行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-18 大石田~新庄

2007年12月26日 | 奥の細道
2007年5月21日(月)~22日(火)晴れ  一泊二日
週間天気予報では4日間好天との事で、今回は大石田から鼠ヶ関までのサイクリングを計画。前回トラブルの有った後輪の全スポークやブレーキの交換と整備点検を専門店で済ませ、満を持しての出発だ。
自宅を5時にスタートし最寄りの駅へ向かう。又も後輪がピチンピチンと異音を発しているので気掛りだ。既に乗車券を購入済みなので決行することにした。上野6:34発のはやぶさ101号に乗車し大石田9:48に到着だ。
駅頭でロードレーサーを組み立ていた人は、日帰りで銀山温泉方面に行くとのことでエールを交換し分かれる。
駅でガイドマップを入手したが解り難く、何とか乗船寺(斎藤茂吉の墓 正岡子規碑)、船役所跡と600m余の長さの大石田河岸(元禄時代は五百余の船が毎日最上川を行き来していたとの事だ)、そして西光寺の芭蕉句碑(さみだれを あつめてすずし もがミ川)を見学し、また大橋あたりからの雪を頂く月山(写真)の眺望は実に素晴しい。
最上川の土手伝いに下り、黒滝橋を渡ると向川寺はすぐ近くだ。この寺には大銀杏や大桂が茂り古めかしい佇まいだが、隣の純白の仏舎利塔はやや不釣合いな感じだ。
田圃道を東進し丹生川大橋を渡り、歩道の無い西部街道R305を北上するが車の少ないのが幸いだ。鷹巣を過ぎ名木沢辺でR13の羽州街道(歩道あり)と合流、毒沢を過ぎ尾花沢新庄道路(R13のバイパス)を斜めに横切り、左の登りの旧道を行くと猿羽根峠のレストランに着く。ここで昼食に800円のカルビー定食を注文する。
峠のトンネルは歩道が無く、大型トラックが恐ろしく走り抜けるので、点滅灯を点けて歩いて通過した。峠を超えると快適な下りが続くけれども、相変わらず後輪の異音は気がかりだ。しばらく進んだ所で、突然後輪に違和感があり走行不能となった。軽量化するため16本しかないスポークの数本が緩み、リムが変形した模様だ。幸いに数百メートル先が南新庄駅であり、13:58発の電車で新庄へ向かう事が出来た。
旅を中止するか否かを悩んだ末に、駅近くの自転車屋さんを訪ね修理の可否を聞くと、おかみさん曰く“家の人は今は留守だが何でも修理する腕利きの職人”との事で、しかも近所のホテルまで紹介され、修理を依頼し明日を期待する事にした。
ホテルに荷物を置き、南に向かいR310瀬見新庄線でJRの下を抜け、右側の柳の清水で「水のおく 氷室尋ねる 柳かな」の芭蕉句碑を見る。近くには「羽州街道跡 新庄城下南入り口」の標柱があった。
金沢町の風流亭跡や山形銀行の渋谷本家跡は見つからず、その後市民プラザの「風の香も 南に近し 最上川」の芭蕉句碑、そして大手町を散策し城跡にある戸沢神社と最上公園を訪れ往時を偲んだ。夕食に出たついでに、自転車屋さんを覗くと、主人曰く「外国車なので冶具の作成から始めなければならず、明日の10時ごろには出来上がる」とのことだ。
翌朝9:30頃訪問すると四苦八苦しており、「そこを持て、ここを持て」と手伝わされ弟子入りしたような気分だ。何とか完成し試乗するとなおもピチン音が残る。その音は主人には聞こえぬとのことで代金を支払い、大いに落胆し今回の旅を諦め帰途に付く事にした。
新幹線で米沢牛の弁当を食べ、やれやれと落ち着く頃には、こう云う事も旅の内だと妙に納得した。
2日間の走行距離 27km+徒歩5km

