行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」 目次

2008年10月25日 | 奥の細道
1  深川~両国       芭蕉稲荷
2  両国~千住       隅田川船旅
3  千住~栗橋       草加
4  栗橋~鹿沼       室の屋島
5  鹿沼~矢板
6  矢板~黒羽       雲巌寺
7  黒羽~白河       殺生石、遊行柳、白河の関
8  白河~日和田      須賀川
9  日和田~飯坂      安積山、しのぶもぢ摺り、医王寺
10 飯坂~大河原
11 大河原~仙台      笠島、武隈の松、宮城野
12 仙台~松島       壷の碑、末の松山、塩竃神社
13 松島~登米       石巻
14 登米~平泉       平泉、光堂
15 一関~岩出山
16 岩出山~尾花沢     尿前の関、山刀伐峠
17 尾花沢~立石寺 
18 大石田~新庄
19 新庄~羽黒山      最上川
20 月山~湯殿山
21 羽黒山~酒田
22 象潟~由良
23 由良~勝木
24 勝木~村上
25 村上~新潟
26 新潟~出雲崎
27 出雲崎~直江津
28 直江津~市振
29 市振~富山
30 富山~高岡       那古の浦
31 高岡~金沢
32 金沢~山中温泉    小松、那谷
33 山中温泉~永平寺   全昌寺、潮越の松
34 永平寺~敦賀      天龍寺、福井
35 敦賀~色ヶ浜
36 敦賀~関ヶ原
37 関ヶ原~大垣



平兵衛の「奥の細道」-37 関ヶ原~大垣

2008年10月24日 | 奥の細道
10月4日(木)晴
今朝は「奥の細道」最終日の出発だ。
関ヶ原の観光マップを見ると至る所に○○陣跡や戦場跡そして首塚等があり、簡単に見切ることは出来ない。東首塚や陣場野公園の「家康最後陣跡」を見学し、R21関ヶ原バイパスを東進、大高交差点を右折R21へ出る。近くに家康初陣跡(桃配山)がある。地図で見る限り三成率いる西軍は南宮山の毛利軍を含め鶴翼の陣構えを敷き、その中に家康率いる東軍がノホホンと入り込んだ様に見えるが、事前に十分な内応を図った上での進軍であろう。
一ッ軒交差点先から旧中山道に入ると、良く整備された道筋に松並木が美しい。垂井宿西の見付では広重の絵の複製を見、静かな街道には二基の常夜灯を配した大鳥居があり、駅入口を過ぎ相川橋を渡る。
R216を横切ると左手に広大な美濃国分寺跡がある。北に山を背負い南は広々とした平野が続き国府としては最適の地だったろう。
これより美濃赤坂の明星輪寺(赤坂の虚空蔵さん)へ向かうが、中山道に戻り道なりに進み赤坂の宿に着く。町中の虚空蔵口バス停から北へ急坂を登る。秋とは言え強い日差しの中を登ること暫し、ようやく木立の中の山門に入る。ここでは芭蕉句碑「「はとのこえ みにしみわたる いわとかな」を見る。木の間隠れにこれから進む大垣方面を望むと、吹き上げる風が汗ばんだ身体に心地よい。
山を下り街中に戻り「中山道 赤坂宿」の史跡や豪壮な矢橋家を見ながら駅に向かう。線路に沿って裏道をただただ真南に走り、中曽根町交差点で美濃路(R31)を左折大垣に向かう。養老鉄道を越え道が整備されてくると水門川はもう直ぐだ。大きな絵看板に「奥の細道むすびの地」とある
良く整備された川の両岸には「奥の細道むすびの地」の標柱(写真)や蛤塚
       蛤の ふたみに別 行秋ぞ      はせを
多くの句碑・像・住吉灯台・朱塗りの橋等がある。上流に進み大垣公園から大垣城に入る。木陰で着替え洗顔し大垣駅へ向かう
帰りの車中で「芭蕉は敦賀から大垣までの街道の戦」に何故一言も触れなかったのか等と考えているうちに東京へ18時過ぎに到着した。
帰宅後「奥の細道」無事完走を祝い、庭から摘んできた萩の花とますほの小貝を盃に入れ、ぬる燗の酒を注いでいると、女房曰く「何しているの、シジミより貧弱ね」だって。
疲れた体には大層美酒であったが、奥の細道の「種の浜」の頁を開き、食卓にそっと置き寝室に入った。
       妻と見る ますほの小貝 萩の杯   平兵衛
今日の走行距離19km
                   完

