ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

アルナ・シャンバグ事件

2015-10-02 09:39:04 | 健康・医療

ジェフリー・スペクターさんとともに

NHK キャッチ!世界の視点 ~“安楽死”をめぐる海外事情は~ で触れられていた、

42年間(正確には41年半)の昏睡状態を経て今年5月に亡くなったアルナ・シャンバグさん(享年66歳)。

今日は彼女についてあれこれ読み知ったことを書きます。 《敬称略》

 

*       *       *       *       *       *       *       *       *       *

 

1973年11月27日: ムンバイのキング・エドワード記念病院(KEM)の看護師だったアルナ・シャンバグ(当時25歳)は、

雑役夫だったソーハンラール・ヴァールミーキ(?Sohanlal Valmiki、当時28歳)に性的暴行を受けた。

ヴァールミーキは犬用の鎖を使ってアルナの首を絞めたため、彼女の脳への酸素の供給が断たれた。

英語版ウィキによると: 彼女は当時、同じ病院で働く医師と婚約していた。 彼女が病院の地下で服を着替えていたとき、

同病院に雇われていたヴァールミーキが襲いかかり、犬用の鎖を使って彼女を窒息させ、ソドミー行為を行った。

窒息により脳への酸素の供給がストップしたため、脳幹挫傷と頚髄損傷と皮質盲の被害を受けた。

血しぶきに横たわるアルナは11時間後の翌朝7時45分に、掃除人により発見された。


 

同年11月28日: ヴァールミーキ逮捕。

事件は窃盗・殺人未遂として処理された。 これはKEM病院側が、婚約中だったアルナが社会的侮蔑の対象とならないよう、

レイプされていたことを隠匿したためだった。

 

 同年11月29日 極度の暴行によりアルナの身体は麻痺し、視覚聴覚を失い、昏睡状態にあった。

 

1974年: ヴァールミーキはレイプではなく窃盗と殺人未遂で起訴され、7年の禁固刑を宣告された。

 

1980年: 刑期をつとめたヴァールミーキは、釈放されると名前を変え、デリーの病院で働くようになった。

市当局はアルナの身柄をKEMから移送しようと試みるが、看護師たちの反対により断念する。

 

2009年: 『アルナの物語(Aruna's Story)』 の著者でジャーナリストのピンキ・ヴィラーニ(?Pinki Virani)が、

アルナの友人としてアルナの尊厳死を求めて最高裁判所に提訴する。

 

2011年1月24日: ヴィラーニの訴えに応じ、38年間昏睡状態にあるアルナの状態を調べるための

研究班が立ち上げられる。

 

同年3月7日: 最高裁判所はヴィラーニによるアルナの “慈悲的殺害(Mercy Killing)” の要請を却下する。

(アルナは人々を認識し、好き嫌いを伝えられ、普通に呼吸でき、すすんで献身的に世話をしてくれる看護婦仲間がいる。

家族代わりの彼女等がアルナの生命の存続を願っている以上、アルナは生かされ続けるべき。 という理由だった。)

しかし同時に、インドにおいて消極的安楽死を許容するという画期的な決定を下す。

アルナの尊厳死が却下されると、交代で彼女の世話をしていたKEM病院の看護師たちはお菓子を配りケーキをカットして

彼女の “再生” を祝った。 高位看護師は語った。

「私たちはアルナを、我が子のように世話してきました。 彼女は私たちと同様に歳を取り、何の問題も起こしません。

私たちは交代で彼女の世話をし、そうすることを心から喜んでいます。 彼女の命を奪うことなど、どうして考えられるのでしょう?」

(アルナの再生を祝う “本当の家族” の映像はこちら。)

 

2015年5月18日: 42年間昏睡状態にあったアルナ、肺炎で死亡。

 

 

 

 1980年代初め、ピンキ・ヴィラーニは若い駆け出しのレポーターだった。 母親は彼女に責任感を持たせようと、

アルナに起きたことを訓戒として語って聞かせた。

 

「そんなのでたらめよ。 そんな状態でいられる人なんて、いるわけないわよ?」

実際にアルナを訪ねてみたヴィラーニは、ふたたび、みたび彼女を訪ねた。

 

  

 

「彼女はほとんどの時間、緊張状態にあったわ。 コントロールを失っているから、頭が上下するの。

瞳はゆっくり開くものの、何も見えてはいない。 苦痛があるときは、頭が右から左へとぐったり動くの。

月経中は苦痛のためただ叫ぶばかり。 呻くだけの日もあれば、狂ったように笑っていたと思ったら突然咆哮に変わる日もある。

歯を検査してもらえるよう手配したの。 ひどい虫歯がベッドに抜け落ちていて、彼女が呑み込んでしまったこともあったから。」

 

