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水戸の見て歩き

水戸の屋敷跡(3)

2016-08-17 22:13:24 | 水戸

                          (写真は小宮山楓軒屋敷跡碑)

小宮山楓軒屋敷跡
 城東3-1-47 (城東市民センター)
 立原翠軒(たちはらすいけん)に師事して彰考館に入り、大日本史編さんに16年間加わったそうです。著書に「農政座右」「垂統大記」などがあるそうです。その後、郡奉行となって21年間民政に携ったそうですが、辞めるにあたって郷民は別れを惜しんで悲泣し、慈母を慕うようだったということです。

武田耕雲斎屋敷跡
 見川2-96-3(見川小学校)あたり
 徳川斉昭の梵鐘等の供出を拒否して廃寺となった妙雲寺跡が、老中、耕雲斎の屋敷になったそうです。今の見川小学校あたりだそうです。武田は、戸田忠太夫、藤田東湖と並んで、水戸の三田と称されたそうです。

豊田天功屋敷跡
 新荘2-11-1(新荘小学校)
 藤田幽谷の青蘭舎で学んだそうです。彰考館に入って、大日本史の志類数編を完成させ、総裁にもなったそうです。吉田松陰が訪れましたが、初回は病気で会えなかったそうです。会えたときには「学問該博、議論痛快、人をして憮然たらしむ」と記しています。

藤田東湖蟄居屋敷跡
 竹隈
 徳川斉昭の隠居謹慎に伴い、東湖もはじめ江戸で蟄居幽閉され、次いで水戸竹隈の屋敷におくられたそうです。ここで父幽谷の始めた学校・青蘭舎を再興したそうです。禄のほとんどなくなった酒好きな東湖は、酒一升分で依頼される書の願いに答えたとかいいます。イオン下市店の西側付近だったようです。

真木彦之進屋敷跡
 五軒町1-6-8 (水戸京成パーキングプラザ)
 真木氏は徳川賴宣、頼房に仕えて代を重ねたそうです。彦之進は、幕末の内紛打開を図るための水戸支藩である宍戸(ししど)藩鎮撫隊に加わったそうですが、結果的に反幕側となり、切腹したそうです。マイク真木は末裔だそうです。

コメント
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