折々のうま-当たらぬでもなし

泉下で涙する杉浦 千畝

現代の妖刀 根幹距離

2008年07月30日 07時37分04秒 | 競馬
恥ずかしい話だが、私は根幹距離という用語を知らなかった。
某競馬雑誌や一部評論家の中ではもてはやされているようだ。
実際データを見ると得意不得意が顕著らしい。

何回もいうがデータというものは前提が崩れれば、
全てが崩れるのである。
根幹距離のレースはいわゆるG1に多い距離体系で、
基本的には400mの倍数。
G1での例外は、ダートは別として、
宝塚記念、菊花賞、エリザベス女王杯、有馬記念、
定義のばらつきがあるので、2500m以上も除くとすれば、
春の天皇賞である。

ここまでいうとピンとくる人はピンと来るだろうが、
宝塚記念や有馬記念は別として、
中京の2500にディープインパクトが出てくるのか、
ということである。

クラシック路線を歩む馬は新馬の時から、
トライアルをにらんだローテを組むし、
勢い有力馬の集まるステップが出てくるものである。
それらは根幹距離と称される距離が多い。
出走権がかかったトライアルでは、
有力馬とかち合わないように、
さながら民族大移動ということもあるが、
要は有力馬の集結するステップと、
そうでないレースは傾向が違うのは当然である。

私が言いたいのは距離相関というよりは、
むしろ相手関係に左右されているのではないか、
同じサンデーでも福島1700に出てくるような
サンデーではレベルが低いので、
非根幹距離では相対的に他の馬・血統が浮上しているのに過ぎない
のではではないかということだ。
根幹距離では良血素質馬が多いので当然勝ち上がる。
ディープスカイは多少距離が伸びようが、
相手関係にもよるが絶対的能力で押し切ってしまうのである。

素直に各場条件戦やコース毎の強い馬・血統とすれば納得なのに、
根幹距離などという妖刀を持ち出してくるので、
訳が分からなくなるのである。

確かに中山2500などは距離適性よりは、
ラップや手前の変え方、一呼吸おけるタイミングなどで、
意外な相関距離があるのは承知しているが、
それは、むしろコース形状の問題である。

平場の傾向としては一目置かざるを得ないが、
莫大なデータの蓄積により初めて分析可能である。
自分で当てるというよりは、
機械に抽出してもらう感覚になり私の好みではない。

例えば京都1600はより短距離に適性を示すし、
東京1600はむしろ中長距離に適性を示す。
東京2400と2500はわずか100mの違いだが、
2500は坂が2度越えとなるため、
ステイヤー指向の強いレースとなることは周知の事実である。

大体にして1200は根幹距離なのか非根幹距離なのか、
それさえバラバラだ。
短距離はむしろ斤量・枠順だから当てにはならないだろう。

条件別・コース別のデータの方が余程理にかなっている。
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なぜ競馬は必要なのか

2008年07月03日 03時03分51秒 | 競馬
なぜ競馬は必要なのか。

競馬の醍醐味は私以上に熱く語っている人がいるのでそちらに譲る。

社会にとって必要なものなのか私なりに考えてみた。

動物虐待である。
ギャンブル依存症を生み出している。
競馬場や場外ではお行儀の悪い「ファン」がいて近隣の方は、
さぞご立腹だろう。
あれほど車で来るなといっているのに交通渋滞もひどい。

そもそも日本での近代競馬の発祥は軍用馬の育成が主眼だと思っている。
それが現在に至るまでの過程で、財政に寄与してきたわけだが、
レジャーの多様化による赤字転落で地方競馬は存亡の危機に瀕している。

JRAに限っていうと、主管は農林水産省である。
実際、生産者を含み就業者の裾野は広い。

現在、日本の畜産は危機に瀕している。
競走馬を食うわけではないが、牧畜業というのは関連産業がないと
単独では成り立たないものである。

競走馬というのはそれ自体はたいしたことはないが、
こと大型動物の繁殖技術の涵養、獣医師志望者の安定した就職先という点では、
これくらい大きいものはないのである。
人間の医療の崩壊が問題になっているが、それは畜産業における
獣医師でも起こりつつあることなのである。

ブランド牛の産地の近所に地方競馬があるのは決して偶然ではないのである。
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