ピンキ・ヴィラーニと 『アルナの物語』

       

動画 “Choosing to Die - 1”。

介護されるアルナが 1:28 と 5:43 から短い映像に記録されている。 アルナの事件の再現は 3:20 から。

 

過去40余年にわたってアルナの “家” だった、KEM病院1階にある第4病棟

 

 アルナの死を知って、ヴィラーニは言う。

「複雑な感情なんてない。 安堵したわ。 アルナの死を悲しむふりをしたって意味がない。

彼女はようやく苦痛から解放されたのよ。 1973年11月の夜から耐えてきた苦痛から。 彼女はこの世の地獄にいたのだもの。

平和な世界へと旅立った彼女は、インドに画期的な消極的安楽死を遺していってくれたわ。」

 

  

 

 

 

 

アルナの葬儀には、何百人もがお別れを言うために集まった。 アルナの介護をしてきた何十人もの看護師たちも、葬列に加わった。

KEM病院長とアルナの甥(姉シャンタの息子)が、火葬用の薪に火を点けた。

(当初病院側と親類側のどちらが喪主をつとめるかで揉めたが、合同でということで解決したらしい。)

 

アルナの死の直後、病院側は 「アルナの家族は42年間誰もアルナに会いに来なかった。 病院の同僚がアルナの家族となって

彼女を親身に世話した。」 と申し立てた。 すると家族は 「はじめの12年間は家族が、面会時間が許す限りアルナの世話をした。

結婚や引越しで離れて暮らすようになってからも、月1、2回は面会に行っていた。

家族が一度もアルナに会いに行かなかったというのはでたらめだ。」 と反論。

そう言いつつも家族は、 「病院の同僚たちは、それ以上望めないほど親切丁寧にアルナの面倒を見てくれた。

我々家族は、そのことに永遠に感謝します。」 と述べている。

 

 

アルナは家族に見放されたわけではないようだ。 経済的困難から彼女を介護することが不可能だっただけで。

アルナは9人兄弟の8番目で、14歳年上の姉シャンタ・ナヤーク(下左)には4人の子供がいた。

うち一人は故人だが、残る3人――アルナの姪2人と甥(下右)――は、アルナの葬儀に出席した。

       

アルナの尊厳死がニュースになった2011年、ナヤークは 「自分たちにアルナの面倒を見ることはできないが、アルナには

自然にお迎えが来るまで生きていて欲しい」 と語った。 (その後ナヤークは亡くなったらしい。)

15歳で結婚しムンバイに出てきたナヤーク。 アルナも看護学校を終えるとムンバイに上京し、KEMに職を得た。

外科医との婚約が決まったアルナは、結婚式の費用を貯めるためナヤークの家に下宿していたという。

運命の日、アルナは予定より早く出勤した。 食中毒が発生したため、呼び出されたのだった。

 

「アルナは 『バケツに洗濯物が残っているけど、帰ったら続きをやるわ。』 と言って出て行きました。

その晩アルナは戻りませんでしたが、緊急事態で残業しているのだろうと考えました。 翌朝10時頃に同僚の一人が駆け込んで来て、

『アルナの具合が悪い』 と言いました。 病院に駆けつけて、彼女が重症で意識不明だと知ったのです。

その日遅くなってから、彼女がどんな目に遭ったのかということと、

彼女は二度と歩くことも話すこともないかもしれないことを聞かされました。

アルナの婚約者だった外科医は毎日アルナの元を訪れ、彼女の世話をしました。

彼は事件後10年間も結婚しませんでした。 とうとう結婚したのも、家族からのプレッシャーが強かったためです。

アルナの状態が変わることはありませんでした。 アルナは胎児のように身体を丸め、私たちを認識することもありませんでした。

数年後にアルナが別の病院に移されたとき、私たちがアルナを訪問する頻度は減りました。

でもKEM病院の看護師たちの反対により、アルナはKEMに戻されました。

病院側はこの頃から私たちに、アルナを連れて帰るようにとプレッシャーをかけ始めました。 でも、そんなことは無理でした。

夫が病に倒れ、4年間病床にあったのです。 娘たちと息子も結婚し独立しました。

これ以上病院からプレッシャーをかけられないようにと、病院から遠ざかることにしたのです。 ・・・」

 

