行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-34 永平寺~敦賀

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月29日(火)晴
7:00スタート。R416を西に進み松岡の天龍寺に向う。
金沢からついて来た北枝との別れを惜しみ、「物書いて 扇引きさく 余波(なごり)哉」の句を芭蕉が北枝に送ったと云う寺だ。早朝の境内は白砂が清々と掃きならされ、その一隅に先程の句碑が静かに立っていた。
R416に戻り、やや走りにくい道を福井に向う。北陸本線のガードをぬけ、線路沿いに福井駅へ向う。足羽川を幸橋で渡ると、右手の山裾が左内公園だ。
奥の細道に「ここに等栽といふ古き隠士あり。-----いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにや、と人に尋ねはべれば、いまだ存命にして、-----あやしの小家に、夕顔・へちまの生えかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそをかくす-----昔物語にこそかかる風情はべれと、-----」とある等栽宅跡が此処だ。芭蕉はここで二泊している。
R28を南に向かい、福井新駅辺りから右手の旧道を探す。菰川?に架かる玉江二の橋辺りは、昔は菰や芦が生茂る歌枕の地だった。橋の袂には玉江跡の碑があり芭蕉の句が刻されている。
趣のある街道を道なりに南下すると朝六っ橋に行き当たる。橋の袂には
    越に来て 富士とやいはん 角原の
       文殊がだけの 雪のあけぼの   西行
と芭蕉の句を刻した石碑がある。清少納言の「橋はあさむつの橋、長柄の橋-----」や新田義貞の討死を知った愛妾が涙を流したこの橋も、今では古を辿る術は全く無い(写真)。
北陸道を暫らく南下すると、右手に木立に被われた神明神社が現れ、長い参道は厳かな雰囲気を醸し出している。水落町辺りには「北陸道宿場跡」の新しい碑があり、間も無く鯖江の街を通過する。北陸本線を地下道で通過し、日野川を豊橋で渡ると武生に入る。これより先は山越えの道なので食料を調達する。R365を南下し四郎丸町から右手の旧道を進む。東には「比那が岳」の日野山が見える。これまで奥の細道で幾つかの街道を通ってきたが、この北国街道は特に昔の佇まいを伝えている。街道沿いの家々は豊で豪壮で、旅籠や武家屋敷の様な家、そして寺かと思う家が続き、昔の賑わいと繁栄が感じられる。
南条駅前を過ぎR365に合流するあたりで「鶯の関」を探すが見当たらない。
新田義貞の「そま山城」は何処かと東の山並を見る。
北陸自動車道を過ぎ、今庄ICへのガードをぬけ、右手の旧道らしき道で湯尾(ゆのお)峠へ向う。村人に峠への入り口を尋ねると、自転車を引いた様子を見てかR365への道を教えられ、元の国道に戻ってしまった。
湯尾峠を東に巻いて今庄の街に入つたが、町の中心部は駅の西側にある様だ。ここから今日の宿泊地敦賀へ列車で行く予定だったが、時間もあるので木の芽峠トンネル越えを試みる事にした。
合波・大門・孫谷の集落を過ぎ板取宿までは何とか走り登ったが、トンネル手前の直線の坂道は自転車を引きずっての歩きとなった。トンネルには幅70cm程の歩道があり、充分注意すれば走行可能だ。
トンネル内を通過中、何と無くハンドルが頼り無げに揺れる。点検したところ、何と折畳み蝶番部のボルトが抜け落ちている。自転車は真二つに割れてしまい、タクシーを呼ぼうと電話をしたが、山中のため携帯は使用不可能だ。これから海抜628mの降りを楽しもうとしていたが、落胆の極みだ。日も暮れて来て、如何しようかと頭を抱えていたところ、サイクリング中の今庄に住むS先生が、近くに止めてあった車で敦賀へ送り届けてくれた。73年の人生でこれ程人の親切が身に滲みた事は無い。S先生有難うございました。
    峠越え 深き情けの 木の芽道
    木の芽もゆ 峠越えたか 海の風    平兵衛
突然の重大トラブルで旅を諦め帰宅することにした。米原経由東京行きの乗車券が幸い入手でき、22時前に帰宅することが出来た。やれやれ、今日は本当に疲れた。
今日の走行距離66km

