行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-8  白河~日和田

2007年11月18日 | 奥の細道
2006年10月18日(水) 晴れ
家を5時前に出発し白河駅へ9時過ぎに到着。駅の北には小峰城跡、南東1.5kmに宗祇戻し、南3kmに南湖公園などがある。駅の東の旧陸羽街道を北に向かい、さほど広くない阿武隈川を渡り、女石T字路でR4(陸羽街道or奥州街道)に合流し右折する。女石には「仙台藩士戊辰戦没之碑」があるが、この地は会津街道と仙台街道の分岐点で、戊辰戦争東軍の最前線基地となり激戦が展開された模様だ。この時に小峰城も炎上している。
根田のあたりの丘の上にお堂があり安珍生誕の地との事だが、昨今の○○王子達も安珍の様に女難に合わないと良いが。これより3km程進み、やや遠回りだが旧道へ左折し小田川郵便局を過ぎ、道なりに進み突当りのT字路を右折しR4に出るルートが安全だ(R4を直進すると歩道が無く車が危険)。R4を1km程進み交差点を右折し、旧道(このバス道路は須賀川まで続く)に入ると松並木があり、暫し静かな道を走ることが出来る。矢吹駅を過ぎ鏡石町に入る頃よりR4に合流したり、横切ったりしながらバス道路を進み、一里担交差点を右折、JRをくぐり直ぐに左折しR355(旧陸羽街道)を1.5km程北上すると左側に須賀川のNTT(この辺一帯が芭蕉を歓迎した相良等窮の屋敷跡だ)がある。
その裏側が可伸庵跡で「世の人の みつけぬ花や 軒の栗」の芭蕉句碑があり、近くの須賀川市役所の芭蕉記念館を訪れるのも良い。
市役所北東500mにある十念寺の境内には「風流の はじめや奥の 田うゑ唄」の縦長の立派な芭蕉句碑があり、この町全体が何処となく味がある。
これより乙字ケ滝(写真)に向かうが、石川街道(R118)を南下、福島空港への道を横切り1.5km先の稲荷田交差点を過ぎ、間も無く左の側道に入り朱塗りの橋を渡ると左側がビユーポイントだ。この滝は阿武隈川の川巾いっぱいに乙字形に落下し、高さよりも巾の広さが特徴で、昼飯をとりながら木の間隠れの滝の眺めを楽しんだ。
先程の稲荷田交差点を右折し郡山を目指す。岡の内集落・男滝橋(阿武隈川)・JR踏切・日照田集落を過ぎR141へ合流北上する。川東バイパスのガードをくぐり小作田を過ぎ道なりに北上し、宮下T字路を左折すると道はR49に替わる。
芭蕉等が格別の接待を受けたと言う守山を過ぎ、山中交差点横に昔栄えたと思しき田村神社があり、今は落ち葉が舞い、やや寂しい感じの境内に「風流の 初めや----」の句碑がポツンと立っていた。
  田村杜 破れ蜘蛛の巣 門ふさぐ    平兵衛
金山橋で阿武隈川を西に抜け、日出山交差点を右折北上し、郡山市内の走り難いR355をしばらく進み、市街地を抜けた頃は黄昏て来た。今日の宿は二本松に予約してあり、日和田駅から電車で行くことにした。
今日の走行距離 63km

