歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

金子拓さん著作「戦国おもてなし時代」・「御成記」がない織田信長

2021-03-31 | 織田信長
金子拓さんは東大史料編纂所の学者さんです。「麒麟がくる」の影の時代考証家と私は考えています。ただし朝廷の描き方などは金子説とはまるで違います。真逆。歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王、信長」を担当した方でもあります。ヒストリアは最終回でこの「信長像」を「推して」ました。論理構成力が極めて高い方。でも「戦国おもてなし時代」は肩のこらない一般本です。

この中で面白いことを紹介しています。織田信長が食文化を変えたのでは、という考えです。「膳の文化」です。食器が変わったという指摘があります。また「暖かくて十分に調理された料理が、適当な時に食台に出されるように」なったそうです。全体として虚飾性や無駄を省き、「おいしく味わうための宴会」に「膳の文化」が変化したそうです。

この時代、織田信長のような人物が「おもてなしを受ける」と、「御成記」という記録文が書かれたそうです。「我が家」に信長がくるのは栄誉ですから記録に残す。そもそも「先例主義」なので、天下人が家にくる=「おなり」の時には、御成記が書かれるのは通常だったとのことです。

ところが織田信長の「御成記」はない。現存していない。織田信長が誰かを「もてなした記録」はあるのに、御成記以外でも「信長がもてなされた記録」はほとんどないのです。

どうも織田信長は「もてなされる」ことが嫌いだったらしい。御成は、身分の上下関係を再確認する政治性を持っていたのですが、そういうやり口の政治に信長は興味がないらしい。そして「くたびれた」「面倒くさい」という理由で断っていたらしい、、、とのことです。

ここからは私の見方です。

この時代に私が生きていて「もてなされる」としたら行くか。行きません。なぜなら「作法が分からない。習えば分かるが面倒くさい。」からです。「儀式のような食事」なんて何が楽しいのか。どうやら「楽しい」ものではなく「政治」らしいのだが、そんな「政治」はしたくない、、からです。

信長は尾張の田舎者です。中世人ですから作法は私よりはるかに高いレベルで知っていたでしょう。しかし「御成」の作法なんて知るわけない。生まれながらの天下人じゃありません。そこで「面倒くさい」という言葉が出てくるのではないかと思います。思っただけです。正しいとは強弁しません。

織田信長はその晩年、「左大臣就任」も「なんやかんや」と理由をつけて断ります。「左大臣」になっても別に朝廷で朝議を主催したりはしません。右大臣の時も実質的な仕事はしていません。だからなっても別に「面倒くさい」ということはないのです。

しかし困ったことに「左大臣」というのは「儀式を熟知した人間」がつく役職だそうです。朝廷の仕事はしませんが、儀式はあるわけです。そこに左大臣として参加したら、周りは当然「高い儀式知識」を多少は期待するでしょう。それはいかにも「面倒くさい」と思います。秀吉なら「そつなく」習うか、間違ってもへらへら笑いそうですが、信長は秀吉よりは多少真面目な感じの人です。

三代足利義満ならなんなくこなしたでしょうし、実際こなしているようです。子供の頃から武家かつ公家として育てられたからです。しかし信長は田舎の武士です。しかもどうやら「人が主催する儀式」が嫌いのようです。自分は主催するのです。主催者ならある程度の自由があるからでしょうか。

まあそんなこんなで信長の行動を説明するときに「面倒だから」という説明は結構成り立つのではないかと思った次第です。

本能寺の変・もし織田信忠が生き残っていたら。

2021-03-31 | 織田信長
織田信忠は織田信長の嫡男で「本能寺の変」で亡くなりました。25歳でした。母は生駒吉乃とされてきましたが、異説もあるようです。

彼は既に織田家の家督を譲られていました。岐阜城主です。天下人としては織田信長が権力を握っていましたが、岐阜城主としての織田家は既に信忠のものでした。

「愚か者」という逸話はありません。それどころか武田家を滅ぼしたのは彼です。武田は裏切りによって自壊していった感もありますが、とにかくその時の大将は信忠です。普通以上の才能を持っていたと考えていいと思います。

そこで「織田信忠が生き残っていたら織田家の天下は続いていた」という説になっていきます。織田家は、まだ「全国制覇」はしていませんが。

本能寺「光秀突発的単独犯行説」が出るのは「たまたま織田信忠が京都にいた」からです。この時の京都滞在は比較的急な決定でした。だから「信長を殺すだけではだめだ。信忠も殺さないといけない。しかし信忠の京都滞在を予想はできなかったはずだ。たまたま信忠が京都にいたから、光秀は突発的に行動したのだろう」となります。目の前に「天下人と後継者が無防備でいる」ことが、光秀の心を動かしたというわけです。

「単独犯行」に異を唱える気はありません。しかし「信忠死亡が必須」だったかについては多少意見が分かれるところです。

例えば池上裕子さんは2012年の信長伝記(大変話題となり、支持者が多い本です)で、信長の欠点を中心にして伝記を書きました。伝記なのに容赦なしです。その中で信長はあまりに自分に決定権を集中しすぎた。ワンマンにも限度があるだろというようなことを書いています。そして「信忠では難しい」とします。政治システムを整えなかった信長は、絶対的な力で家臣を統率した。しかし信忠にその絶対的な力は期待できない。と、していたと思います(ややうろ覚えです)

その他にも多くはないですが「信忠が生きていても重臣を統率できない」と指摘する方は何人かいます。

徳川秀忠は徳川の「二代目」です。優秀な人ですが、それでも徳川家康は「誰が継いでも成り立つシステム」を考えました、重臣らによる集団運営システムです。それに対して、豊臣秀吉は「なんらかの理由」で、システムを構築できませんでした。二代目の秀頼はシステムの上に座ることはできなかったのです。信忠もシステムの上に乗ることは難しかったと考えられています。システムがないのか、本能寺の変で多くが死んだためシステムが崩壊したのか、それは考えるべき点ではありますが。

