アサヒカメラの5月号に田中長徳さんのグラビア写真が出ています。
音楽の世界において、絶対音感の持ち主が時々出現するのですが、彼ら(彼女ら)にとっていわゆる音程を外した音階は我慢ならないものだそうです。いつもこの絶対音感という言葉を田中長徳さんの写真を見る度に思い出しています。カメラは全くの素人で、田中さんが長年取り組んでいるクラッシックカメラの世界やスナップ至上主義というものは私には到底理解不能なことですので、私にはそれらを語る資格もないのですが、いつもその田中さんの写真には感心させられています。田中さんの写真にみられる安定した構図は、どの写真においてもみることができ、これは余人には真似することができない天才少年の世界なのですが、絶対音感の持ち主と同じく、氏にとってのフレームの中の世界は四隅にまで神経の行き届いた完璧な構図の世界であって、私を含め素人写真に見られる不安定な構図は生まれつき我慢のならないものなのどうろうと、そんなことを考えながら見ています。
ハナミズキとライラック
音楽の世界において、絶対音感の持ち主が時々出現するのですが、彼ら(彼女ら)にとっていわゆる音程を外した音階は我慢ならないものだそうです。いつもこの絶対音感という言葉を田中長徳さんの写真を見る度に思い出しています。カメラは全くの素人で、田中さんが長年取り組んでいるクラッシックカメラの世界やスナップ至上主義というものは私には到底理解不能なことですので、私にはそれらを語る資格もないのですが、いつもその田中さんの写真には感心させられています。田中さんの写真にみられる安定した構図は、どの写真においてもみることができ、これは余人には真似することができない天才少年の世界なのですが、絶対音感の持ち主と同じく、氏にとってのフレームの中の世界は四隅にまで神経の行き届いた完璧な構図の世界であって、私を含め素人写真に見られる不安定な構図は生まれつき我慢のならないものなのどうろうと、そんなことを考えながら見ています。
ハナミズキとライラック
わたしが理解しているところでは、写真家田中長徳は、ストレート・フォトグラフィーからコンテンポラリー・フォトグラフィーへ至る系譜を出発点とした写真家だと思います。
トリミングをしない、フィルムに手を加えないのを原則とし、ドキュメンタリーの物語性をしりぞける、自己表現や感情を写真に仮託しない、絵画性を排除し、
カメラアイが写し取った現実の露出を重んじるというような態度にその特徴があります。
チョートクさんよりさらに下の世代では、写真の日常化は圧倒的に進行し、「撮る写真」から「見る写真」へと意識的に視点を移す写真家が登場しました。作家主義やスナップショットの終焉、永遠や一瞬をつなぎ止めることへの懐疑ということが背後にあるようです。しかしチョートクさんの写真はそれらの写真家とも距離を置いたものになっています。
わたしは「ウイーン、ニューヨーク、新潟」が好きです。
私がいつも関心してしまうのが、そういったチョートクさんの無作為の作品であっても構図がすばらしく、ご本人はどう思われるか判りませんが、ウィーンやプラハの写真などは大変美しいものと感じることにあります。これは意図してもできないもので、まさに生得の才であると素人の私はいつも思っています。
ビデオカメラが普及しはじめた頃、メーカー主催の講習会があり、うまく撮ろうと思ったら、ズームは使うなと、焦点は開放で使えとのことでしたが、これはそのままパンフォーカスのことを言っているのがおもしろかったです。
明日は曳山祭りですので、このパンフォーカスでも撮ってこようと思います。
町家のある街はツバメが巣をつくって、さえずりながら飛び交いますよね。あれもこころ惹かれる光景です。
残念ながら小生は、仕事です。
曳山の写真、楽しみにしております。
今年もパノラマ写真が見れるかと期待していたのですが、残念ですね。夏の終わりは来れるといいですね。