平兵衛の「奥の細道」-33 山中温泉~永平寺

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月28日(月)晴
山中温泉の湯は素晴しく昨夜三回今朝一回入浴し、心身共にふやけ気味だ。
朝食前にあたりを見学すべく、5時前に宿を出て大聖寺川の鶴仙渓谷遊歩道を散策する。幾何学的な“あやとり橋”からは新緑の梢が下に見え、渓谷の流れに吸い込まれそうだ。道明ガ淵あたりに「やまなかや きくはたおらじ ゆのにほい」の芭蕉句碑がある。人気も無く水音だけの渓谷をのぼり“こおろぎ橋”を渡ると街中に出る。菊の湯近くの芭蕉の館には、芭蕉と曽良の別離の像がある。この像は奥の細道の一節「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 曽良」と「今日よりは 書付消さん 笠の露 芭蕉」の場面の蕪村画を再現したようだが、何ともイメージを壊してしまう様に思われるが、如何なものだろうか?
この温泉町はその佇まいから今も大いに繁栄している様に見受ける。藤原三代が栄華を尽くし築き上げた平泉も「兵どもが夢の跡」と化し、この山中は「たかだか湯が出る」だけなのに、芭蕉の時代も今も人々の生活を見事に支えている。自然の偉大さには感服だ。
朝食を済ませ7時に宿を出る。北上し塚谷交差点を左に入りR364を大聖寺に向って道なりに進む。路肩が狭く走りにくい道が続くけれども、くだり道には助けられる。北陸本線を潜り東町交差点を左折し大聖寺駅前を過ぎる。小川の手前を右折すると全昌寺に出る。
ここで曽良は「終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山」の句を、あとを追う芭蕉が「庭掃いて いづるや寺に ちる柳」を残した。これ等の句碑は境内の「はせを塚」にある。
寺を出て左に進み、R305を道なりに西進。北陸自動車道をぬけると右手に大聖寺川が並進する。前方の小山の新緑が日を受けて銀色に輝いている。まもなく吉崎の蓮如の里の仏閣が城郭の様な姿を現す。
北潟湖を開田橋で渡り芦原GCのクラブハウスを訪れ、汐越の松への案内を請う。500m程離れた海岸近くの松林に、朽ち果てた最後の汐越の松が横たわっている。沢山の若木が育てられているが、徐々に松喰虫の被害が広がっているそうだ。
西行とも蓮如の作とも云われる
      終宵 嵐に波を はこばせて
          月をたれたる 汐越の松 
を思い起こし、木の間に見える穏やかな海と僅かな潮騒を聞きながら一時を過ごした。
北潟湖西岸のR305を南下し丸岡城をめざす。この湖岸の道は路肩が無い部分と湖水側に広い歩道を持った所がある。周囲の風景は水と新緑の山と遠くの村々が絶妙なバランスにあり美しい眺めだ。調子に乗って湖岸の歩道を飛ばしていたとこ、歩道を横切る溝の蓋が落ち込んでおり、後輪が激突しスネークバイトとなる。日之出橋袂で30分程のパンク修理を行い再出発する。
R120からR29に入り幾つかの小さな峠を越え坂ノ下(さかのしも)に着く。左折し川沿いの道を芦原温泉駅に向かい、汐見医院の辻を右折しR9を南進する。
北陸本線を越えると広々とした田園地帯となり、彩り鮮やかに新緑が覆った山並みが田面に映っている。
丸岡はこじんまりとした城下町で、高台の丸岡城の天守閣は、現存天守閣の中で最古の遺構とのことだ。桜の時期は城が霞の中に浮かんでいるようで「霞ケ城」の別名もあると言う。また城内には本多作左衛門の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石碑がある。
R17と並進する山際の旧道?を利用し永平寺に向う。九頭竜川を鳴鹿橋で渡り、「えちぜん鉄道」を横切り、R364の東側の山沿いの人気のない道をのぼり、荒谷でR364に合流し永平寺に入る。
兼六園と同様に韓国・中国の旅行者が多く見られたが、中には黄色い僧衣をまとったタイの聖職者と思しき人達も参拝いていた。
苔むした境内と流れる清水、巨木の間に軒を連ねる七堂伽藍、数知れぬ群れなす堂宇(写真)、静寂の中にもこの寺の隆盛を感じる一時であった。
山をくだり永平寺口駅近くの宿に17時過ぎ到着した。パンクしたチューブの補修、洗濯、旅程の確認と結構いそがしい。
今日の走行距離 65km

