面白い記事が見つかりましたので、御紹介致します。
池真理子の略歴はココ(←当ブログで以前取り上げたものを加筆・修正の上転載)
週刊平凡(1976.12.23日号)より
わたしは"なつメロ歌手"ではない・・・・・・
57歳池真理子(もとスイングの女王)が
過去を捨てインカ音楽(フォルクローレ)で大勝負!
池真理子(57歳)という名の歌手を御存知ですか。かつて"ブルースの女王"淡谷のり子、"ブギの女王"笠置シヅ子、とならんで"スイングの女王"と呼ばれたこともある、往年のスター歌手だ、
彼女の芸暦は古い。昭和20年10月、コロムビアの戦後第1号歌手として『愛のスイング』でデビュー、『ボタンとリボン』『センチメンタル・ジャーニー』などのヒット曲で一世を風靡した。NHK『紅白歌合戦』にも昭和27年の第2回以来5回出場の実績を持っている。
昭和23年に結婚、26年に長女・麻耶さん(25歳)が生まれたが翌27年に離婚。その麻耶さんも嫁いで、現在の彼女は東京・豪徳寺でお手伝いさんの女性とふたり暮らし。往年の美声は今も衰えず、毎日欠かさない発声練習の音域は3オクターブ以上と、あいかわらず健在を誇っている。
ところで、歳末ともなれば、各局とも"なつメロ"番組の制作におおあらわだ。なつメロ歌手の代表的存在ともいうべき池真理子のことだ、とうぜん東奔西走の忙しさと思ったら、じつはそうではなかった。彼女、これまでにもこの種のテレビ番組にはほとんど顔を見せていない。
「けっして当時の歌手のみなさんとごいっしょにうたうのがいや、というわけではありません。お声がかかれば喜んで出させていただきます」
というが、彼女にはいま"なつメロ"以上に打ち込んでいるものがあって過去を売り物にするヒマがないのだ。南アメリカはアンデス山脈のふもとに栄えていたといわれるインカ帝国、そのインカの調べを今日に伝えるフォルクローレの魅力が、いま、池真理子のハートをがっちりとつかんで放さないのだ。
フォルクローレといってもピンとこない向きもあるだろう。
だが、一般にはシャンソンのように思われている『花祭り』や、『コンドルは飛んで行く』という歌はご存知だろう。あの原曲が、実はフォルクローレなのだ。
思えば"スイングの女王"池真理子の全盛時代は昭和28年ごろまで。昭和30年ごろから彼女の人気は次第に下降線をたどり、新境地を開拓すべく35年の8月、アメリカに飛んだ。
たまたまニューヨークで日本初公演に出発しようとする『トリオ・ロス・パンチョス』のパーティーに出席した彼女は、ラテン音楽に魅了された。
「なんて素朴な人情味のある音楽なんだろう・・・そう思うと、矢も盾もたまらずラテン音楽を勉強したくなりました」
1年後、帰国した彼女は、さっそく中南米音楽研究の第一人者・吉田秀士についてスペイン語の勉強を始めた。
37年、彼女は新リズム"パチャンガ"でラテン界再デビューするが、当時の日本は"ドドンパ娘"渡辺マリのドドンパのリズムの全盛期。だが彼女のラテン音楽への意欲は少しも衰えず、それからもあいかわらず地道なコンサート活動を続けてきた。
彼女の勉強熱心には定評がある。ジャズ歌手時代は英語を、ラテンに転じてからはスペイン語を・・・。そのスペイン語を吉田秀士さんに師事してすでに15年、
「いまだに吉田教室を卒業できないんですよ」
と彼女は苦笑する。
問題のフォルクローレとの出会いは昭和46年。
中村淳真(あつまさ)さんの作曲した組曲『インカ王女の子守唄』を聞いた彼女は、同じ中南米音楽とはいえ、これまでのラテン・ミュージックとは一味も二味も違ったインカ音楽の魅力にたちまちとりつかれてしまった。
「それまでインカ帝国といってもお伽話の国くらいにしか思っていなかったんですよ。もちろん場所なんて知りませんでした。地球儀で、日本とは正反対側の現在のペルーのへんだとわかって驚いたり感心したり・・・」