平兵衛の「奥の細道」-36 敦賀~関ヶ原

2008年10月21日 | 奥の細道
2008年10月3日(水)晴
今日は関ヶ原までの行程で7時にスタート。越前と近江の峠越えや北国脇往還道の道路事情が気になる。
気比神宮前から8号線を南下、市内の歩道のあちこちにあるメルヘンチックな彫像を覗き見し、岡山1交差点を過ぎる。JR小浜線の陸橋を過ぎると歩道は消え、大型トラックの風圧に煽られこわごわと路側を歩く。「小河口2」の信号を過ぎ、次の「小河口」交差点を左折、静かな旧道に入りホッとする。
疋田の三叉路を左折し、左に通行止めの旧道を見ながら、広い路側帯のある上り坂を進む。曽々木集落のY字路を右折(左折し刀根方面のトンネル通過は避けた方が良い様だ)し、8号線の広い歩道を喘ぎ喘ぎ上る。奥麻生入口あたりの気温は16℃と快適だが、「峠はまだか?」とブツブツ言いながら暫らく登る。峠の茶屋で一休みし近江の国へ入る。下り坂が延々と続き、ブレーキのオーバーヒートを気にしながらも近江塩津駅へアッと言う間に着いた。
塩津交差点先から左折し旧道に入ると沢屋などの旧家が残り、舟運で栄えた琵琶湖最北端の宿場はその佇まいを今に残している。
8号線の味気ないトンネルを避け藤ヶ崎の湖岸を進む。幾重にも重なる山並みが湖上に浮かび、ついには薄靄の中へ消えて行く(写真)。遥かな沖の島は竹生島だろうか?
飯浦の集落から左の旧道に入り、急坂を登り賎ヶ岳トンネル(8号線のトンネル通過は大変危険)を抜ける。左手は柴田勝家軍と秀吉軍の激戦地(1583年4月)賤ヶ岳の入り口だ。
北陸本線を過ぎ、門前町の様な坂道を上って行くと地蔵尊に行き当たる。この辺りが北国街道の木之本宿の中心だろうか。
左折し北国脇往還道(R365)を南下すると、稲刈りの済んだ田圃には彼岸花が咲き、時期外れの蝉も鳴き、遥か左手には湖面が青く霞んでいる。十一面観音の渡岸寺で一休みし、阿弥陀橋を渡り野中のレストランで昼食をとる。
右前方に秀吉が陣取ったと云う虎御前山が見え、伊部辺りで浅井長政・お市の方の悲劇(1573年8月)の舞台となった小谷城跡の標柱があり、寄り道することにした。
入口の駐車場に熊注意の案内があり、熊除け鈴を付け自転車を引いて急坂を登る。しばらく登る事2km程度か、疲労困憊し漸く城の入り口に到着する。城跡は奥深く続き、幾つかの出城を配し、山全体が要砦化していた様だ。案内板を見て納得した事にし帰路につく。楽しみにしていた降りはブレーキの多用からリムが発熱し、しばしば歩かざるを得ずガッカリだ。
R365は所々で歩道が切れ、車に注意しながら暫く進むと姉川の野村橋に着く。東上流の橋辺りが織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の「姉川の戦い」(1570年6月)の場所だ。
R356の走り難さから山裾を通る坂浅東部広域農道へ迂回した。しかし大型車・無歩道・アップダウン等で相変わらず走りにくい。やむを得ず野中の脇道を選び高番の交差点に出たが、R356の危険度は増すばかりで、遠回りだが中山道へ迂回することにした。
R551を道なりに南下、頭上を通過する新幹線を見送り、柏原宿東端に着く。東海道本線を横切り直ぐに左折、旧中山道を東に進み関ヶ原に向かう。地図上では旧街道とR21と線路の三本が縄なう様に行き来している。
長久寺集落には滋賀と岐阜の県境があり、近江路から美濃路へと替わる。落ち着いた今須宿を過ぎ、緑に覆われた峠を下ると新幹線が横切る山中の集落に出る。近くには常磐御前の墓や黒血川が流れている。
藤下の集落を下り藤古川を渡る。この川の両岸は壬申の乱(672年)の激戦地で、西岸に大友皇子軍が陣取り、東岸に大海人皇子が布陣した模様だ。
坂を登り不破の関跡を見学し、小早川秀秋が陣取った松尾山を南に見ながら関ヶ原の街に入った。今回走った旧中山道は車も少なく見所は多く、しかもゆるい下り坂が続き、北国脇往還道とは雲泥の差だった。
今日の走行距離 81km


