行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-17 尾花沢~立石寺

2008年08月29日 | 奥の細道
2007年5月13日(日)雨後晴
今日は早朝から雨模様で、しかも昨日の自転車後輪のトラブルもあり、行ける所迄行き、旅を中断する予定だ。
宿の近くにある「芭蕉清風歴史資料館」は早朝のため閉館中で、前庭に芭蕉像があり、裏手は清風宅址で人麿神社が残るのみだ。
奥の細道に「尾花沢にて清風という者を尋ぬ。彼は富める者なれども、志いやしからず。----」とある鈴木清風(通称島田屋八右衛門)に関し、彼らしい伝説が語られている。芭蕉を歓待した尾花沢の紅花豪商清風は、元禄15年江戸商人の紅花不買運動に遭い、品川の海岸で紅花を焼き捨てた。そのため紅花は高騰し三万両の利益を得た清風は、三日三晩吉原の大門を閉ざし、遊女達に休養を与えたと言う。意気に感じた高尾太夫から送られた柿本人麿像を祀った神社が、今も屋敷址に残る人麿神社との事だが、何とも粋な話だ。
芭蕉は清風の肝いりで町の北西にある養泉寺を宿所とした。この寺には「涼しし塚」や芭蕉の発句「すずしさを我やどにしてねまるなり」に対し清風が「つねのかやりに草の葉を焼」と続けた連句碑がある。寺の下の広々とした田圃からは西に葉山・月山が北に鳥海山が望めるとの事だが雨に霞み何も見えない。
ところで、芭蕉はこの地で「這ひ出でよ 飼屋が下の ひきの声」の句を詠んでいる。この句は万葉集の「朝霞 かひやが下の 鳴くかはづ----」が本歌とされている様だが、もしそうで無ければ大変だ。早春の恋の季節ならばいざ知らず、陽暦の七月前半の句だ。こんな時期に寡黙なガマさん声など出すはずがない。さもなくば蛇にでも追いかけられているに違いない。等々と考えながら芭蕉の接待係りを引き受けた村川素英の生前墓に向う。
羽州街道を南下し常信寺手前左側の観音堂に素英の墓の標柱がある。
「みちのく風土記の丘資料館」を過ぎると道は尾花沢バイパス(R13)に入る。土生田から旧道(R120)に戻り、以後R13に付きつ離れつ羽州街道を南下する。本飯田を過ぎ、左手に樹齢600年とも言われる赤松の巨木が現れる。この辺りまでは車も少なく、傘を差しながらの走行も可能であったが、楯岡の街は自転車を引いての雨中行進となる。
麩作りの六田宿を過ぎ、神町に数本残る街道の松などを眺めながら天童の街に入る。この頃には雨も上がり東風が強くなってきた。
天童の一日町から山寺街道に入り、手入れの行き届いた民家の庭先等を覗き込みながら、山寺への道を彼方の山間へと進む。
山寺駅で帰途の乗車券を手配し、駅前に自転車を置き立石寺に向う。
根本中堂前の芭蕉句碑「閑さや巌にしみ入蝉の声」や秘宝館前の芭蕉と曽良の像と句碑を見る。振り返ると念仏堂があり、ここをお参りすると“ポックリ往生出来る”との事で、賽銭を奮発する。硬貨は賽銭箱の桟に当たり跳ね返り、三度目にようやく入った。これを後ろで見ていた娘さん達が曰く「コリャ駄目だ」たって。
これより山門に入り急坂の中段に「蝉塚」がある。「静かさや岩にしミ入蝉の声」の風化した句碑だ。奥の細道に「----岩に巌をかさねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音聞こえず。岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。----」とあるが、観光客の多様な異国語が飛び交い、寂寞としてはいないが佳景(写真)だった。
自転車のトラブルもあり14:54発の仙山線で仙台経由東京に帰る事とした。
今日の走行距離38km


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