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キャサリン妃に強力育児の助っ人現る

2014-03-12 22:00:00 | ニュース

www.cnn.co.jp (出典)

 ジョージ王子に乳母が来たらしい。

 キャサリン妃もこれで少し育児も楽になるのかしら?

 その分、公務をさせられるかもしれないが…。

 しかもこの乳母は凄腕と呼ばれる人で名前等の詳細は公表されていないが、スペイ人で30歳代半ばらしい。

 独身で今までも著名な家庭に雇われていた方のようだ。

 仕事熱心ということで有名らしい。

 英国滞在歴も20年近いそうだ。

 乳母が付く。

 それくらいしないと、パパラッチ攻撃の強い英国では参るでしょうね。

真央の憧れ、世界初のトリプルアクセル先駆者、伊籐みどり

2014-03-12 12:30:00 | 日記風

blog.goo.ne.jp (出典)


 世界で初めてトリプルアクセルを成功させたのは、日本人だ。

 伊籐みどりという少女時代から「ジャンプの申し子」「ジャンプの天才」と呼ばれていた少女だ。

 出身:愛知県名古屋市
 出生日:1969年8月13日

 3歳から家族レジャーの1つとして名古屋スポーツセンターに行っていたが、5歳のとき、山田満知子に見い出され、幼稚園の内から小学生のスケート教室に年齢を偽って参加していた。

 1980年 小学4年で全日本ジュニア選手権を制して、1981年世界ジュニア選手権に史上最少の日本代表に選出され、フリ―で優勝した。

 このあたりから天才スケーターの名と呼ばれるようになる。、


 1989年 もっとも高得点をとったフィギアスケータ―としてギネスブックに載る。 
 1992年アルベールビル五輪女子シングル銀メダリスト
 1985年ー1992年まで全日本選手権8連覇 
 2004年 日本人として初めて世界フィギアスケート殿堂入りする


 ・3回転ジャンプへの道

 小学6年から3回転ー3回転を飛んでいた。
 中学生でアクセルを除く5種類の3回転ジャンプを習得する。(当時は5種類の3回転ジャンプを飛ぶことは体力的、技術的に不可能と思われていた)

 1992年で引退するまでに治療回数は500回以上にもなった。

 3回転アクセルを跳ぼうと始めたのは中学1年の頃、中学3年のシーズン中に練習を初めて3か月ほどで着氷に成功する。が、競技会では成功はしていない。

 1988-1989シーズンの愛知県フリ―選手権で3回転アクセルに成功した。競技会での成功は初めだ。
 1988年 国際大会としてはNHK杯で成功する。

 五輪でも成功させているが、成功させたのは、伊籐みどり、浅田真央の2選手だけだ。


 midoriito.blog42.fc2.com (出典)

 解説者の五十嵐文男氏によると、ジャンプは正確で高さがあり、右足のフリ―レッグが左足の膝上の高い位置に巻き付けるのが特徴だったようだ。
 元フィギアスケート選手の今川知子氏によるとジャンプの助走やジャンプ後の滑りのあとの失速がない。ジャンプの回転不足もほぼない。

 ジャンプは高い時は40センチを越え、ピーク時には64センチにも達した。

 ただ、当時の日本人はまだ手足が欧米人と比べると短かったこと、伊籐自身に手足の舞踊的な美しさが賭けていたので、高校時代はバレエ教室に通い表現力もあげた。

 その後「ジャンプの伊籐」から「氷上の舞姫」「東洋の真珠」と呼ばれるようになる。

 五輪はサラエボ、カルガリー、アルベールビルと3回に出ている。

 このあと、プロに転向。


 私生活では
 2004年 元劇団四季のミュージカル俳優八巻大と結婚
 2006年 離婚
 2009年 一般男性と再婚

 2014年 NHKの報道番組で函館市文化スポーツ振興財団で、子ども達にスケートを指導している姿が放送されたようだ。



 伊籐みどりがなければ、浅田真央に受け継がれたトリプルアクセル(3回転半)はここまで浸透しなかった。

 まさしく先駆者だった。

ト―ニャ・ハーディグー事件だらけの元フィギアスケーター

2014-03-12 02:00:00 | 日記風

 ameblo.jp (出典)