平兵衛の「奥の細道」-35 敦賀~色ヶ浜

2008年10月16日 | 奥の細道
2008年10月2日(火)晴
芭蕉が大垣へ到着したのは遅くとも8月21日(陽歴10月4日)と言われている。願わくば其の季節感を共有したく10月2日敦賀へ向かう。今年は台風の本土上陸は無かったが、13号と15号は台湾近辺で共に直角に進路を変更し、本州の南海上を東進した。15号台風は昨日熱帯性低気圧となり東洋上に去り、全国的に快晴でこの好天は数日続きそうだ。
東京駅6:23発ひかり401号で米原乗換、敦賀へ9:27に到着した。駅前で自転車を組み上げ、昼食を調達し、今晩の宿を松原町辺りに予約。色ヶ浜に向って出発した。
駅前道路を進み8号線を横切り、土橋バス停先を右折北上し川崎町を左折。松島橋を過ぎ松原公園内を通り花城橋を渡る。道は海岸沿いの絶景が続く一本道となり、快適なサイクリングが楽しめる。これから進む敦賀半島の小崎や白砂青松の海岸線を北に望み、東に敦賀湾越しの青く霞む山波、南には敦賀の町が白く輝いている。
小さな峠を越えると数軒の二村の集落となり浜が美しい。名子の海水浴場(写真)はひっそりと人影はない。海辺には「故陸軍歩兵上等兵勲八等片山松之助之碑」が彼方の小崎を背景に立ち、半世紀以上も過ぎたであろうに、誰が活けたか真新しい菊の花が碑前を飾っていた。縄間(のま)の児童館では運動会が行われ、めずらしく多くの人々が集まって楽しげだ。児童館の前には「縄間区各家先祖代々諸精霊位供養塔」の大きな墓石があり、各家々のお墓を一つに纏めたそうで、彼岸やお盆には村人総出でお参りするとの事で大変合理的だ。
常宮神社の鳥居の横には「国宝 朝鮮鐘」の大岩があり参拝して見る事にした。石亀の口から流れ出る手水で清め、随神門を入ると軒下に多くの貝殻が展示され、小籠の中に小さな貝があり「ますほの小貝」と記されていた。奥の細道の旅行者が探し求めても見つからないと云う「ますほの小貝」を、神主さんにお願いし数個頂戴し、良く整えられた境内の維持管理のご苦労を暫し拝聴した。常宮の集落には12時の時を知らせる懐かしい歌が流れ、情景はまさに歌詞そのものだった。
       一、
         われは海の子,白浪の
         さわぐいそべの松原に、
         煙たなびくとまやこそ、
         わがなつかしき住みかなれ。
       二、
         生まれて潮にゆあみして、
         波を子守の歌と聞き、
         千里寄せくる海の気を
         吸いて童となりにけり。
       三、
         高く鼻つくいその香に、
         不断の花のかおりあり。
         なぎさの松の吹く風を、
         いみじき楽とわれは聞く。
                 明治43年文部省唱歌
沓の峠越えはややきつく自転車を引いての登りとなる。途中大きな野良犬と鉢合わせし暫し睨み合うが、犬が先に退散しホットする。手ノ浦海水浴場を過ぎ、色ヶ浜バス停から右手の道を下り色ヶ浜集落に入る。
村始めに開山堂があり芭蕉句碑「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」や西行歌碑「潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の濱とは 言ふにやあるらん」があり、近くの本隆寺には「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」と「衣着て 小貝拾わん いろの月」の芭蕉句碑が狭い境内に残されていた。
寺の前の浜は船溜りで貝を拾う雰囲気にはなく、岸壁から水島を眺めながら昼食のおにぎりを頬張る。
帰りのバス(敦賀駅~立石 1日3往復)を待つ間先程の野良犬とまたも鉢合わせ、人家に近いせいか、彼は一目散に逃げ去った。帰りのバスの車窓からの眺めも良く、気比神宮前で下車し敦賀市内のサイクリングに入る。
気比神宮は北陸道総鎮守・越前の国一宮で、入口には数基の石灯籠を配し朱塗りの大鳥居が神前へと導く。社殿前の広場の一隅に芭蕉像・句碑が木漏れ日の中に立っている。
         月清し 遊行のもてる 砂の上      はせを
神宮の横を北東に進み曙交差点を左折し、天満神社横を北に道なりに進むと踏切を越え金前寺に行き当たる。寺の裏手の芭蕉句碑「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」を覘き、金ヶ崎城跡へ向かう。石段手前に駐輪し、結構きつい坂を喘ぎ喘ぎ登ると眼下には無粋な貯油タンクや貯炭場が見え、せっかくの絶景がだいなしだ。
その昔この城では、足利尊氏軍に包囲された新田義貞軍の兵糧が尽き、馬を食し死者の肉を食らった所(1337年3月)とか、また織田・徳川連合軍が朝倉景恒軍をこの城で下したが、浅井長政の裏切りに遭い織田軍は「金ヶ碕の退き口」または「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる有名な敗退戦(1570年4月)を演じた地であると言われ、本丸(月見御殿)跡から色ヶ浜方面を眺めつつ、しばし古に思いを馳せた。
市内に戻り、市民文化センター前の芭蕉句碑「国々の 八景更に 気比の月」やレストラン梅田前の「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱・芭蕉を色ヶ浜へ案内した廻船問屋跡(あみや旅館裏)を見学し、夕暮れの気比の松原(三保ノ松原・虹ノ松原とで三松原)を散策し宿に入った。
今日の走行距離 19km