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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

巫女の系譜 1

2008年03月14日 | 雑記
 かつて信濃巫女とよばれ、関八州を中心に関西方面まで足を伸ばし口寄せを行いながら旅をしていた人々がいましたが、彼女達のことを調べてみると意外におもしろく、その成り立ちなど資料が少ない中、いろいろと考えていましたら時間がたってしまいました。
 

 日本神道の最高神である太陽神「天照大神」は日本をお造りになった創造神・天之御中神(あめのみなのぬしのかみ)から数え13代目、初めての人格神です。人格神とは所謂現人神のことで、お釈迦様が実在の人間でその後、神仏となられたのと同じく、もともと人であった方です。世界的には通常、太陽神は男性で、月神は女性ですが、日本の場合は太陽神であるアマテラスは女神です。また月神は本来は女神ですが、天照大神の3姉弟の一人で、「月読命」(つきよみのみこと)の性別は分かっていません。弟であるスサノウノミコトは男神ですので不思議な存在です。この天照大神は、わが国の正史である720年に完成した「日本書紀」や、それに先立って稗田阿礼の口述を太安万侶が聞き取り編纂し元明天皇に712年に献上された「古事記」に登場していますが、それ以前より口伝として語り継がれていたものです。もちろん現代人は、継体天皇以降実在が確実視されている方以外は、想像上の神話の世界の話として捉えていますが、これら書物が編纂され、この話を伝え聞いた当時の人々にとっては、長い間、日本神道主宰神である天之御中神以降神々や八百万の神々の存在を疑うことはなかったことだったと思います。本居宣長が古事記伝の中で繰り返し論じている方法論、つまり古事記は今様の解釈ではなく、当時の人々の気持ちになって思い出すように考えないと本当の真実は見えてこないという手法は、特に歴史や文学の世界では大切なことだと思います。この時代の人々にとっては、人と神々の間には現代のような精神的断絶はなく、ごく自然に人と神々が共生していた時代であったことが重要となります。

 本邦最初の現人神である高天原の天照大神が実在の女性であった時、神の言葉を告げ祭事(政)を行っており、これを神託政治といいます。世界的にみても古代国家ないし始原の文明においてはすべてこの神託政治が行われておりましたが、これはユング流に解釈すると精神世界の集合的無意識における直接意識への働きかけが現代人の物質のみすべてという殻に閉じ込められた思想にじゃまされることなく、ほとんど同通していた時代において当然の帰結であると考えられます。また政治以外においても過去の歴史上の大思想家はプラトンはじめ多くの啓示を天の神々との精神的交流の賜物であると考えていましたが、これらの事を思うに現代社会は精神世界においては有史以来かつてない不毛の時代であると言うことができると思います。天照大神は歴史に登場する最初の神の言葉を伝える女性でありましたが、もちろんそれ以前の時代においても日常的にそういった魂ないし精神的指導者は何人もいたと考えるのが自然です。記記によれば、天照大神の次にその役割を果たしているのが神功皇后です。彼女は卑弥呼ではなかったのかという説もありますが、彼女の八面六臂の活躍を思えば、鬼道を使うと魏志倭人伝に記載されている卑弥呼と少なからず共通点があることもたしかです。史家は登場した年代が違うということで、この説は退けられていますが、そもそも記記の記述はある人々にとって都合良く作られた傾向がありますので、ほとんど利害関係のない第三者である中国の正史の方が遥かに確かなもので、逆に卑弥呼は大和朝廷の女王である神功皇后と呼ばれている人であるとした方がパズルがうまく納まるような気がします。また神功皇后は卑弥呼の後継者の台与(とよ)であったとする方もいらっしゃいますが、流れからすると卑弥呼の方がすっきりします。邪馬台国論争についてはどこにあったのかということが何十年と議論されていますが、場所はともかく乱暴かもしれませんが、このヤマタイコクという読みはそのまま「大和国(ヤマトコク)」と読み替える方が自然だと思います。つまり大和朝廷の中興の祖は中国では卑弥呼と呼ばれていた人物ではないのでしょうか。もちろん卑弥呼というのは漢字が入ってくる前の日本での読み方を当時の中国の人が漢字で表したあて字ですので、その字自体にはなんらヒミコの由縁はないはずです。ヒミコのヒはお日様の日であり、ヒノモト(日本)ということを象徴し、またヒミコのミコという呼び名はその後「巫女」の語源となったと想像できます。つまり天照大神の太陽信仰の系譜を卑弥呼が受け継いだのであり、それが日本国という国名まで発展しています。

 聖徳太子の時代までは神の言葉を伝える女性は、神官として祭祀を取り扱っていましたが、大化の改新以後、律令制度が固まると神職の地位は次第に女性から男性へと変わって行きました。しかし、所謂神がかり状態になるのは現在でも見られるように従来から女性の方が圧倒的に多く神社においては巫女として神職を補佐する形で残ることになります。この男性による管理社会は、そもそも日本においては稲作による国造りに端を発していますが、その名残が現在も新嘗祭とし千数百年に亘り、連綿と続いています。この男性の神職進出により巫(かんなぎ)の女性達の中には、前述のように神社に巫女として所属する者と、漂白の常民としてひとつの職業として庶民の中に入って行くものが出てきます。平安中期に藤原明衡によって書かれた「新猿楽記」によると巫女の仕事は卜占、神遊、寄弦、口寄であったとされています。卜占は文字通り占ができること。神遊は神に捧げる踊りのこと、寄弦はよりづると言い、梓の木で作った弓で音楽を奏でること。そして口寄は死者などの言葉を話すことです。これらの技術は歴史の表舞台に出ることはありませんでしたが、驚くべきことに明治初年まで一つの女性の職業として続くことになります。







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