 フィギアスケートの歴史が長ければ色々な選手が出てくる。

 悪役として有名になったのが、ト―ニャ・ハーディングだろう。

 現在は43歳でプロボクサーになっているが、現役時代は2つの事件を起こしている。


 オレゴン州ボートランド出身

 1992年アルベールビル五輪、1994リレハンメル五輪の女子シングル米国代表。

 1991年の世界フィギアスケート選手権2位、この年、女子として史上2人目のトリプルアクセルを成功させている。


 しかし出た五輪でそれぞれ事件を起こしそれの方が今や有名だろう。


 ・リレハンメル五輪直前「ナンシーケリガン襲撃事件」

 1994年1月6日、リレハンメル五輪の選考会にもなる全米選手権の会場で練習を終えた

 
 blog.goo.ne.jp (出典)

 ナンシー・ケリガンが膝を殴打される。

 その為負った怪我で全米選手権を欠場し、ハーディングがこの大会で優勝する。

 1990年にハーディングと結婚した(1991年離婚)元夫、ジェフ・ギルーリーらが事件から2週間後逮捕される。

 元夫が司法取引を受け入れ、ハーディングに向いていた疑惑の証拠となるものを提出する。

 一時はハーディングは全米スケート協会、アメリカ五輪委員会から五輪を追放されかけるが、ハーディングが法的措置をほのめかしたため、そのまま残った。
 


 ・リレハンメル五輪、靴ひも事件
 
 テクニカルプログラムでのコンビネーションジャンプをトリプルルッツが両足着氷となり10位と出遅れる。
 2日後のフリ―では、なかなか出番になっても現れず、失格寸前になってから現れるが、最初のトリプルルッツがまた失敗し、演技が始まり、1分も経たない内に泣きだし、ジャッチ陣に


 blog.goo.ne.jp (出典)

 靴ひもが切れて演技ができないと訴えるが、映像等では切れているように見えない。
 しかしジャッジはやり直しを認める。
 お陰で次の出番だったカナダ選手のジョゼ・シュイナールの出番が早まり9位に終わる。

 ハーディングはグループ最後に再登場し、トリプルルッツは成功し、他の5種類の3回転も全て決めた。
 しかしシングルアクセルという判定を受け8位になる。

 ここでケリガンは総合で銀メダルを獲得。

 ジャッジが演技のし直しを認めた途端それまで泣いていたハーディングが突然笑顔になり、ガッツポーズをしたことから、かなり疑惑は深い。

 1994年、リレハンメル五輪後にハーディングが罪を認め懲役刑は免れるが、全米選手権での優勝と1999年までの公式大会出場権やコーチになる権利をはく奪される。


 その後も、元夫にプライベートビデオを暴露される、同棲している恋人に暴行を働き逮捕されるなど、リング外での話題を集める。

 1998年 長野五輪開催前に米国テレビでケリガンと対面する。


 
 ameblo.jp (出典)

 ケリガンに直接の謝罪をし、ケリガンも受け入れた。

 1999年プロスケート選手権に招待され、2位になる。再出発するかと思われたが、翌年、ボーイフレンドへの暴行容疑で逮捕され、プロスケーターとしての道が終わる。

 2003年 プロボクシングに挑戦

 2008年 総合格闘家としてデビューする。




 これだけ、見ているとナンシー・ケリガンは被害者にしか見えないが、ナンシーもなかなかいい性格らしく、問題を起こしている。
 特に実父の死で兄が暴行を働いたためという報道もある。


 似た者同士…と言えなくないことも…。

 多分、靴ひも事件で出番が早まったシュイナール以下の選手が1番可哀想だったかも?