(写真は梅香の子規句碑)
常陸国風土記
加賀前田家にあったものが大日本史編さんの過程で筆写されたそうですが、昭和20年の空襲で焼失したそうです。もっともその写本(文久2年)は残っているそうです。藤原宇合(うまかい)と高橋虫麻呂が成立に関係しているようです。
水府地理温古録
高倉胤明(たねあき)による水戸の地誌で、合理的な解釈をしつつ、詳細に水戸の町々を描いています。父、大叔父の収集した史料を中心にしているそうで、代々の成果といったものなのでしょうか。
東北遊日記
宮部鼎蔵らと、脱藩して脇道をたどって東北をめざした吉田松陰による水戸等の訪問記です。「会沢(正志斎)を訪ふ。会沢の宅にて青山量太郎(延光)を見る。量太郎は延于(えんう)の子にて、本(もと)天狗党たり。聞く、近ごろは姦党に駆使せられて史局(彰考館)に出入すと。意(おも)ふに所謂(いわゆる)蒟蒻(こんにゃく)党なる者ならん。」などとあります。
救民妙薬
徳川光圀が、藩医・鈴木宗与(穂積甫庵)にまとめさせた、身近な薬草等を使用した397種の民間薬の処方書です。京都で出版され、水戸藩内だけではなく、広くしかも100年以上版を重ねた長寿の本だったそうです。
水戸紀行
正岡子規が、会えなかったそうですが、友人の菊池謙二郎を訪ねて水戸を訪れた際の紀行文です。往路は徒歩で、帰りは汽車だったそうです。車中から見えた南崖の穴(笠原水道樋などに使われた神崎石を切り出した跡)を気にしつつの帰りだったようです。紀行の中にはありませんが、「崖急に梅ことごとく斜めなり」(偕楽園句碑)、「この家を鴨ものぞくや仙波沼」(梅香1-6-8句碑)などの句ができたそうです。
車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)は、佐竹氏の家臣で、佐竹氏秋田移封後も残って水戸城奪還をはかったものの、捕らえられて磔(はりつけ)になったそうです。徳川家康はその死を惜しんだそうです。判官(ほうがん)びいき伝説の一つなのでしょう。(写真は稲荷塚)
常照寺
元吉田町2723 029-247-7172
この地は馬場氏(大掾氏)の一族吉田氏の居館があった所で、佐竹氏の水戸支配とともに、その家臣の武将、車丹波の居城となったそうです。水戸城を守る南方のとりでの役割を果たしていたようで、堀跡などが残っています。
車塚
元吉田町2461付近
一本松があったところだそうで、車丹波の死骸を埋めたところとして信仰されていたようです。一本松のケイ(咳)さんといわれ、青竹の筒に入れた甘酒を供える習慣があったそうです。車丹波守憤恨の地と表示されています。
磔の地
元吉田町2316-13付近
高台にあるきつね塚ともいわれる稲荷(とうか)塚は、車丹波が磔(はりつけ)にされた地だそうです。磔の地は、青柳という説もあるようです。
咳(せき)の神さま
元吉田町2461付近
一本松の陰に隠れていた車丹波守が咳(せき)をしたために捕まったということから、咳の神様になっているそうです。常照寺の屋形から台町の車塚に通じる穴の中で咳をして、という話もあるそうです。
吉田松陰
元吉田町2461付近
幕末に水戸を訪れた吉田松陰が「千波湖の西を過ぎ高陵に登る、平原あり、蓋(けだ)し操場(磔の地という意味でしょう)なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封(しほう)の時、壁(とりで)を要(まも)り戦死すと云ふ」と東北遊日記にあります。あとから追って来た安芸五蔵の母は丹波の末裔だそうですから、それで行ったのでしょう。
(写真は大手町石碑周辺)
東京は町を「ちょう」と読む場合が多いといわれています。水戸の場合はどうでしょう。郵便番号のサイトで見てみると、「ちょう」が104で、「まち」が9です。水戸市の旧町名(昭和37年に国によって施行された「住居表示法」によって変更される前の住居表示)サイトでは、「ちょう」が59で、「まち」が10です。
郵便番号の「まち」は、大町、金町(かねまち)、柵町(さくまち)、大工町、備前町、南町、宮町、元台町、柳町の9つです。
旧町名の「まち」は、大手町、仲町、新町(しんまち)、西町、肴町、浮町、桜町、鷹匠町(たかじょうまち)、北町、寺町の10です。
