行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-10  飯坂~大河原

2007年12月25日 | 奥の細道
2006年10月20日(金) 晴れ後曇り
朝もやたなびく吾妻連峰が実に美しい。
飯坂温泉駅の西1.5kmの所に、佐藤庄司の旧館であった大鳥城跡(海抜230mの館山)がある。奥の細道に「------湯に入りて、宿を借りるに、土座に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、------夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠れず。------」とある芭蕉の宿泊地は滝の湯と云われ、新十綱橋の北200mの花水館横の小公園だ。
新十綱橋を渡り直ぐの信号を東の桑折への道を進む。R124に入り暫く東進すると、北の山並みを背に赤く色付きたわわに実ったリンゴ畑が、柵もなく無防備に続く。写真を一枚撮りたかったが、“リンゴの下で冠を正さず”とあきらめ、広くなったり狭くなったりする道を車に注意しながら進む。東北自動車道をくぐり、新幹線と並進する辺りの路傍に孔雀草?が一面に咲き誇っていた。JRのガードを過ぎると桑折の街に入り、安彦商店の角を左折するとまもなく桑折駅前だ。羽州街道と奥州街道の三叉路に最近整備されたと思われる真新しい追分の標柱(写真)が立っていた。これより奥州街道を進むが、この町には過っての繁栄を偲ばせる土蔵や門構えの家が見られ、宿場町の俤を今に良く残している。
桑折の町を抜け道なりに進み、藤田宿のやや錯綜した道路からR4に合流し、県北中より右の旧道に入り、大木戸小を通過後R4に絡みながら北上する。
西に見える厚樫山は、その昔「阿津賀志山の戦い」として、1189年幕府創設期の源頼朝軍二万五千と迎え撃つ奥州藤原軍(泰衡)二万が激突した所だ。奥州勢は厚樫山の麓から阿武隈川までの長大な三重の堀の防塁をめぐらせ、これに対し頼朝軍は藤田宿に本拠を置き、背後より奇襲をかけ混乱に乗じ伊達の大木戸を突破し奥州軍を壊滅させた。泰衡は蝦夷地へ敗走中に家臣により殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡した。この戦で軍功のあった常陸入道念西が頼朝から伊達郡を授かり、伊達朝宗と称したのが伊達氏の祖と言われている
近くには義経腰掛の松や厚樫山古戦将士の碑等がある。
峠に向かい上り坂が続き、貝田駅を過ぎJR・高速道・R4が交差する辺りが福島と宮城の県境の峠だ。間も無く左の旧道へ入ると人気の無い越河宿となる。JRと高速道の間のR4を北上すると突然左手に馬牛沼が現れる。秋の水枯れか?水位が低く、雨期の満水時の趣を想像しながらR4を右折し(直進すると路肩が狭く大型車には要注意だ)、旧道を田村神社の甲冑堂に向かう。佐藤継信・忠信の妻達の木像が安置されているが、この堂は明治時代放火で焼失し、昭和初期の教科書に妻達の話(医王寺参照)が掲載されたことで再建されたと言う。先程の沼では征夷大将軍坂上田村麻呂の馬が溺れ死に、神社には田村麻呂が祭られ、また義経の鐙摺石などと言う古い話が多く残っている。
R4へ入ると蔵王の方角から真っ黒な雨雲が湧き上っているので、白石市街を迂回し先を急ぐ。白石川に架かる新白石大橋を渡る際、道路の左側を走っていたが、橋上からは歩道も路側帯も消え高速道路に迷い込んだ様な状況となり、車の恐怖に脅えながら1km程進み、ふと見ると立派な歩道が道路右側にあるではないか(何たる事よ!)。白石蔵王工業団地辺りの歩道の無いR4を恐々と過ぎ西に向かう。大河原町に入ると地図上に「一目千本桜」とある。秋にここを通過するのも無粋な話だ。空模様もいよいよ怪しくなって来たので、来春を期し大河原駅に向かい帰路に着く。大河原駅で自転車をたたんだ時、ペダルを忘れて来た事を帰宅して気付く。
これを機に再移動の際は必ず「忘れ物無しヨシ!」と指差呼称することにした。
今日の走行距離 43km


最新の画像もっと見る