平兵衛の「奥の細道」-32 金沢~山中温泉

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月27日(日)晴
金沢駅を7:00に出発。元車・片町(芭蕉の辻)交差点を経由し犀川大橋に着く。左岸上流の土手に芭蕉句碑が犀川を背に立っている(金沢は何処も彼処も”あかあかと日は難面なくも-----“の句ばかりだ)。段丘上の成学寺に秋日塚と芭蕉句碑があり、あたりは寺町らしく、寺々の一角に願念寺がある。寺には一笑塚や一笑辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」、そして芭蕉句碑「つかもうごけ 我泣声ハ 秋の風」等があり暫し留まる。
「小鯛さす 柳すずしや 海士が軒」の金石町(西浜)は横目で見過し、安宅の関に向った。
R157からR29に入り松任の街を過ぎ、田圃の中の松任美川線を南西に向う。米光町辺りの田の畔には、室町時代の満福寺跡の碑があり、むかしはこの辺を北陸道が通っていたのだろうか?
美川宿を過ぎ手取川を渡り小舞子駅前を通過。北陸自動車道の下を抜ける“ぬかるみの地下歩道”に不平を云っている間に、安宅の住吉橋に到着する。
右手の森が住吉神社で、その裏手が安宅の関跡(写真)だ。海岸線一面に白い花が咲き誇り、打ち寄せる波には、義経主従の其の時の緊張感は今は無い。
浮柳新橋・R25を経て京町交差点を右折し小松の市街に入る。相変わらず融雪水の赤茶けた道路が続くが、宿場町の俤を残す街並みには、落ち着ついた雰囲気が漂い、将来に残していきたい街だ。本折町の日吉神社には「芭蕉翁留枝之地」「しほらしき 名や小松ふく 萩薄」の碑があり、また多太神社には「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の大きな新しい芭蕉句碑が見られる。
これより那谷寺へ向うが、JRの線路に並進しながら南下する。小松製作所の前に出ると左折し、陸橋でJRを越えR8を南下し、二ッ梨交差点を左折する。道なりに進み加賀芙蓉CCを抜けると目的地は目の前だ。
那谷寺は那智勝浦の那智山青岸渡寺の「那」と岐阜の谷汲山華厳寺の「谷」を合わせ名付けたとのことだ。奇岩と清らかな流れ、苔むす庭と時古る木々に抱かれ、暫し旅の疲れを癒す。境内の芭蕉句碑「石山の 石より白し 秋の風」を吟じながら山中温泉宿に向って出発した。
R11を南に進み、山代温泉街を過ぎ、長く走りにくい登りの道をひたすら走り続け18時前に宿へ到着した。
今日の走行距離 65km

平兵衛の「奥の細道」-31 高岡~金沢

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月26日(土)晴
宿を7:00に出発。高岡北口駅前のR40を西に進み、羽広町東交差点を左折しR24を南西に進む。西高岡駅近辺の北国街道は、宿場の面影を色濃く残している。
宝来町交差点からR266の旧道を道なりに進む。大野辺りには「旧北陸道(ほくろくどう)往還の松跡」に次世代が植え継がれている。福岡駅近くの旧道沿いには、旅籠かと思われる大きな旧家が何軒も並んでいる。それ等が融雪水で赤茶けた街道に妙に馴染んでいる。岡南交差点でR8を横切り西芹川で再度R42に合流する。
石動の町を過ぎ左折し、石坂を過ぎ松永バス停手前を案内板に従い右折、あとは道なりに自転車を引きずりながら倶梨伽羅峠に向う。当日は八重桜祭りが行われ無料の茶菓子接待があり、また峠では綱引き大会も催されるとの事で、NHKのキャラクターも入り大賑わいだった。静かに古戦場を巡ることも出来ず、早々峠の降りに入り、アッと言う間にR8に到着した。八重桜は実に見事に咲いていたが、紅色が圧倒的に多く白は殆ど無い。平家の軍勢が多かったからか?勝利した源氏の白色をもう少し増やした方がバランスがとれると思うが?
東荒屋では九州南端から北海道北端までぶっ通しで歩くと言う人に会う。エールを交換し健闘を祈る。
津幡駅辺りから旧街道R215に入る。北森本辺りでは昔日を偲ぶ往還の松が数本残っていた。森本でR159に合流し、並進する旧北国街道を見つけては寄り道しながら山の上まで快適に進む。浅野川を浅野川大橋で渡り、左岸下流の高台に泉鏡花生誕の地があり、その筋向いに北枝宅跡という案内板がある。
その後、兼六園下の交差点に達した頃には、西の空に黒雲が湧き上がり、稲妻と雷鳴が轟き激しい降雨となった。暫し雨宿りしたがやむ気配が無く、雨具に着替え金沢駅近くの宿に向った。残念ながら宿に着いた頃には青空が覗き始め、荷物を宿に置き再度兼六園に向った。雨後のしっとりとした園内の雰囲気はまた格別の趣がある。山崎山(写真)の登り口にある芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」を訪ね、金沢城公園を一巡し宿に向う。
今日の走行距離55km

