行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-12 仙台~松島

2008年01月29日 | 奥の細道
2007年4月21日(土)晴後曇
街路樹や小公園の木々が多い早朝の仙台の街は、広い歩道に人影もまばらで清清しい気分だ。だがこの街の残念な所は車道から歩道への縁石が高く、車椅子や自転車の通行にはガタゴトとやや不便だ。
晩翠道から広瀬道に入り西進し仲ノ瀬橋を渡り、左手に東北大を見ながら亀岡八幡宮へ向う。この神社は伊達家の氏神であったが、今では長く続く石段の一部は崩れ、入り口の満開の桜と朱塗りの橋が彩りを添える程度で、やや寂しい佇まいだ。その後東北大川内キャンパスと青葉山城を訪ね、次なる十符の菅跡へと向った。
R45で東に向かい原町3交差点からR8(石巻・利府街道)を北上し、今市橋を渡り左折すると昔“奥の細道”と言われた辺りだ。この道を西進すると間も無く北側の山裾の集落に十符の菅跡(古屋敷辺り)がある。
R35(泉塩釜線)を東に進み陸前山王駅・市川橋を過ぎ、Y字路を右へ入ると直ぐに多賀城跡が北に見える。
724年に造られた高台に広がる多賀城は北方守備の拠点であり、町は東西・南北に大路が走る大都会だった様だ。
芭蕉が「----涙も落つるばかりなり」と言った“壷の碑”は近くの碑堂の中にあり、762年に建立され日本三古碑の一つとの事だ。ここでは多くのボランティアガイドが親切に説明してくれ大いに助かる。
国府多賀城駅の西を通り仙石線多賀城駅近くを通過すると、間も無く末松山宝国寺に行き着く。寺の裏の高台に「きみおきて あだし心を わがもたば 末の松山 浪も越えなむ」等と詠まれた、“末の松山”の枝を連ねる巨松が聳えている(写真)。100m程南下すると四周を道路で囲まれた池の中に大きな岩がある。これが古来より歌枕として知られている“沖の石”だ。
R45を北上し多賀城小の際を流れる“野田の玉川”を遡上し、“おもわくの橋”等を経て、陸奥一の宮の塩竈神社に向う。
神社正面の「石の階九仭に重なり」とある急な石段を、自転車を引いて登るにはとても無理なので、東の自動車道を利用する。境内は染井吉野や枝垂れ櫻が満開で充分楽しめたが、最も期待していた天然記念物の塩竈桜(サトザクラ系の八重桜)は、早すぎたのか影も無く大いに失望した。神社の急坂を降り東1.5km程にある遊覧船乗り場のマリーンゲートに向った。
松島へ30分毎に出る芭蕉コースの二等乗船券を購入する。「みちのくは いづくはあれど 塩竈の 浦漕ぐ舟の 綱手かなしも」と詠まれた“塩竈の浦”へ船が出ると、大音量の拡声器から松島八百八島の始の“籬が島”が「わがせこを 宮こにやりて しほがまの まがきのしまの 松ぞこいしき」と古今和歌集の歌と共に最初に紹介される。奥の細道には「----松島は扶桑第一の好風にして,およそ洞庭・西湖を恥じず。----島々の数を尽くして、そばだつものは天を指し、臥すものは波にはらばふ。あるは二重にかさなり、三重に畳み、左にわかれ右につらなる。----そのけしきそう然として、美人の顔を粧ふ。----いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさん。」とあるので筆を置く。    
松島では先ず雄島へ向う。昔世をいとう人々が暮したと言う辺りを訪ね、小さな島を一周する。
門限まぢかになった瑞巌寺へ急ぎ駆け込み、根来衆が彫刻したと言う本堂回廊の唐戸・欄間の透し彫りや宝物館を見学する。五大堂を巡る頃には日は山の端に隠れ、今日の宿である松島駅近くの民宿へと急いだ。
今日の走行距離 43km

平兵衛の「奥の細道」-11 大河原~仙台

2008年01月17日 | 奥の細道
2007年4月20日(金)晴れ
節分を過ぎると我が家の庭にも花が咲き始める。白梅(2/7)あせび(2/16)鶯の初鳴(3/1)サンシュユ(3/2)桜(3/20)と続き、いよいよ桜前線も関東に入り、大宮公園の花見(3/28)、そして秩父の野辺の桜を求めてのサイクリング(4/5~6)とヒートアップして来る。奥の細道の「----そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあいて取るもの手につかず。----」の状態となり、ついには「ねがはくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」とばっかりに、陸奥の旅を再開し大河原へ向かった。今回は大河原から平泉までの多くの名所・旧跡と歌枕の旅で、昨夜は大いに期待し興奮気味でやや寝不足だ。
自宅を5:20にスタートし、上野6:34発のつばさ101号で福島を経由し、大河原へ8:52に到着。
昨秋ペダルを忘れた待合室の椅子をチラリと横目で見、駅前広場で自転車を組上げる。“忘れ物なしヨシ”と出発。
駅前の尾形橋から白石川右岸の人気の無い土手道を下る。満開の桜並木(写真)が延々と続き、小鳥の散らす僅かな花びらが風の行方とその香りを知らせる長閑さだ。柴田大橋・さくら船岡大橋を横切ると、まもなく神明堂工業団地が土手下に現れる。この辺りから道は草に覆われ歩くのもやっとだ。白幡橋を渡り旧街道を進みR52のガードを抜けR4へ合流する。右側に阿武隈川が悠然と流れているが、1km程進み岩沼市境手前で右折し陸羽街道に入る。岩沼中学校前の信号を左折すると間も無く右手に大鳥居が見え、日本三大稲荷の一つの竹駒神社が現れる。武隈の松は次の二木交差点を右折すると右側の小公園にある。能因法師が「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや 我は来つらむ」と詠んだが、今は立派な二木の松が聳えている。
バス道路を北上しR4へ合流する。館腰駅を過ぎ左折、弘誓寺を巻きR126を西進し“めでしま”交叉点を右折、R39(岩沼仙台線)を北上し道祖神社へ向う。
この神社は峠の上にあり往時を偲ぶ細々とした参道が麓に続いている。神前を下馬せず通過した藤原実方が落馬したとの故事から、自転車を降りて社に向かい賽銭を奮発し旅の安全を祈願した。
R39を1km程北上すると実方の墓の案内板に出会う。彼方の朱塗りの橋で小川を渡り、山裾の墓への小道の路傍に数株の枯れ薄がひっそりと守られている。西行の「朽ちもせず 其名ばかりを とどめおき かれのの薄 かたみにぞみる」と口ずさみながら坂を登ると、僅かな木漏れ日の木立の中に実方の墓が静かに立っていた。
R39を北上し高館・柳生を経て南仙台駅を過ぎR4へ合流。名取橋・長町駅・広瀬橋を通過し若林区の連坊小路を右折し東進する。
「みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり」と詠まれた“木ノ下町”は人家が密集し昔を思い起こす木々などは全く無い。
まもなく陸奥国分寺薬師堂の仁王門が見え史跡公園になっていた。
奥の細道の「----宮城野の萩茂りあいて、秋のけしき思ひやらるる----」とある宮城野は運動公園となり、「取りつなげ 玉田横野の 放れ駒 つつじの岡に あせみ咲くなり」の玉田や横野は探しても見つからなかったが、幸いつつじの岡はよく整備され榴岡公園となり、桜が満開で特にしだれ桜が夕日を受け桃紫色に霞んでいた。
その後東照宮を見学し東北大近くの安宿へ向った。
今日の走行距離 45km