平兵衛の「奥の細道」-10  飯坂~大河原

2007年12月25日 | 奥の細道
2006年10月20日(金) 晴れ後曇り
朝もやたなびく吾妻連峰が実に美しい。
飯坂温泉駅の西1.5kmの所に、佐藤庄司の旧館であった大鳥城跡(海抜230mの館山)がある。奥の細道に「------湯に入りて、宿を借りるに、土座に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、------夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠れず。------」とある芭蕉の宿泊地は滝の湯と云われ、新十綱橋の北200mの花水館横の小公園だ。
新十綱橋を渡り直ぐの信号を東の桑折への道を進む。R124に入り暫く東進すると、北の山並みを背に赤く色付きたわわに実ったリンゴ畑が、柵もなく無防備に続く。写真を一枚撮りたかったが、“リンゴの下で冠を正さず”とあきらめ、広くなったり狭くなったりする道を車に注意しながら進む。東北自動車道をくぐり、新幹線と並進する辺りの路傍に孔雀草?が一面に咲き誇っていた。JRのガードを過ぎると桑折の街に入り、安彦商店の角を左折するとまもなく桑折駅前だ。羽州街道と奥州街道の三叉路に最近整備されたと思われる真新しい追分の標柱(写真)が立っていた。これより奥州街道を進むが、この町には過っての繁栄を偲ばせる土蔵や門構えの家が見られ、宿場町の俤を今に良く残している。
桑折の町を抜け道なりに進み、藤田宿のやや錯綜した道路からR4に合流し、県北中より右の旧道に入り、大木戸小を通過後R4に絡みながら北上する。
西に見える厚樫山は、その昔「阿津賀志山の戦い」として、1189年幕府創設期の源頼朝軍二万五千と迎え撃つ奥州藤原軍(泰衡)二万が激突した所だ。奥州勢は厚樫山の麓から阿武隈川までの長大な三重の堀の防塁をめぐらせ、これに対し頼朝軍は藤田宿に本拠を置き、背後より奇襲をかけ混乱に乗じ伊達の大木戸を突破し奥州軍を壊滅させた。泰衡は蝦夷地へ敗走中に家臣により殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡した。この戦で軍功のあった常陸入道念西が頼朝から伊達郡を授かり、伊達朝宗と称したのが伊達氏の祖と言われている
近くには義経腰掛の松や厚樫山古戦将士の碑等がある。
峠に向かい上り坂が続き、貝田駅を過ぎJR・高速道・R4が交差する辺りが福島と宮城の県境の峠だ。間も無く左の旧道へ入ると人気の無い越河宿となる。JRと高速道の間のR4を北上すると突然左手に馬牛沼が現れる。秋の水枯れか?水位が低く、雨期の満水時の趣を想像しながらR4を右折し(直進すると路肩が狭く大型車には要注意だ)、旧道を田村神社の甲冑堂に向かう。佐藤継信・忠信の妻達の木像が安置されているが、この堂は明治時代放火で焼失し、昭和初期の教科書に妻達の話(医王寺参照)が掲載されたことで再建されたと言う。先程の沼では征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が溺れ死に、神社には田村麻呂が祭られ、また義経の鐙摺石などと言う古い話が多く残っている。
R4へ入ると蔵王の方角から真っ黒な雨雲が湧き上っているので、白石市街を迂回し先を急ぐ。白石川に架かる新白石大橋を渡る際、道路の左側を走っていたが、橋上からは歩道も路側帯も消え高速道路に迷い込んだ様な状況となり、車の恐怖に脅えながら1km程進み、ふと見ると立派な歩道が道路右側にあるではないか(何たる事よ!)。白石蔵王工業団地辺りの歩道の無いR4を恐々と過ぎ西に向かう。大河原町に入ると地図上に「一目千本桜」とある。秋にここを通過するのも無粋な話だ。空模様もいよいよ怪しくなって来たので、来春を期し大河原駅に向かい帰路に着く。大河原駅で自転車をたたんだ時、ペダルを忘れて来た事を帰宅して気付く。
これを機に再移動の際は必ず「忘れ物無しヨシ!」と指差呼称することにした。
今日の走行距離 43km

