KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

またまた予報外れ

2022年02月14日 | 俳句
天気 雨のち曇のち晴
起きてカーテン開けると、雨になっていた。部屋から見下ろして写真撮ったら、何だか留置場の窓越しの風景みたい。って、入ったことないので知りませんけど。でも、今の気分はそれに近いかも。

またまたの予報外れ、こうなると週末に来るという三度目の南岸低気圧はどんな予報になるのだろう?以前、降らない、と思って大雪になったことがあって大変な目に遭ったことが・・それを思えば予報外ればかりというのも悪くはない。

午後、少しだけ日差しが出たのでラウンジで日向ぼっこ。というより、部屋に居たら突然睡魔が襲ってきたので、珈琲淹れて日向で飲むことに。すると、耳の遠いジイサマがしきりにスマホで何やら・・やだな、と思ったら案の定「これ、教えてくれる?」と来た。合う補聴器がないからと使わないので、最近は話すこともなかったのだが「私に解る簡単なことなら」と。
どこやらの会社のスマホが、3月で使えなくなるとかで、ガラケーから買い替える90代の人が他にも。身内が買い替えてくれるものの、この面会禁止の中では教わることも出来なくて困っているようだ。
解らないのは、電話帳の新規登録の仕方。大体が、私はスマホにしてから日本語入力はしていないので、昔のことを思い出しながら・・
と作業を始めたら、あら、今の老人向けスマホ、電話帳も音声入力が出来るではありませんか。でも、それを教えるのも面倒で、何とか、日本語での新規入力を教えた。
それ以上は、耳の遠い人には無理。なので断った。長い時間大声で会話していると私の心臓は破裂する。冗談抜きで過呼吸状態になってしまうことがある。身内が買い替えてくれても、面会禁止の今は教えることが出来ないのだ。介護士さんに訊いたりしているらしいけれど、限度がある。

本当に、個々人に合う補聴器は時代が進んでも作れないものなのだろうか。無論、聴力の出ない障害のあることは知っている。でもITの時代、昔と同じことを言う難聴者の多いことが信じられない。怒られると思うが、周囲が気遣っているから、当の本人は耳が遠くても困らないのかもしれない、と思う時がある。

私は父と姉が障害者に該当しない程度の難聴だったので、耳の遠い人のことは理解しているつもり。でも身内だったし耳元で普通に話せば会話出来たし、困るところまではいかなかった。
でも、赤の他人と、このコロナ禍の中で顔をくっつけて話す気にはならない。介護士さんは若いから、まだ大声を出せるけれど、私のような、大声出し続けるのが困難な人間も居る。それでも、用があれば耳の遠い人とも話さねばならない。
周囲の人の気づかいを、当の本人たちは自覚しているのかなあ、と思うことがある。少しだけ遠い人は、自分はさほど耳は遠くない、と思っている。私の隣の人も、例の元教師も、普通の声で話していて、私が声のトーンを普通より少しだけ上げていることを知らない。少しだけでも長い話になると苦しいので、あまり話さないようにしている。でも、話掛けられたら黙っている訳にはいかず・・
介護士も看護師も、初対面だと必ず大声を出す。そうすれば間違いがないからだ。「私、耳だけは良いので普通の声でお願いします」とこちらからお願いしている。大声でキンキン話されると、かえって不愉快になるのだ。
聴覚だけは若者並み、などと自慢していたが、それが苦痛になることもあるとはとは思ってもいなかった。
・・戦争が起きるかもしれないのに、相変わらず私の書くことは小さな愚痴ですねえ。

花を待つ病の数の増ゆるとも   KUMI
コメント (4)
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