平兵衛の「奥の細道」-7  黒羽~白河

2007年11月10日 | 奥の細道
2006年10月11日(水) 晴~雨
黒羽出張所バス停から北上し、次の農協前バス停近くから左折、道なりに西に進み光明寺跡を通過、白旗城跡の案内板のある四辻を右折すると余瀬の集落だ。
西側に曽良の句碑がある西教寺があり、東の小道へ進むと翠桃の屋敷跡や墓があり、墓の前は稲刈り機や耕運機でふさがれていた。今は鄙びた集落で往時を偲ぶ術はない。
来た道を北に進み蜂巣十文字を左折しR182へ入り北西に進む。篠原辺りの西の山際に芭蕉句碑「秣負う 人を枝折の 夏野哉」とある玉藻稲荷神社を訪ねる。
教養も文才もなく、やや体育系を加味した理系の当方としては、奥の細道の「----那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。----」とある玉藻前を知らず、調べた結果はたいそう興味のある人物?なので披露しよう。
<玉藻前伝説>
中国の殷王、天竺マガダ国の太子、またも中国の周王の前に、その都度名前を替えて現れた美女は、王達を功みに誑かし国を滅亡にと導いていった。この美女こそが白面金毛九尾の妖狐で、我が国には天平七年、美しい少女に化け遣唐使船で密入国した。その後数百年の間人々を惑わしながら諸国を放浪し、捨子に化けたところを、北面の武士に拾われ「藻」と名付けられて育てられた。
藻は成長するに従い博識で絶世の美女へと変わり、宮廷に上がると鳥羽帝の側女「玉藻前」として、その寵愛を一身に受けていった。帝が玉藻前を寵愛するに従い、度々原因不明の病に冒される様になって行き、陰陽博士が占ったところ、神鏡に十二単を着た白面金毛九尾の妖狐が現れ、その原因が玉藻前である事が突き止められ、正体を見破られた妖狐は那須野が原へと逃げのびて行った。
この妖狐は那須野が原でもしばしば村人に悪事を働くので、朝廷は陰陽博士・上総介・三浦介にその退治を命じ、首尾よく退治できたが、その瞬間天地は動き稲妻雷鳴が轟き屍は大岩石と化した。この岩は二百年以上にわたり怨念の毒気を吐き続け、近づく人・動物・飛ぶ鳥・虫等をことごとく死滅させ、これを鎮めるため源翁と言う僧侶が遣わされ、長い祈祷の末に杖で岩を突くと砕け散り妖狐の霊は成仏したと言う(これが那須の殺生石だ)。
<もう一つの妖狐退治>
三浦介が妖孤を追跡中に姿を見失ってしまったが、池の淵に立って辺りを見回したところ、池の面近くに延びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく妖孤を狩ったと伝えられる。この池が玉藻神社の鏡池だ。
この玉藻前は「今ならば偉大なテロリストだ」等と空想しながら、狐塚らしい祠を見つつ、暫し静寂の林の中で古を偲んだ。
R182に戻り北西に進む。乙連沢辺りの農家には秋の花々が庭一面に咲いている。練貫の交差点を右折し坂上の六町歩バス停を左折し、野中の道を唯々北上する。陸羽街道のR4を横切り、鍋掛街道を直進し、JRを歩道橋で越えて黒磯駅西口に出る。
これより那須湯本へ向かうが、交通量の多い街道なのでバスを利用することにした。
湯本のバスターミナルに自転車を預け、温泉神社に詣でる。玉藻前の物語はここでも多く語られているが、やはり玉藻稲荷神社の方が似つかわしく思われる。殺生石・賽の河原・地蔵達を見て芦野へ向かう。
一軒茶屋の三叉路を左のR21に進み、くだり坂が延々と芦野まで続くが、陸羽街道R4を横切るとR28となる。黒田原駅でコンビニ弁当を調達し、左手に赤いトンガリ帽子の地蔵堂を眺め、しばらく走ると芦野駐在所前交差点に到着する。旧陸羽街道R294横の遊行庵からは遊行柳は数百メートルだ。奥の細道の「清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。----」とあるが、西行の「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちとまりつれ」は当地を訪れず、御所の襖絵を見ながら詠んだことになっている。西行の“追っかけ”としてはやや不満が残る。
柳の下で遅い昼食を食べるが、雲が張り出し冷たい風が田面を吹き始めた。雨になる前に新白河駅に辿り着かなければならない。「田一枚 植えて立ち去る 柳かな  芭蕉」ほどとのんびりはしていられない。
陸羽街道R294を境の明神に向かうが、山中辺りの街路樹は大変ユニークな鳥の形(写真)をしており、両側に延々と続く(何羽いることやら?)。ポツポツ雨が降り出し、下野と奥州の間の峠「境の明神」に着く頃にはずぶ濡れだ。社の軒下で衣服を取り替え暫く雨宿りする。雨間をみて白河の関へ向かう。峠を越え1kmほど下り右折、金堀を経て茂ケ崎T字路を右折、2kmほど南下すると白河の関跡で、雨はいよいよ本降りだ。
関を越える時は「---古人冠を正し、衣装を改めしことなど--- 卯の花を かざしに関の 晴れ着かな 曽良」と奥の細道にあるように、当方も着せる衣装も無い自転車に尾花をかざして一句。
       ハンドルに 尾花かざして 関を越す    平兵衛
旗宿で宿を捜すが宿は無く、傘を探せど傘は無しだ。ショボショボ関の森を見学し横道へ出ると「関の森公園」があり、売店でようやく傘を調達することが出来た。秋の夕暮れは早い、まして雨降りだ。早々新白河へ向うが、「庄司戻し」を覗き、傘を差しての片手運転で幾つかの峠を超え、雨に煙る関山を眺め、R289を左折し新白河駅に着く。
薄暗い雨の町の信号がやけに鮮明に見えた。
今日の走行距離 74km