郵便番号の「ちょう」と「まち」との比率は8.6%、水戸市の旧町名サイトの比率は16%です。これだけでみると、最近の町名表示では「ちょう」がふえてきているということでしょうか。それでも、「まち」に対して、「ちょう」が圧倒的に多いのは変わっていないようです。
(写真は本法寺)
中根寺(ちゅうこんじ)
加倉井町595 029-251-8065
元仁元年(1224)創建の真言宗のお寺で、本尊は平将門(たいらのまさかど)に説教したという延命地蔵だそうです。境内の阿弥陀堂(常陸千日堂)には地蔵、観音、弘法大師等多くの仏像と共に、壁には千体仏が並んでいるそうです。また、剣の達人の和田平助がこの地で自刃し、その時持っていた護持仏の摩利支天等を安置する摩利支天堂があります。
神応寺
元山町1-2-64 029-221-7772
天正19年(1591)に佐竹氏一族の32世遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が、旧藤沢小路(現梅香2丁目)に藤沢道場という名称で開基した時宗のお寺だそうです。延宝8年(1680)に現在地へ来たそうです。本尊は蹴上げ観音といい、落ちてきた雷を左足で蹴上げて母が救われたという人物が奉納したものだそうです。隣の別雷皇太神は、もとは神応寺が祀っていたそうです。
本法寺
水戸市千波町2367
創建未詳の日蓮宗のお寺です。天保の改革の一環で徳川斉昭が出した梵鐘濡仏(ぬれぼとけ)等供出の命令に従わず、寺は破却され、建物は神崎の鋳造所の燃料になったということです。本堂は明治44年に建てられたそうですが、墓のみがかつての雰囲気を保っているようです。昭和46年に境内墓地から江戸時代のものらしい90枚位の法華経が書かれた珍しい経皿が発掘されたそうです。会沢正志斎のお墓があります。
善重寺
酒門町2096-2 029-247-505
貞永1年(1232)に親鸞の弟子善念(二十四輩第十二番)が現在の那珂市に開基した浄土真宗のお寺で、今の地に移ってきたのは寛文2年(1662)だそうです。光圀が寄進した鎌倉末期作といわれる聖徳太子像が境内の太子堂に安置されているそうです。
安国寺
水戸市大足町1184-1 029-259-4356
創建寛文3年(1663)の曹洞宗のお寺だそうです。近くの有賀神社で元禄期の安国寺の過去帳が見つかり、寺に戻されたそうです。鐘楼の梵鐘は戦時中供出されましたが、昭和43年に信徒により再鋳されたそうです。シダレザクラの名所となっています。
(写真は小宮山楓軒屋敷跡碑)
小宮山楓軒屋敷跡
城東3-1-47 (城東市民センター)
立原翠軒(たちはらすいけん)に師事して彰考館に入り、大日本史編さんに16年間加わったそうです。著書に「農政座右」「垂統大記」などがあるそうです。その後、郡奉行となって21年間民政に携ったそうですが、辞めるにあたって郷民は別れを惜しんで悲泣し、慈母を慕うようだったということです。
武田耕雲斎屋敷跡
見川2-96-3(見川小学校)あたり
徳川斉昭の梵鐘等の供出を拒否して廃寺となった妙雲寺跡が、老中、耕雲斎の屋敷になったそうです。今の見川小学校あたりだそうです。武田は、戸田忠太夫、藤田東湖と並んで、水戸の三田と称されたそうです。
豊田天功屋敷跡
新荘2-11-1(新荘小学校)
藤田幽谷の青蘭舎で学んだそうです。彰考館に入って、大日本史の志類数編を完成させ、総裁にもなったそうです。吉田松陰が訪れましたが、初回は病気で会えなかったそうです。会えたときには「学問該博、議論痛快、人をして憮然たらしむ」と記しています。
藤田東湖蟄居屋敷跡
竹隈
徳川斉昭の隠居謹慎に伴い、東湖もはじめ江戸で蟄居幽閉され、次いで水戸竹隈の屋敷におくられたそうです。ここで父幽谷の始めた学校・青蘭舎を再興したそうです。禄のほとんどなくなった酒好きな東湖は、酒一升分で依頼される書の願いに答えたとかいいます。イオン下市店の西側付近だったようです。
真木彦之進屋敷跡
五軒町1-6-8 (水戸京成パーキングプラザ)
真木氏は徳川賴宣、頼房に仕えて代を重ねたそうです。彦之進は、幕末の内紛打開を図るための水戸支藩である宍戸(ししど)藩鎮撫隊に加わったそうですが、結果的に反幕側となり、切腹したそうです。マイク真木は末裔だそうです。