凝り性の彼女はさっそく書店を駆けまわり、インカ関係の書物を買い集めたが、その数がなんと約80冊という熱のいれよう。
同時にインカ音楽のレコードも探し回ったが、
「いまと違って、当時はまだ大きなレコード店の民族音楽のケースに現地録音の器楽曲が2~3枚、ラテンのケースにユパンキのものが1~2枚ある程度で、インカ音楽のものを・・・と店員に尋ねても満足に返事も返ってこない状態でした」
それでも彼女はその乏しいレコードを聴きながら、彼女は、少しづつインカ音楽への理解を深めていった。彼女がいちばん興味を持ったのは、インカ音楽の音階がドレミファソラシドのファとシの半音を欠いた5階音であることだった。日本古来の音楽も、これとまったく同じ5階音から成っている。
「インディオ(インカ帝国の末裔といわれる原住民)は東洋人そっくりといわれています。黄色い肌、黒い髪、生まれたばかりの赤ちゃんのお尻に蒙古班という青アザのあるところなど、日本人と少しも変わりません」
5階音のメロディーといい、インディオの容貌といい、あるいはわれわれ東洋人の兄弟だったのでは?
そう思うと、彼女はじっさいにアンデスを訪れ、その目でインディオたちの風俗を確かめたくてたまらなくなったという。
その彼女の念願がやっとかなえられたのは48年7月のこと。
「ある後援会の関係されている会社でペルー旅行の話があり、私もいっしょに行かないかと誘われました。当時、東京で3本、大阪で2本、テレビの仕事が入っていましたが、この機会を逃しては・・・と、お仕事を全部キャンセルして出かけました」
現地ではリマ、クスコなどのインカ帝国の遺跡を1ヶ月見てまわった。
「自分の目で現地を見て歩けるという嬉しさで、あわてて日本を飛び出したものの、あちらと日本では季節が正反対だということをすっかり忘れていたんです。日本は真夏でも、あちらは真冬。出発するときは夏姿だったのが、羽田に帰ったときはあちらで買ったポンチョなどを仰々しく着込んで・・・まるで西洋乞食みたいだったんですよ」
と彼女は笑う。
ことし7月15日、彼女は京都で《池真理子歌手生活30年記念》と銘打ってリサイタル『インカのしらべ』を開催した。
会場は意外にも若い人たちで超満員だったという。
過去30年の歌手生活をふりかえって、彼女はこう述懐する。
「私はジャズから入りラテンを経て現在のフォルクローレにたどりつきました。いろんな方から日本人の歌を忘れるな、というご忠告をいただきますが、私だって日本人です。日本の音楽をかたときも忘れたことはありません。いまやっているフォルクローレも、お稽古は原語でやっていますが、ステージではなるべく日本語に訳してうたうように心がけているんです」
フォルクローレといえば、さる11月から約1ヶ月間、世界のフォルクローレの第一人者、アタウアルバ・ユパンキの日本公演は、全国17か所の会場がいずれも超満員という大成功をおさめた。
池真理子が過去6年フォルクローレに寄せてきた愛情と努力が、ようやく実り始めたともいえるだろう。
「音楽には国境も人種の区別もありません。それに年もね」
という池真理子の声は、明るくはずみ、その顔の艶もまるで40歳そこそことしか思えない若々しさだった。
池さんの歌への関心はこれからさらにロシア音楽へと向かうことになります。
2000年に亡くなるまで、生涯現役として様々な歌に関心を持ち、学び、歌い続けた池さんは凄い歌手だったのだな...と改めて思います。
ナマのステージを一度観たかったです…
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はじめまして、管理人/函館のシトです。
池真理子さんの元夫は鈴木大拙氏の子息の鈴木勝(「東京ブギウギ」作詞者)です。