折々のうま-当たらぬでもなし

泉下で涙する杉浦 千畝

実はサンフランシスコ平和条約に招請すらされなかった韓国

2012年08月23日 12時18分51秒 | 政治
 韓国については、1949年(昭和24年)12月3日、駐大韓民国アメリカ大使が中国国民党軍
の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求
を諦めさせることができること等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。それを
受けて、駐韓アメリカ大使の進言後の1949年(昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が
締結国のリストに新たに加えられた。日本は当初、韓国と戦争状態になかったこと(大韓
帝国は戦前に日本と併合され、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、また他の亡命
政府のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しなかった)等を理由に反対
したが、「追加覚書において在日朝鮮人が連合国人としての地位を獲得しないこと」を条件
に署名反対に固執しないとした。
 しかし、日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが1951年(昭和26年)5月
の米英協議等において韓国の条約署名に反対し、アメリカも韓国臨時政府を承認したこと
がないことから方針は変更された。1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス
は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも
署名していない」として署名国となれないことを通知した。この通知後も再び韓国は署名国
としての地位を要求したが、1951年(昭和26年)8月22日にダレスは韓国大使の署名要求を
再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否、「非公式に代表を
送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」と回答した。その後、李承晩ラインの
設定などで険悪になった日韓両国の国交が回復するのは、1965年(昭和40年)の日韓基本
条約の締結まで時を経なければならなかった。
(Wikipedia)

 ダレスのこれほどまでの強硬路線の理由については、またの機会に。

 韓流バカよ。韓国は終戦直後、対馬割譲を要求していたのだ。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サンフランシスコ平和条約と... | トップ | 韓流ドラマの見方が問題 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

政治」カテゴリの最新記事