歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
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鎌倉殿の13人・公暁くんは何がしたかったのだろう。

2022-11-21 | 鎌倉殿の13人
一応の区別として「公暁くん」「平六くん」「義時くん」は大河の物語の登場人物。「公暁」「平六」「義時」は歴史上の人物ということで書きます。途中で混交してしまったらすみません。

「公暁くん」(ドラマの)、を見て改めて思ったのですが、「何がしたいのか」が分からない。それは歴上の公暁も同じである。「実朝を討って、御家人に北条の犯罪を明かし、実朝に正統性が存在しないことを説けば、御家人は納得する」と「公暁くん」は言う。「平六くん」も「いい考えだ」とか言う。

そんなわけないじゃん。

誰が自分たちの棟梁を殺されて「ははー」と従うのだろう。北条義時が同時に死んだとすると、それをきっかけに御家人の主導権争い、また源氏系の「鎌倉殿の地位争奪戦」が起きるだけである。「三浦」が私たちが今日思っている以上に御家人への統制力を持っていたとすれば別だが、ドラマではそうはなっていない。また史実でもそこまでの力があった証拠はない。

そもそも「三浦」は公暁の「黒幕ではない」というのが学者の一般的見解である。

学者は「単独犯行」と言う言葉が好きである。本能寺の変も、今の通説は「明智光秀の単独犯行」である。へたに「黒幕」とか言い出すと、学者としての「品格」が問われるせいもあろうが、「黒幕は証明できないから黒幕」なのだから、学者が「黒幕は〇〇だ」に賛同するはずない。私は学者ではないので、黒幕探しをしてもいいのだが、あまり興味はない。

「公暁」(史実の)に関しては「実朝を殺しても鎌倉殿になれるわけない」と私は考えており、その観点からは黒幕に興味はない。しかし「実朝が死んで誰が得をするか」は「歴史的分析」としては面白い。黒幕は「いない」だろうが、「黒幕探し」そのものには「知的営為」としての意味はないわけではない。

話を戻して、公暁の犯行については「合理的説明」は無理であろう。鎌倉殿になりたくて殺した、は際立って無理である。「恨みをもっていたから殺した」なら成り立つ。「恨みで殺した」は一応「合理的説明」にも見えるが、「恨み」そのものは「非合理」である。

「頼家の霊が憑依して実朝を殺した」に比べれば多少合理的というだけである。

「中世人の考えていることは現代人には分からない」とよく学者は言うが、その学者は現代人である。私も現代人なので、そりゃ分からない。中世人に会ったことはない。会ったことがある現代人の気持ちだってほぼ分からない。それほどに人間は非合理な側面がある。

だから「公暁」「公暁くん」の気持ちは分からない。分かるのはそれが「現代人」である私からみて極めて「非合理」で「説明できない行動」であることだ。

鎌倉殿になりたいなら少なくとも「自分の手を汚す」べきではない。他者にやらせるべきである。「親の仇なら殺しも許される」なんてことはない。それは曽我兄弟の件でもはっきりしている。だが「実朝さえ殺せば、あとはどうでもいい」のなら自分の手で「うっぷん」を晴らすことになる。

では何が「うっぷん」だったのか。

実朝はどう考えても「親の仇」ではない。頼家が死んだとき、わずか12歳である。公暁は「親の仇はかく討つぞ」と叫ぶが、親の仇とは言い難い。
公暁と実朝の間に、記録には残っていない何かがあったのかも知れない。「実朝ぜってー俺の手で殺してやる」と考える強烈なパワハラとか何か。
しかしそれを証明することはできない。また「殺すこと」が今よりずっと「軽い行為」であったことも犯行を後押ししたかもしれない。しかし御家人クラスは上級者だからめったに殺されない。まして実朝をや、である。

「人間のすべての動機は説明できない」とまで不可知論を展開する気はない。特に「欲望によって殺した」というのなら、ある程度理解はできる。理解というのはもちろん共感ではない。