平兵衛の「奥の細道」-30 富山~高岡

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月25日(金)晴
4月に入り北陸3県の桜前線と週間天気予報が非常に気になる。今年はじめての奥の細道サイクリングのタイミングを探る。天気予報では「春に三日の晴なし」などとつれない。ぐずぐずしている内に4月も下旬に入り、意を決し出発したが、疾うに桜の時期は過ぎていた。
上野7:06発の新幹線で越後湯沢へ。トンネルをぬけると雨だった。この辺りは未だに桜が満開で雨に濡れる車窓の花は実に美しい。在来線に乗換え平地にくだると葉桜になり、10;:14富山に到着した。北口広場から「鄙にはまれな」スマートなライトレールに乗車し蓮町で下車。何でもこの路線は以前赤字だった様だが、大幅な改革を行い黒字化したとのことだ。
駅横の小さな広場で自転車を組上げ、今回の旅を開始する。神通川を萩浦橋で渡り北に向い、富山湾に面した護岸上のコンクリート道を北西に進む。海岸線には、水平線の彼方から寄せる波が長閑にザザー ザザーと砂浜を洗っていた。富山新港に架かる大きな橋(建設中)の橋脚が見える辺りから、港の東突端にある堀岡渡船発着場へと進む。この渡船場は新港を建設した際に、県が住民へ約束した県営の渡し舟であり、無料の渡し舟は10分程度で対岸に着く。西突端には万葉線と言う鉄道が引かれ、可愛い一両編成の電車が走っていた。
暫らく進むと放生津八幡宮が右手に見え、この境内には大伴家持の
   あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の
      釣りする小舟 こぎ隠る見ゆ
や芭蕉の句碑などがある。この辺りの海が奥の細道の「那古という浦に出づ」とある白砂青松の歌枕の地であったようだが、今は沖に波消しブロックが続き見る影も無い。
本町辺りの街角には、お地蔵さんと思われる仏様が、立派なガラス張りの小屋にカラフルに祭られていた。
芭蕉は奥の細道で「担籠の藤波は、春ならずとも、初秋のあわれとふべきものをと、人に尋ぬれば、“これより五里磯伝いして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、葦の一夜の宿かすものあるまじ。”といひおどされて、加賀の国に入る。 早稲の香や 分け入る右は 有磯海」と書き記し高岡に向った。
文中の「胆籠の藤波・蜑の苫ぶき・有磯海」に引かれて北方の島尾駅辺りの海辺を訪れることにした。
新庄川橋を渡り、次に小矢部川を上流に大きく迂回し伏木港大橋で越え、越中国分駅を過ぎ、岩崎の展望台から男岩・女岩を望む。
義経岩を過ぎ雨晴駅方面への道を進む。島尾駅北側の線路を横切り海浜公園へ出る。浜からの眺めは北に能登の山並み(写真)、東に富山湾、東南に霞む立山連峰?が広がり、まさに万葉の世界だ。
島尾駅から駅前道路を道なりに南西に進み、R160を下田子交差点で横切ると前面の山際の森が藤波神社だ。大伴家持の歌碑や藤の巨木があり、神社の石段から、かって湖であったと言う田圃を眺めながら、満開の藤の頃は如何かと往時を偲ぶ。
R160と並進する旧道を高岡に向かって南下し、東海老坂でR160に合流。前田利長築城の堀を中心した高岡古城公園や利長の墓所を訪ね、18時前宿に到着。
今日の走行距離45km