのようなことで溢れている。正義の神がいたとしても、その神と心を通じ合うこともなければ、人間に希望はない、というべきだろう(つづく)。