平兵衛の「奥の細道」-9  日和田~飯坂

2007年12月06日 | 奥の細道
2006年10月19日(木) 晴れ
早朝、二本松から日和田駅に戻り今日の旅を開始する。駅前を直進しR355(陸羽街道or奥州街道)を北上する。側溝の蓋がガタゴト云う歩道は大変走り難く、また通勤時間帯でもあり最徐行で進む。間も無く安積(アサカ)山公園の小丘が右手に現れる。この辺は古来より歌枕の地で、公園の歌碑には
  あさか山 かげさえミゆる 山の井の
     浅きこころを わがもはなくに
とある。
  みちのくの あさかの沼の 花かつみ
     かつ見る人に 恋ひやわたらむ 
と古今和歌集にある花かつみを、奥の細道で芭蕉は「---“いづれの草を花かつみとはいふぞ。”と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。---」と、日は山の端にかかるまで捜し求めている。
相変わらず走り難いR355で本宮駅を過ぎ、荒町から仲町のクランク状交差点を通過、道なりにただただ北上する。二本松の市境に入る頃から歩道が整備され走り易くなる。二本松駅入口の二本松神社で小休止し、次なる目的地黒塚を目指す。
R4合流後、安達が原入口より東に安達ケ橋を渡ると観世寺はすぐだ。謡曲等の黒塚の話はあまりにもオドロオドロしいので、芭蕉と同じく遠目に一見し福島へ向かう。
<黒塚、奥州安達が原>
   みちのくの  安達が原の 黒塚に
   鬼こもれりと 聞くはまことか       平兼盛         
昔、京都の公家の屋敷に、岩手と云う乳母が姫を育てていた。姫は病弱で言葉を発せず、長年の悩みの種であった。
ある時、易者から「姫の病気には妊婦の生き肝が効く」と聞いた岩手は、しかるべき妊婦を探し求めてみちのくまで来てしまった。ある日、岩手の庵に若い夫婦が宿を乞うて来た。聞けば妻は身ごもっているとのことだ。生き肝を得る機会到来とばかりに、女の腹を切り裂き生き肝を得る。しかし、女の傍らに落ちていたお守りは、岩手が昔別かれた娘に与えたものだった。
その事を知った岩手は、嘆き悲しみ、地獄の苦しみの末に髪は逆立ち、気が狂い鬼と化した。以来、岩手は宿を求める旅人を殺し、生き血を吸い、人肉を喰らい、安達が原の鬼婆と呼ばれる様になった。
ある年、裕慶東光坊が岩手の庵に宿した時、人骨の散乱している様を見て、これぞ噂の鬼婆と知り逃げ出す。それを知った老婆は激しくその後を追い、追いつかれた裕慶は如意輪観音を一心に祈願したところ 白真矢が老婆を射殺した。
裕慶が塚を作り鬼女を手厚く葬ったのが黒塚で、如意輪観音を奉った寺が観世寺として今に残る。
R4に戻り500mほど進み、左のR114(奥州街道or陸羽街道)に入り2.5km北上すると、二本柳宿の石碑と大きな柳が目にとまる。山間の田圃には稲むら(写真)が整然と並び、乾いた藁の匂いが心地よく、昔の田舎の風景を思い起しながら進む。福島市との市境あたりから西に「阿多多羅の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」その青空の中に安達太良山が美しく浮かんでいた。
松川駅入り口を過ぎ、東側1km程の美郷の辺が下山事件・三鷹事件と並ぶ戦後国鉄の三大ミステリーの一つ松川事件の地だ。単調な上り下りの多い道が、福島大学の入り口を過ぎR4へ合流するまで続く。R4を北上し、伏拝交差点を過ぎると快適な長い下り坂となる。綺麗な流れの阿武隈川を二度横切ると福島市街に入る。福島競馬場を右に、左にはランドマークの信夫山を見て岩谷下交差点を東に左折する。再度阿武隈川を文知摺橋で越えて1.5km程進み、岡山小への道を左折すると文知摺観音は目の前だ。
この寺には、その昔石の上で布にしのぶ草を擦り込み、模様を付けたと云う文知摺石や源融の歌碑「みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに」、そして芭蕉句碑「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」などがあり、山の端の静かな古刹だ。
これより4km程北の月の輪大橋に向かうが、山際の田舎道を進んだところ分り難く、むしろ福島保原線を利用した方がよい。月の輪大橋からはR387を西進し、R13(万世大路)を北西に進み、福島交通飯坂線の医王寺前駅に向かうと良い。当方は東福島駅辺から近道を試みたが、リンゴ畑と高速道路に阻まれ大変苦労した。
医王寺は信夫の庄司佐藤基治の菩提寺で、鬱蒼とした杉並木の奥に一族の墓がある。庄司の子継信・忠信兄弟は義経の側臣として源平の戦いに従軍し、兄は八島の合戦で、弟は京都堀川の争いで、何れも義経の身代わりとして死んでいる。その死を悲しむ姑に、兄弟の妻達が夫の甲冑を身に着け、その凱旋を装い慰めたと言う故事が伝えられている。主には忠・親には孝、まさに昔の修身の本にピッタリだ。本堂前に芭蕉句碑があり、宝物室には弁慶の笈等が展示してある。
奥州三名湯の一つの飯坂温泉郷は2km程北にある。十綱橋前の観光協会で今日の宿を探す。鯖湖湯近くの旅館で、湯は疲れた四肢に心地よく、十畳の広い部屋に地図を広げ明日の旅程を考えた。
今日の走行距離 64km