明智光秀も「信忠死亡が必須」とは考えていなかったのではないか。その傍証となるのは「信忠襲撃の遅れ」です。逃げられる可能性があったし、実際、現場にいた織田有楽は逃げ延びています。

信忠が京都を逃げ延びたとします。西に向かうと大坂です。そこには丹羽長秀と織田信孝の軍がいます。兵が逃げて兵数は減っていましたが、一応軍がいます。ここで兵を募ると、摂津の領主たちが参加する可能性があります。1万ぐらいには回復したかも知れません。東に向かうと伊勢、安土です。次男の信雄がいます。兵はあまり持っていなかったようで、信雄は光秀討伐軍に参加していません。そのまま岐阜に向かうということになるのでしょうか。

摂津に行き、兵を募っているうちに羽柴秀吉が到着する。すると自然と大将は信忠になります。史実として三男信孝は大将になれませんでしたが、信忠は織田家当主ですから格が違います。

そのまま織田権力の継続。とりあえずはそうなるでしょう。しかし強大な主君におさえつけれていた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、これらの「くせ者」を信忠が信長なしに統率できるのか。少なくとも、織田家の家督を実質的に継いだ織田信雄は統率できませんでした。といって殺されることもなく、大名を続けますが、小田原攻めのあと改易です。ただししぶとく織田の血脈は残します。

「織田信忠が生き残っていたら豊臣政権はなかった」、、、一概にそうは言えないと考える学者さん。多くはないが存在します。

織田信長と正親町天皇(朝廷)の関係・公武結合王権論について

2021-03-31 | 織田信長
織田信長と正親町天皇が「対立していた」という考えが「一種のブーム」になったのは1990年代のようです。私が知らないわけです。仕事が一番忙しい時期で、歴史の本を読んでいる時間はありませんでした。「麒麟がくる」の信長も、最初は大層天皇好きだったのですが、「蘭奢待の一件」で急に天皇との関係が冷めたと描かれました。「対立的」に描かれていたとして良いでしょう。

・蘭奢待切り取り、、、正親町帝は信長からおすそ分けされた蘭奢待を公家に配り「香りをお楽しみあれ」と書いている。少しも対立していない。毛利に送ったとして、当時の毛利は信長と敵対していないので「敵に送った」ことにならない。

・信長が譲位を迫った、、、「譲位ができるのはうれしい限り」という正親町帝の「自筆の手紙」が残っている(一回目の譲位問題の時)。譲位は朝廷の「悲願」であったが、儀式に莫大な費用がかかるため、武家(援助者)の支援がなければできなかった。

ということでこの二件で「対立があった」というのは無理です。なら全く対立がなく「どこまでも仲良し」かというと違います。寺社関係で天皇が下した裁断について、信長が苦情を言った事実があります。(絹衣相論、興福寺別当職相論)また土地問題で天皇が信長に「どうにかしてくれ」と言った事実もあります。信長の家臣が土地を横領したという苦情です。

これらを「苦情ではなく対立だ」とするなら対立ですが、根本的な対立とはほど遠いものです。信長の苦情は誠仁親王が間に立って解決します。天皇の苦情は信長がしかるべき処理をしました。

このあたりの書き方が実に難しいところで、「対立していた」と考える方にとっては、「苦情」も対立を補強する「史実」となります。

1990年代の「対立説」はさらに「対立があった。信長は将軍位を望んだが拒否された。正親町天皇は信長に勝利した」と続きます。「天皇権威の浮上」を言いたかったわけですが、その後の実証的な研究によって今の歴史学者は「ほぼ」否定しています。

堀新さんは「公武結合王権論」を唱えていて、これが日本史学のスタンダードになりつつあるようです。もちろん仮説ですから全面賛成ではなく「おおむね正しい」と書く学者が多いように感じます。

それでも「残された疑問」はあります。信長は官を辞退したあと、二位という「位」は維持するものの、官につきません。朝廷とは距離をとっているように見えます。これは「距離」であって対立とは言えないものの、どう考えたらいいのかとなります。「信長の政権構想」が分かりにくいのです。

私の意見
私も天皇朝廷との「根本的な対立」はなかったと考えています。「根本的な対立」とは「足利義昭のように武力を持って争う」「根にもって非難の応酬をする」「陰で積極的に足を引っ張る」と言った関係です。「非難の応酬」、信長と信玄の間に交わされた「文句の言い合い」を想定しています。

そもそも「天皇、朝廷に対立するほどの実力」はありませんでした。儀式や寺社関係の裁判は行うものの、いわゆる政治は行いません。行う経済力、従わせる武力がありません。天皇領ですら横領されていた時代です。また寺社関係の裁定においてはしばしば不公平な結論が出て、それが信長の苦情のもとになるのです。「公正」という姿勢自体、天皇にも公家にもなかったようです。さらに公家が京都から避難して京にいないこともしばしばです。麒麟がくる、に出てきた三条西さんなどは、晩年のほとんどの時期を今川のもとで暮らしていました。

東大の金子拓さんは「史料の専門家」ですが、本の中でこう書いています。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」

上記の本は信長論としてもおもしろいのですが、「当時の天皇の実態」を知るにも大変参考になる本です。

政治をする実力は「公儀力」とでも言うべきものです。土地や利権を調整分配し、その裁定に従わせる力です。これは朝廷単独では武力がないのでむろん持ちえません。しかし武家単独でも持ちえない、そう考えるのが「公武結合王権論」です。では何故持ちえないのか。そこが実は私にはどうも分かりません。分からないので、考えています。