平兵衛の「奥の細道」-6  矢板~黒羽

2007年11月09日 | 奥の細道
2006年10月10日(火) 晴れ
自宅を5時に出て矢板へ8:35到着。駅前で自転車を組み立て、朝食を調達していざ出発だ。駅前を北に進み右折し踏切を越え、中北の信号からR52へ入り、しばらくR4と並進する。新幹線のガード下(沢の信号)を直進すると沢村城跡や観音寺がある沢村に入るが、沢の信号を左折し北東に進むと広々とした田圃の中に箒川が流れている。
橋のたもとで朝食をとる。奥の細道の「小さき者ふたり、馬の跡慕いて走る。ひとりは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしければ、 かさねとは 八重撫子の 名なるべし  曽良 ---」とある芭蕉一向の旅姿を浮き彫りにした「かさね橋」のプレートが橋石にはめ込んである。
その後直線的な道を大田原に向かって進むと、チャボヒバを塔状に刈り込んだ珍しい形の植栽の家があちこちに見られる。
浅香辺で道行くご婦人に「金燈籠へ行きますか?」と問えば「今は用事があるので、金燈籠へは後で行きます」との返事だ。“この道を行けば”と言う必要な言葉を省略した結果がこれだ---大いに反省---参った参った。
R461へ合流し金燈籠の交差点を過ぎ、蛇尾川を渡り、新屋敷のバス停辺りへ来た時に前輪がパンクだ。チューブの傷は縁石等に乗り上げた際に出来る所謂snake biteだ(蛇尾橋で蛇の尾でも踏みつけて噛まれたか!!!)。予備チューブに交換し40分のタイムロスで再出発だ。
黒羽街道を進むと道の駅「那須与一の郷」があり、その裏側の森が那須神社だ。
この神社は源平の争乱・八島の合戦で那須与一が「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、-----願わくは、あの扇の真中射させてたばせたまえ。----」と祈願した金丸八幡宮で、結果は啖呵売などでも語られる「パッと開いた五本骨、朝日に(本当は夕日だ)に輝く軍扇は、那須与一が扇的、狙い違わず命中し、ひらひら落ち行く波の上----」と満願成就した神社だそうだ。
東に進み黒羽の街に入り、大豆田T字路を左折し那珂橋を渡る。これより雲厳寺に向かうが、橋の袂の食堂で昼食をとると驚くほど大きなカツ丼が出て来た。
北に向い前田T字路を右折し、あとは道なりに路肩の狭い道を車に注意しながら、長く緩い登り坂を唐松峠まで進む。峠を越えると下り坂で須佐木の集落に入るが、東の山並みは日本武尊が「これより先は闇ぞ」と言った事から名付けられたと云う八溝山地だ。集落を過ぎてR321へ入るとまもなく雲巌寺(写真)に到着する。
大きな木々の間を流れる清流を、朱塗の橋で渡り、豪壮な山門をくぐると直線的な伽藍が目に入る。こんな山里にかくも立派な寺が出来たものだと感心する。
   あかね舞う 雲なき空の 雲巌寺    平兵衛
黒羽の街中に戻り、下高橋より西への坂道を登ると、この地方を支配した大関氏の菩提寺の大雄寺がある。本堂や回廊が珍しく草葺き屋根で大きな寺だ。隣には芭蕉公園や芭蕉の道、芭蕉の館があり芭蕉ずくめだ。そして要害の黒羽城址へと続く。
その後街中を抜け、明日の道順確認を兼ねて光明寺跡を訪ねる。奥の細道の「修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。夏山に 足駄を拝む 門出かな」とある寺は影もなく芭蕉句碑が木立の中にあるだけだ。
足利銀行黒羽支店の古めかしい建物を懐かしく眺めながら宿に着く。早々パンクの修理に取り掛かった。
今日の走行距離 53km