 

『アルナの物語』 を著したジャーナリストのピンキ・ヴィラーニは、釈放された加害者ヴァールミーキの足跡を追おうと試みた。

しかしKEM病院にも警察にも裁判資料にも彼の写真は残っておらず、断念せざるを得なかった。

ヴァールミーキはエイズか結核で死んだという報道すらあった。

 

しかしながら、アルナの死が公表されて間もなく、ヴァールミーキは義父の故郷であるウッタル・プラデーシュ州のパーパ(?Parpa)村で、

家族と暮らしていることがわかった。 出所したヴァールミーキは同州の故郷の村に戻った後、1980年代後半にパーパ村に移った。

2部屋の家で妻・息子2人・娘1人・孫3人と共に暮らす。 もう1人の娘は結婚して別に住んでいる。

村から25km離れた発電所に自転車で通い、労働者兼掃除夫として働き、261ルピー(477円)の日当を得る。

同じく労働者の息子たちの日当は、200~300ルピー(365~548円)だ。

 

ヴァールミーキは事件後の生活を、罪滅ぼしのための苦行とみなしているという。

「娘がいたが、刑務所にいるうちに死んでしまった。 私が過ちを犯したために死んだのだ。

出所してからも、長いこと妻には触れなかった。 息子が生まれたのは出所して14年も経ってからだ。

深く後悔している。 彼女と神から赦しを得たい。」

 

アルナの死を知ったのは、ムンバイのジャーナリストが彼を探してやって来たためだった。

2部屋しかない彼の家にあるテレビは当時壊れていて、一家は新聞を読まない。

「朝は6時に家を出て、夜帰るのは8時頃だ。 片道25kmを、自転車で通勤している。 新聞など読む暇がない。

あの事件後10年ほどは、ほとんど眠れなかった。 あんなことの後であの病院に戻れるわけもない。 ムンバイを離れた。

私は死んでいればよかった。 妻は息子たちが面倒を見てくれるだろう。 疲れた。 今すぐに死にたい。」

 

  

 

事件についての、ヴァールミーキ側の話。

「アルナ看護師はいつも私をいじめの対象にしていた。 私が犬を怖がっていることを知っていながら、(動物実験用の)

犬の餌やりと檻の掃除をいつも私にさせた。 担当の医師や私の上司に苦情を申し立てて転属を願い出たが、

誰も聞いてくれなかった。 だれが掃除夫の話などに耳を貸す?

すべては怒りの発作のなかで起きた。 暗闇で喧嘩し、私はパニックした。 お互いを殴り合ったが、そのとき私が盗んだとされている

置物を引き倒したかもしれない。 レイプはなかった・・・・・ 警察は私を殴ってレイプだと言い続けたが、レイプはしていない。

誰か別の人間の仕業だ。 あの晩私はアルナ看護師に、数日間の休みが欲しいと願い出た。 妻の母親が病気だったのだ。

妻とともに義母を訪ねたかったが、アルナ看護師は拒否した。 もし休みを取ったら私は仕事をせず、犬の餌を盗み、

それでも休みは欲しがったとの苦情を書面にすると言った。

犬の餌など盗んでいない。 犬が怖いのに、どうしてそんなことができる? ・・・・・ アルナ看護師は雑役夫や看護師たちと

仕事中にカード遊びをしていた。 だから彼女に、私について苦情を申し立てたうえ休みをくれなかったら、

私も彼女の上司に彼女のことを言うと言った。 その後は言い合いになり、つかみ合いになった。

怒りのあまり、自分が何をしたのか覚えていない。」

(レポーターに応えるヴァールミーキの映像はこちらこちら。 最初の映像では 「彼女を一度叩いただけ」 と言っていますね。

もちろんレイプなどしていないし、もししていたらそれでも告発されたはずだと。)

 

ヴァールミーキの長男は、以前父親に、アルナの尊厳死が要請されたことを話したという。

新聞に書かれていた、アルナの家族がいなくなってしまったこと、彼女が病院で生き続けていることなどを話すと、

ヴァールミーキは興奮し震え出した。 尊厳死が却下されると、元に戻ったという。

彼はアルナの件について何も語らず、家族も訊けずにいる。 長男は言う。

「私たちの習慣で、父親に女性に何をしたかなどとは訊けないのです。 伯父は何度も私に、父が私たちの

生活を壊したのだと聞かせました。 ムンバイで暮らし続けられただろうにと・・・・・。」

 

