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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

イザヤ書47章

2020年06月20日 06時26分18秒 | イザヤ書
47章 バビロンの滅亡
おはようございます。47章は、全体が神の裁きのことば。読んでいて気持ちのよいものではありませんが、人間が分を弁えない結果と言うべきなのでしょう。常に神の前に謙虚に生きるべきことを教えられるところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロン滅亡の預言
 バビロンは勢いのある国であった。しかしその繁栄は永遠ではない。「優しい上品な女」「王国の女王」と呼ばれたバビロンは捨てられ、瞬時に子を失い、やもめとなる。「下って行って、土の上に座れ」「王座のない地面に座れ」(1節)、「ひき臼を取って粉をひけ」「ベールを取り去り、裾をまくってすねを出し、川を渡れ」(2節)、「裸はあらわにされ」「恥もさらされる」(3節)敗北を知らない時の支配者であったバビロンが一転して、奴隷となる。彼らがどんなに呪術を行っても、その魔術は何の役にも立たないという。まことの生ける神に対比して、死せる偶像の神、ただの石であり、木である以上の何物でもない神に拠り頼む愚かさは、こうして明らかにされる。46章からの続きのメッセージというべきだろう。
生ける神は、もはや恵みの神としてではなく、裁きの神として、バビロンに向かう。神の怒りの火が彼らを全く焼き滅ぼすと宣告される(14節)。実にバビロンは、神によって裁かれ崩壊していく。
2.神の正義が支配する
 バビロンの勝利は、神がイスラエルを懲らしめるために与えられたに過ぎなかった。ユダ南王国が滅ぼされ、その民がバビロンへ捕虜として連れ去られたのは、イスラエルに、偶像ではなくまことの神を仰がせるためであった。だから、その意図を理解せず、自らの分を超え、残虐と横暴を働き、おごり高ぶったバビロンもまた神の存在を諭される結果を受ける。残るは神の正義なのである。
 たとえ、バビロンの軍隊がどんなに堅固に思われても、国の栄華が永久不滅のように思われても、神がこれをよしとせぬならば、それは脆く、一瞬の内に根こぎにされてしまう。神の前に特別はない。例外はない。「わざわいがあなたを見舞う。それを払いのける呪文をあなたは知らない」「破滅は知らないうちに、突然あなたにやってくる」(11節)。
3.神は贖う方 
47章全体が、神の裁きのことばに満ちていて、読んでいて気持ちのよいものではない。しかし、「贖う方」という言葉に注目しよう(4節)。神は「万軍の主」であり「聖なる方」であると同時に、贖い主である。新約聖書を読むならば、神は私たちの罪を十字架によって赦し、癒し、受け入れてくださったことを知る。もはや私たちは裁かれる者ではなく、愛される者である。滅ぼされる者ではなく赦され、救われる者である。それが本当にわかれば神に背を向ける愚かさはありえない。しかし、人間は愚かである。十字架の恵みをわかっていながら、これを捨て去る愚かさがある。人間の分を弁え、神の恵みに拠り頼み続ける謙虚さに今日も立たせていただこう。神の恵みが全てである。

イザヤ書46章

2020年06月19日 06時26分59秒 | イザヤ書
46章 神は私たちを愛している
おはようございます。偶像とまことの神の違いが対比され、神への信頼が促されます。急激なサイバー化が進む、高度な科学文化を達成している今日においても、人間は愛と義に満ちた神の存在抜きに、正しい道を進むことはできないのではないでしょうか。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.お荷物の神か、背負ってくれる神か
 マルチン・ルターは、自分の力や知恵、また敬虔さや富、名声、権力その他何にでもそのようなものに拠り頼む者は、偶像崇拝の罪を犯している、と語ったという。偶像崇拝は、単に木や石を彫って形作られた偶像を拝むだけのことではない。自分を神として、自分の名声や富みに拠り頼むことも、また真の神を認めない偶像崇拝なのである。
 1節、「ベル」は、バビロンの主神マルドゥクのヘブル名である。シュメール人の風と嵐の主神エンリルの別称で、聖書では、ダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神であり、「ネボ」はその息子と考えられている。その偶像が「かがみ、ひざまずく」とは、バビロンの崩壊を意味する。それらが征服者によって戦利品として獣の背中に乗せられて持ち運ばれていく。それは単なる厄介なお荷物ではないか、と皮肉られている。これに対して聖書の神は、そうではない。むしろ、イスラエルの民を「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれ、白髪になっても背負う」(4節)神である。偶像の神とまことの神の違いが明らかである。まことの神は人間を創造したお方であり、これを死に至るまで世話し、守られ、導かれる。しかし偶像の神は、人間が造り、人間が運ばなければならないもの。「これに叫んでも答えず、苦しみから救ってくれない」(7節)。「このことを思い出し、勇み立て」(8節)、つまり理性を働かせてよく考えよ、という。信仰は一面クールなのである。
2.神の業を思い起こせ
「遠い大昔のことを思い出せ」(9節)という。具体的にアブラハムの選びと出エジプトのことが想定されている。神はもう一度新しい選びと新しいエジプトを起こそうとされている。遠い大昔の事を思い出しながら、神が今も同じように偉大な業を成そうとしておられると期待せよ、というわけである。やはり求められるのは信仰だ。
 神は、「後のことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、計画を立てて、それを実行する(11節)」「わたしの救いが遅れることがない(13節)」という。なんとかならないか、と不安と焦燥感の中で時を過ごすのではなく、ただ主に信頼し、忍耐をもって、日々の務めを果たすように考えることだ。
神は生きておられる。木や石でできたもの、金や銀で飾り立てたものではない。神は形にすることはできない霊的な存在である。その神の救いは「遅れることがない」。たとえ遅れているように感じることがあっても、神の計り知れないみこころを覚えて、神の定められた時を待ち、神に服従することが最善である。それは空しい期待ではない。なぜなら神は私たちを胎内にいる時からにない、生まれる前から運び、しらがになっても背負う、私たちを愛する神だからである。神は私たちを愛している。神の愛に信頼しよう。

