本町銅像(茨城県信用組合下市支店前 本町3-2-29)
天保6年(1835)に、本六町目(今の本町3丁目)で搾油と米穀商を営んだ商家に生まれたそうです。安政5年(1858)に彰考館に入り、大日本史の編纂事業に加わり、幕末の騒乱時にも、それに加わることはなかったそうです。明治6年新政府の招きで国史関係の仕事にあたり、明治11年水戸に戻り、大日本史の完成を目指したそうです。明治17年御用掛等に、明治22年再び水戸に戻り大日本史編纂にたずさわり、明治25年には東京帝大文科大学の教授にもなったそうです。
常磐神社(常磐町1-3-1)
偕楽園の公園化計画を知り、徳川光圀・斉昭をまつる神社創建を建議して、常磐神社建設のきっかけをつくったそうです。その請願書を、鹿児島に下野する西郷隆盛が、高官に托していったという話もあるそうです。偕楽園の敷地の一部を使って、明治7年に神社は建てられたそうです。
輔仁学舎(ほにんがくしゃ)
明治13年に輔仁学舎という私塾を開き、水戸の学風を若い世代に伝えようとしたようです。寄宿生が英語を教えている他の塾へ通うことは認めていたそうです。旅館いづみ荘(梅香1-3-30)があったあたり(写真)のようです。
大日本史完成之地碑(偕楽園南崖 常盤町1-3-3)
大日本史はほとんど完成していたそうですが、明治32年に栗田は死去したそうです。その後継者たちの努力や、高橋義雄らの側面援助などもあり、明治39年に完成したそうです。
墓(六地蔵寺 六反田町767)
栗田寛は、65歳で死去したそうですが、その墓碑の題字「継往開来」は徳川慶喜が、碑文は内藤耻叟が撰したそうです。
仰景碑(けいこうのひ 常磐神社 常磐町1-3-1)
常磐村の農民有志が、斉昭の仁政を感謝して御蔭講(みかげこう)を行い、常磐神社創建のときには、杉の苗3千本を奉納したことなどが刻まれた碑だそうです。題字は福羽美静、文は栗田寛だそうです。