ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベル(1833~96)は、
父親が建築関係の仕事を生業としていたことから
建築関係に貢献する様々な爆薬の開発と生産により
莫大な資産を築いたのですが、
自分の発明が工夫され軍事兵器となり
多くの人の死を生み出したことに心を痛めていた
彼の遺言によってノーベル賞が創設されます。
「遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
毎年、その前年度に人類に最も貢献した者に
その利子を賞金の形で与えるように。」
アメリカで最も由緒ある博物館とされる
ワシントンDCにあるスミソニアン博物館は、
ジェームズ・スミスソン氏の遺言によって創立されました。
スミソン氏の父親はイギリスの貴族のようで
スミソン氏の生誕地はフランス・パリで国籍はイギリス、
死没地は、イタリアのジェノヴァ。
生涯独身だったスミソン氏には
正式な遺産相続人はいませんでした。
で、全財産を一度も足を踏み入れたことがない
アメリカ合衆国に遺贈。
このスミソン氏の判断の理由が
明かにされているのかも知れませんが、
全く知らない私にとっては不思議と言うか謎です。
ジェームズ・スミソンの遺言
「私は、ワシントンに
スミソニアン・インスティチューションと言う名前で
知識の増大と普及に寄与する組織を設立するために
全財産をアメリカ合衆国に遺贈する。」
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
豊臣秀吉の遺言には、秀吉の名前の後、五大老の
徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元が
証人として記されているそうです。
慶長3年5月15日に最初の遺言として11箇条を残し、
7月4日には家康に秀頼の後見を依頼し最後の遺言は8月5日、
豊臣秀吉の遺言
「秀頼が無事に成長するようにこの書き付けの衆としてお頼み申す。
これ以外には何事も思い残すことはないので。」
で、関ケ原の合戦からの~大阪の冬~夏の陣。
秀吉は空の上から地上の様子を見てどう思ったのだろうか。
「あんだけ約束したやん。あんだけ頼んだやん。」
秀頼公の墓は、京都の養源院に、
秀頼公の首塚と言われるものが京都の清凉寺にあります。
徳川家康の遺言
「我が命は終わりに近づいたが秀忠が立派に政治を行っているので
天下のことについては心配をしていない。
しかし、将軍の行う政治が道を外れ多くの人々が
苦しむことになれば誰でもその座に代わるが良い。
天下は一人の為のものではない。天下は全ての人のものであり、
その全ての人のために天から任されたものである。
四海安穏で万人の幸せになるのなら
これは家康の望むところである。」
法的に有効な遺言で世界一短いと言われているのが、
1967年 ドイツ・ヘッセン州の
カウール・タウシュ氏の遺言。
「全てを妻に。」
白洲次郎は、戦後に吉田茂の側近として活躍し、
「おれたちは戦争に負けたかもしれないが、
奴隷になったわけじゃない!」
とGHQと渡り合った兵庫県芦屋市出身の人物です。
日本で一番短い遺言と言われている
白洲次郎の遺言
「葬式無用、戒名無用」
遺言は、故人が自らの死後のために
信頼する人や愛する人への最後の恋文のようにも思えます。
最後の時に誰からも悪く言われないように、
思われないように生きることが出来た。
よりも
誰かにどうこうではなく
自分の心に恥じない人生だったと言い切りたいですね。
そして、案外と楽しめたってね。