行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-36 敦賀~関ヶ原

2008年10月21日 | 奥の細道
2008年10月3日(水)晴
今日は関ヶ原までの行程で7時にスタート。越前と近江の峠越えや北国脇往還道の道路事情が気になる。
気比神宮前から8号線を南下、市内の歩道のあちこちにあるメルヘンチックな彫像を覗き見し、岡山1交差点を過ぎる。JR小浜線の陸橋を過ぎると歩道は消え、大型トラックの風圧に煽られこわごわと路側を歩く。「小河口2」の信号を過ぎ、次の「小河口」交差点を左折、静かな旧道に入りホッとする。
疋田の三叉路を左折し、左に通行止めの旧道を見ながら、広い路側帯のある上り坂を進む。曽々木集落のY字路を右折(左折し刀根方面のトンネル通過は避けた方が良い様だ)し、8号線の広い歩道を喘ぎ喘ぎ上る。奥麻生入口あたりの気温は16℃と快適だが、「峠はまだか?」とブツブツ言いながら暫らく登る。峠の茶屋で一休みし近江の国へ入る。下り坂が延々と続き、ブレーキのオーバーヒートを気にしながらも近江塩津駅へアッと言う間に着いた。
塩津交差点先から左折し旧道に入ると沢屋などの旧家が残り、舟運で栄えた琵琶湖最北端の宿場はその佇まいを今に残している。
8号線の味気ないトンネルを避け藤ヶ崎の湖岸を進む。幾重にも重なる山並みが湖上に浮かび、ついには薄靄の中へ消えて行く(写真)。遥かな沖の島は竹生島だろうか?
飯浦の集落から左の旧道に入り、急坂を登り賎ヶ岳トンネル(8号線のトンネル通過は大変危険)を抜ける。左手は柴田勝家軍と秀吉軍の激戦地(1583年4月)賤ヶ岳の入り口だ。
北陸本線を過ぎ、門前町の様な坂道を上って行くと地蔵尊に行き当たる。この辺りが北国街道の木之本宿の中心だろうか。
左折し北国脇往還道(R365)を南下すると、稲刈りの済んだ田圃には彼岸花が咲き、時期外れの蝉も鳴き、遥か左手には湖面が青く霞んでいる。十一面観音の渡岸寺で一休みし、阿弥陀橋を渡り野中のレストランで昼食をとる。
右前方に秀吉が陣取ったと云う虎御前山が見え、伊部辺りで浅井長政・お市の方の悲劇(1573年8月)の舞台となった小谷城跡の標柱があり、寄り道することにした。
入口の駐車場に熊注意の案内があり、熊除け鈴を付け自転車を引いて急坂を登る。しばらく登る事2km程度か、疲労困憊し漸く城の入り口に到着する。城跡は奥深く続き、幾つかの出城を配し、山全体が要砦化していた様だ。案内板を見て納得した事にし帰路につく。楽しみにしていた降りはブレーキの多用からリムが発熱し、しばしば歩かざるを得ずガッカリだ。
R365は所々で歩道が切れ、車に注意しながら暫く進むと姉川の野村橋に着く。東上流の橋辺りが織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の「姉川の戦い」(1570年6月)の場所だ。
R356の走り難さから山裾を通る坂浅東部広域農道へ迂回した。しかし大型車・無歩道・アップダウン等で相変わらず走りにくい。やむを得ず野中の脇道を選び高番の交差点に出たが、R356の危険度は増すばかりで、遠回りだが中山道へ迂回することにした。
R551を道なりに南下、頭上を通過する新幹線を見送り、柏原宿東端に着く。東海道本線を横切り直ぐに左折、旧中山道を東に進み関ヶ原に向かう。地図上では旧街道とR21と線路の三本が縄なう様に行き来している。
長久寺集落には滋賀と岐阜の県境があり、近江路から美濃路へと替わる。落ち着いた今須宿を過ぎ、緑に覆われた峠を下ると新幹線が横切る山中の集落に出る。近くには常磐御前の墓や黒血川が流れている。
藤下の集落を下り藤古川を渡る。この川の両岸は壬申の乱(672年)の激戦地で、西岸に大友皇子軍が陣取り、東岸に大海人皇子が布陣した模様だ。
坂を登り不破の関跡を見学し、小早川秀秋が陣取った松尾山を南に見ながら関ヶ原の街に入った。今回走った旧中山道は車も少なく見所は多く、しかもゆるい下り坂が続き、北国脇往還道とは雲泥の差だった。
今日の走行距離 81km



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