イザヤ45章

2020年06月18日 07時06分21秒 | イザヤ書
45章 私が神だ。ほかにはいない
おはようございます。キュロスについての預言が続くところです。しかし、ペルシャの王キュロスに当てはめて解釈するには限界もあり、一般的終末的に解釈するのがよいとされる部分です。その趣旨は、生けるまことの神への注意喚起というべきでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.キュロスの預言、終末の預言
44:28-45:13は、一般にペルシャの王キュロスについての預言とされる部分である。それは、イザヤが生きた時代の130年後のことを語っている。そこでその預言の正確さよりも、その預言が何を言おうとしているかに注目することが大切となる。
神は、キュロスを歴史の表舞台に立たせ、勝利を与え、イスラエル人を解放しエルサレムを再建するご自身の計画を進めさせる、と言う。しかし神は、なぜ異教徒のキュロスを用いようとされるのか。捕囚帰還が第二の出エジプトであるなら、第二のモーセもユダヤ人から起こされるべきではないか。ユダヤ人には納得のできない預言であった(9節)。しかし、イザヤは陶器と陶器師のたとえを用いて、それが神の御心でありご計画である、と強調する。神は創造主であり、万物に自分の力を及ぼす主権者である、と(12節)。
ただ、キュロスは、確かに古代オリエント諸国を統一し、イスラエル人の祖国帰還を許可し、その解放を実現したが、14節に描かれたように、古代エジプトを征服したことはない。だからここは、具体的な歴史に当てはめるよりも、一般的、終末的に解釈することが妥当であるとされる。
2.自分を隠す神
15節、イザヤは、突如、神への自らの思いを語る。「あなたはご自分を隠す神」宗教改革者マルチン・ルター以降、その真意を巡って様々に解釈が議論され続けて来た用語である。それは、神が、ご自身の意図を隠されて、物事の全体像を直ぐには(イザヤの時代には)明らかにしようとされない、ということを語っているのか、それとも、神は聖霊によってのみ知られるお方であるから、罪人は聖霊の導きがなければ、啓示された神の偉大な救いを理解することはできない、ということを語っているのか。他にも解釈しうる用語であるが、とりあえず後者が妥当かと思っている。七十人訳は「あなたは神であられる。しかし私たちは知らない」と訳している。つまり、ここに至るまで繰り返されて来たことはまことの神ではない偶像を神として崇める人間の無知蒙昧ぶりである。14節、「神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はない」18節「わたしは主。ほかにはいない」に挟まれて、イザヤの心には、まことの生ける救い主であり、創造主である神が意識されている。そして、隠れたところでは語れなかった神が意識されている。しかし、イスラエルの子らはこの方を知らない、知ろうともしない、そして偶像に走る、その悲劇が指摘されている。だから言う「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」と。イギリスの説教家チャールズ・H・スポルジョンは、このことばによって信仰を持ったという。教会にこそまことの神がおられる。その神を求めることとしよう。