次男は12歳のときに母親から事件について聞かされた。

「母は私に、父を赦すべきだと言いました。 新聞は彼の犯罪を大げさに伝えていると。

母は、兄は父親に腹を立てているが、父は間違いを犯したのだから愛してやれと言います。

でも父は、私を学校にもやってくれなかった。 私は自分の名前すら書けません。

どうして父を赦せるというのですか?」

 

人口6千人のパーパ村の住民はヴァールミーキ(ワールミーキWalmikiとする情報源も)の過去を知って

憤り、彼を村から追い出そうとする動きも出たそうだが、その後の経過は不明。

 

 

 アルナの死が報じられると、ツイッターには同情が寄せられた。

多くの人が、彼女はもっと早くに逝かせてもらえるべきだったと感じている。

インドに “死ぬ権利” がないことが、彼女の辛苦を増幅させたと。

 

「苦痛は42年間も続くべきではない。 彼女の苦難はインドに恥をもたらした。」


 

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・・・・・ 41年半 ・・・・・。 気が遠くなりそうな長さではありませんか。

1973年11月というと、現在53歳の私は小学6年生でした。 その後私は成人し、働き、ドイツ旅行し、イギリス遊学し、結婚し、

妊娠・出産し、ムスメを育て上げたけれど、その間アルナさんはず~~~っと病院のベッドを離れることはなかった。

身体機能に加えて視覚・聴覚・会話能力を失い、存在していただけ。

気の毒すぎて、何と言えばいいのか・・・・・

 

アルナさんの尊厳死が却下されたとき、アルナさんの世話をしていた同僚看護師たちは

「これは私たちの職業にとっての勝利!」 と言って大喜びしていたけれど。

もちろん彼女の状態に自分を置き換えて考えてみたのでしょうね?

「気の毒な元同僚を献身的にお世話する白衣の天使の私達」 の立場に慣れ過ぎて、

その習慣を失いたくないがために尊厳死に反対したんじゃないですよね?

アルナさんの状態で横たわるのが自分の母親、姉妹、娘、あるいは自分自身だったとしても、

尊厳死は拒否していたんですよね?

あの状態で生き続けるなんて私は絶対にゴメンだし、あの状態で生き続けることを誰かに強制も絶対にできません。

ましてやそれが、自分にとって大切な誰かだったらなおさらのこと。

 

看護師たちがアルナさんの介護を続けられたのは、大勢だったからだと私は思います。

ある看護師が一人でアルナさんを自宅に引き取って世話をしたわけじゃない。

インドは貧しい国で、アルナさんの兄弟姉妹がアルナさんを引き取れなかったのも容易に理解できます。

だから病院側は、アルナさんの家族が一度も面会に来なかった、自分たちがアルナさんの家族代わりだったなどと

公言すべきではなかった。 公言しないでいたら、より尊敬を得ていたでしょうに。 少なくとも私からは。

 

死人に口なし、昏睡状態患者にも口なし。

加害者ヴァールミーキの話は、眉唾ものと思わざるを得ません。

彼が今になって何を言おうとも、アルナさんは反論できないのだから。

本当に一時的にかっとなって彼女を襲ってしまったのなら、我に返った時点で助けを呼ぶことができたはず。

11時間も放置されずにいれば、脳損傷は軽くて済んで昏睡状態は避けられたかもしれません。

「自分はレイプしていない」 と言うけれど、彼が立ち去ってから床に横たわっていたアルナさんを

偶然見つけた誰かがレイプした!? ・・・ というのも信じ難い。

やはり、彼女の名誉を守るためレイプ被害は伏せられたので、加害者がそれを自分に都合のいいように悪用して

「レイプはしていない」 と主張していると考えるのが一番理にかなっていると思います。

しかも犯行現場を去る前に、彼女の腕時計とイヤリングを盗んだそうだし。

それだけでも、かっとなったための突発的犯行とは信じ難い。

気の毒なのは、彼の家族。

特に、国内どころか世界の注目を集める犯罪を犯した男を父親に生まれた子供たち。

ヴァールミーキは出所後どこか遠くへ行って、一人で生きればよかったのに!

 

 

結婚を控えての前途洋々から、一転して想像を絶する過酷な運命を背負わされたアルナさん。

自らの意志では動かせない身体に閉じ込められ、苦痛に苛まれながらの41年半の “存在”。

それに終止符が打たれたことに安堵するとともに、

アルナさんのご冥福を、心からお祈りします ・・・・・

 

 

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