ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の柳堤(りゅうてい)

2016-08-08 20:40:18 | 水戸
(写真は天保時代の古地図を模写したものの一部です。下の方の横に長くのびているのが柳堤です。)

 徳川頼房の慶安4年(1651)に、上町の旧奈良屋町南あたりと、下町の今の備前堀取り入れ口あたりとをつなぐ、長さ18町(これには色々な数字があるようです。 地図で見ると1400m弱くらいのようです)、幅3.5間の、千波湖を埋め立てた道が築かれたそうです。これにより、上町と下町との往来の便がよくなり、城下町の発展に大変寄与したようです。

 上町側からは梅香や、黒羽根町の崖土が、下町側からは武熊(竹隈)城あたりの土が運ばれたそうです。堤の両端には木戸と番所が作られ、道の途中にも番所が置かれたそうです。道中の三ヶ所に橋が作られ、東から東ノ橋、中ノ橋、西ノ橋(幕末には一番橋、二番橋、三番橋)と呼ばれていたようです。

 初めは新道と呼ばれたそうですが、元禄3年(1690)光圀が中国の西湖にならって道に柳を植えさせ、柳堤と名づけたそうです。

 大正11年から始まった千波湖の三分の二を埋立てる事業で、柳堤は姿を消し、柳堤橋などにその名が残りました。今の千波湖北側にある散策路のようなものだったと思えばよいのでしょう。
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