平兵衛の「奥の細道」-5  鹿沼~矢板

2007年11月05日 | 奥の細道
2006年9月29日(金) 晴れ
鹿沼の町中にある雲龍寺の境内でコンビニ朝食を済ませ9時にスタートする。黒川を御成橋で渡り、例幣使街道を北上する。今市市境に入る頃からゆるい登り坂が続き、歩道のある杉並木が板橋交差点の数百メートル手前まで楽しめる。車を避けるため板橋交差点を東に右折し、次の信号を左折、下野大沢駅前を通過、しばらく静かな田舎道を線路と並進する。日光―宇都宮道路を過ぎ、東武のガードをくぐり、JRの踏切を越えると例幣使街道に再度合流する。合流後は追分地蔵(日光街道と例幣使街道の追分)まで杉並木(写真)が続くが車には要注意だ。
町中の蕎麦屋で昼食後の休憩をしていると、後輩のO君からの定年退職の電話だ。あんなに活躍していた彼も定年かと思うと一抹の寂しさを感じるが、早く無職のプロになることを期待したいものだ。
日光は昨夏訪れた(東武日光駅→中禅寺湖→中善寺→華厳滝→二荒山神社→東照宮→輪王寺→神橋→市内でルートは奥の細道と異なる)ので今回は省き、今市から矢板へ向かうこととした。
春日町交差点を右折北上し、大谷川を渡り、すぐの大谷向交差点を右折する。東武鬼怒川線の踏切を越え、豊田で日光北街道(R461)へ入るが、下り道がなおも続く。芹沼を過ぎると北に「富士山」(427m)と思しき小山が見え、近くには芹沼イチョウや三十六童子がある。大前交差点を右折、次の信号を左折し(この辺には立派な農家が点在する)鬼怒川を大渡橋で越え、東に向かうと船生の集落に入る。地図を見ると南の方にまたも「富士山」(365m)がある-----この辺の人々はよほど富士が好きと見える。
この日光北街道には、多くの地蔵や地蔵堂そして道祖神がある。時には地蔵の頭にトンボがとまっている様は何とも微笑ましい。
玉生に近づくと歩道もあり安全に走れるようになる。奥の細道の「遥かに一村を見かけて行くに、雨降り、日暮れる。農夫の家に一夜を借りて、明くれば野中を行く。---」とある農夫の家は、今では玉生の足利銀行塩谷支店近くのお医者さんの家だ。
荒川を渡り山道を暫らく進むと東北自動車道が目に入ってくる。旧道の四辻には矢板某の屋敷跡がある。ここまで来ると駅はもうすぐだ。
今日の走行距離 56km