「金が欲しくて殺した」「恐喝されたので殺した」とかいう「自分の利益のため」ならある程度、理解はできる。繰り返すが共感でも肯定でもない。人を殺してはいけない。

だが公暁、公暁くんの行為は説明できない。間違っても「鎌倉殿」にはなれない。

とすると「ある強烈な恨みがあった」「鎌倉殿になれると何故か思い込んでいた」ということになる。私は「説明できない行為だ」というためにこれを書いている。

つまり私の動機は「公暁に関する学者の説をどんなに読んでも納得できないという、うっぷん」である。

例えば、ある実朝の専門家がいる。彼自身は多少粗忽なところがあって(テレビで拝見する限り)、愛すべき人である。パワハラ系の威張り癖のある学者、学閥を組んで徒党を組む学者、その親玉と追随者のような「品格のなさ」はない。サービス精神がある愛すべき人である。本郷和人さんとか細川重男さんの系統である。

氏は言う。中世国家は権門体制であった。公と武は互いに協調関係にあった。(少しは競合もしていた)。公武協調の象徴が「実朝と後鳥羽」であった。実朝は公武協調を進めるべく、親王を鎌倉殿に迎えようとした。ここに至って公暁の鎌倉殿継承の夢は完全に途絶えた。そこで犯行に及んだ。

だから「犯行」に及んでも「鎌倉殿になれないでしょ」と言いたい。今までの公武対立史観に代わって、公武協調を説明したいあまり、公暁の行為については分析が粗雑である。
「公武協調史観」(私は懐疑的だが)の立場ならより「そう」である。右大臣である実朝を殺して、後鳥羽の近臣でも源仲章まで殺している。それでも公暁が「鎌倉殿になれる」と幻想を抱いていたなら、西に住んでいたにもかかわらず、公暁は「公武協調」という時代の空気を全く吸っていなかったことになる。本当に公武協調の時代なら、そんなことはありえないことだ。公暁が幻想でも「なれる」と勘違いすることはありえない。
それとも公暁については公武協調史観の「例外」だとでもいうのだろうか。それはご都合主義すぎるであろう。

公暁には朝廷の意向など眼中になかった。征夷大将軍になる必要もないし、征夷大将軍は鎌倉殿の必要条件ではなかった。公暁は御家人の支持さえあれば鎌倉殿になれた。しかしその御家人の支持を得られると勘違いしたことが、公暁の間違いであった。もっともこれは鎌倉殿になりたいと公暁が思っていた場合の話で、私はそんな勘違いするわけないと思っている。つまり彼は「うっぷん晴らしたかった」だけである。そう考えないと説明がつかない。

実態としては幕府は朝廷がなんと言おうと、自分の意思を貫くことができたのである。頼朝がそうだったではないか。そもそも「反乱軍」である。幕府という用語は一般的ではなかったが、「陣中にいる」という意味である。常時戦場、それが字義からみた「幕府」の意味で、坂東武者はそういう精神的雰囲気の中で生きていた。「戦場においては朝廷の意向は無視していい」、それが幕府の出発点で、その後頼朝の路線変更があって、頼朝自身は朝廷と政治的妥協を図ったが、御家人がそれを強く支持することはなかった。

幕府は、ただ礼儀として一応朝廷に「うかがい」をたてて「朝廷の顔を立ててあげた」だけである。現代の歴史家の一部は、そういう幕府の社交辞令を、「朝廷の権威はまだまだ強い」とか勘違いしているのである。さらに言えば「勘違いしたい」のである。朝廷の権威は強かったと思いたい、のである。「京武者がいた」という幻想(願望)と同じ構造である。

黒田俊雄のオリジナル権門体制論は「対立と相互補完」は協調するが、「相互補完原理主義」ではない。「相互補完などというために構築した理論でない」という趣旨のことも書いている。権門体制論は「オリジナルじゃなくてはいけない」道理はないが、現代の権門体制論は黒田の論理をあまりに矮小化し、黒田が提起した「天皇制のメカニズムの明確化」という問題を避けている。あまりに単純化され、稚拙と言ってもいい「便利な説明法に過ぎないもの」に堕している。

公暁くん、公暁の行為は説明できない。またそれを「現代の権門体制論」や「公武協調説」の流布のために行うのは、間違っている。要するに私の「うっぷん」はそこにあるらしい。