イザヤ書44章

2020年06月17日 06時50分42秒 | イザヤ書
44章 目に見えぬ神を信頼せよ
おはようございます。ここ東京の二子玉川は紫陽花の綺麗な季節となりました。先月まではバラが満開でしたが。私たちの努力とは無関係に得られる、神の祝福の一つでしょう。神の恵み深いお取り扱いの中に、日々、私たちが守られていることを覚えたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.恐れるな
 「恐れるな、私の祝福を注ぐ」捕囚の民に対する回復の預言である。それは、心萎えた者、希望を失った者にとって力強い預言であった。神は言う。「潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ」(3節)「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生え」(4節)させる、と。神の力強い後ろ盾のもと、回復再建の希望を感じさせることばだ。そのように関わられる神というお方は、どのような方なのか。神はあなたの造り主であると言う(2節)。神はあなたの主である。そして他に神はいない、という。まことの神がおられて、そのお方はただお一人である。その神が、語られたことは必ずなる。確かに、このお方は、イスラエルの歴史を通して、幾たびも素晴らしい奇蹟の業を起こされて来た。イスラエル人はその証人である、と言う(8節)。
2.偶像崇拝の虚しさ
 そこで神は偶像崇拝の虚しさと矛盾を語る(9節)。石であれ、木であれ、人間の手により造られた偶像は、見ることもできず、知ることもできない。神が人間を造られることがあっても、その逆、人間が神を造り出すことはできない相談だ。実際どんなに、杉や樫の木をかんなで削り、彫り刻み、美しく仕上げても(12,13節)、それに人間の魂を救う力も、人間の未来を動かす力も宿ることはない(15節)。むしろ、人間は、同じ材料を用いて、食事や暖をとるための燃料にしている(17節)。一種の風刺である。
商売繁盛、無病息災、家内安全と、人は偶像を拝むが、もはやそのような原始的、迷信的な信心の愚かしさに気づいていく必要がある。それは空しい信仰心である。むしろまことの神がおられて、語り掛けている。「わたしに帰れ(22節)」と。
3.キュロス
 ところでこの預言は、バビロン捕囚からのイスラエルの帰還(26節)、バビロンの滅亡(27節)、そのために神に用いられる解放者ペルシヤの王キュロスの名を語る(28節)。
しかしキュロスが登場するのはこの約1世紀以上後のことである。そこでこの箇所は、イザヤが書いたものではないとする説がある。また、「キュロス」はもともと個人名ではなく「支配者」の一般的な名称で、後にこの預言を読んだペルシヤの王が、これに合わせて自らをキュロスと称するにようになったとする説もある。しかし、そもそも預言は、神の言葉の託宣である。歴史を支配される永遠の神が、イザヤに、彼がまだ知り得ぬ人物の名「キュロス」語り伝えることもあるだろう。大切なのは、私たちが神をどのような方として認識するかである。目に見える木や石で作られたものを神としてよしとするか、それとも目に見えない、天地創造のまことの神を覚えられるかどうかである。生ける神は語る。恐れるな、と。

イザヤ書43章

2020年06月16日 06時44分27秒 | イザヤ書
43章 造り主の愛
おはようございます。イスラエルに対して創造主としてご自身を現わされる神が、ご自身の深い愛を語り伝えているところです。キリスト者の務めは、何よりも神の愛を深く味わい知るところにあります。そこに証も生じるからです。知り、語るの順を大事にしたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.恐れるな
先に「しもべの歌」(42:1-9)、そして「嘆きの歌」(42:18⁻25)を読んだ。本書は、それらを前提にしている。神を神として敬うこともなく、退けてきたイスラエルに、神は変わらぬ愛を語り掛けている。その深さはどこから来るのか。明らかなことは、神が父であり、創造者である、ということだ(1節)。
2節は、具体的に、ノアの洪水、航海渡渉、ヨルダン渡河などのイスラエルの歴史的な出来事を種々思い浮かべるところであるが、文脈からして強調されるべき点は、創造者である神が、「あなたとともにいる」という点である。そして神はイスラエルの民のために戦われる。3節は、エジプトがペルシヤに滅ぼされた歴史的出来事を想定しているようだ。ともあれ神はイスラエルを大事にし(4節)、これを特別に扱われてきた。それは選ばれた民が、神ご自身の何であるかを知るためであった(10節)。まず、神を深く味わい知ること、それが神がイスラエルに対して持っておられる願いであり、それは、同時に、神が唯一であり、救い主であり、全能者であることを証することになるのである。この神以外に救いはない、と。
2.バビロン滅亡の予告
13、14節は、バビロン滅亡に関する予告である。愛するイスラエルのために、積極的に戦われる神の姿がイメージされる。それは一度限りではない。繰り返される歴史的な事実であると言うかのように、16、17節、エジプト紅海渡渉の歴史的事件が取り上げられる。
18節「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う」神のなさることは常に人の思いを遥かに超えている(19節)。そうであればこそ、神の栄誉を語り伝えずにはいられない(21節)、ということだろう。神を味わい知ることは常に宣教と表裏一体なのである。
22節以下は、そのような偉大な創造主のケアを受けながら、その神に背を向け続けてきたイスラエルが見捨てられずにいること、そしてそれは、全く神の愛と恵みに基づいていることを語る。神がイスラエルを選ばれたのは不合理な愛の結果である。だから、神は理屈なしにイスラエルを愛し続ける。何ら神の期待通りに生きることもなく、反逆を繰り返すイスラエルを赦すのは、彼らの善行のため、経歴のため、苦労のためではない(25節)。ただ神は、自らが生み出したイスラエル(21節)を、愛される。
このイザヤ書を、メシヤ預言として解釈した初代教会は、明らかにこの愛が、私たちにも同様に注がれていることを確信していた。恐れるな。主は、あなたとともにいる。あなたに対する主の愛は深い。主の愛を味わえば、自然に証しも備わるのである。