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水戸の先人

2017-05-13 22:20:02 | 水戸


 こういう人々をもっと水戸の人たちは思い出す必要があるような気がします。(写真は井坂幹、直幹父子の寄贈して3・15震災で倒壊した渋井町鹿島神社鳥居の名残です)

阪場志業(むねなり 天保4年1833-明治44年1911)
 徳川斉昭のひらいた製砲所と射撃場だった神勢館で、鉄砲製造の鉄砲師となり、斉昭から脇差銃(わきざしじゅう)の製造を命じられて、それをつくりあげて献上したそうです。明治16年から猟銃の製造をはじめて、阪場銃砲器(SKB)の基礎を築いたそうです。

石河幹明(安政6年1859-昭和18年1943)
 師範学校予備科から福沢諭吉同郷の校長・松木直己の紹介で慶応義塾に進み、福沢が創刊した時事新報社へはいり、福沢諭吉の語りを社説とする社説記者(中上川彦次郎が最初で、渡辺治、高橋義雄もなったそうです)となり、主筆となり、福沢諭吉伝を執筆したそうです。

高橋義雄(文久元年1861-昭和12年1935)
 師範学校予備科から校長・松木直己の紹介で慶応義塾へ入学し、その後、時事新報記者を経て、欧米を遊学して、明治24年大卒者として初めて三井へ入社したそうです。三井呉服店を日本初のデパート三越につくりかえて近代化をはかり、三井の中で重きをなしたそうです。引退後は、箒庵という号で茶を楽しんだそうです。

井坂直幹(なおもと  万延元年1860-大正10年1921)
 井坂幹の長男で、彰考館で大日本史編纂に参画し、その後、松木直己の紹介で慶応義塾に入り、時事新報社を経て、大倉組に入り、製材担当をしたそうです。独立して東洋一といわれた秋田木材という製材会社を創立し、能代の発展に尽くしたそうです。

井坂孝 (明治2年1870- 昭和24年1949)
 井坂幹の三男で、明治21年に茨城県尋常中学校(現水戸一高)を出て、東京帝国大学に入り、卒業後、東洋汽船に入社し、その後、横浜商工会議所会頭などをつとめ、関東大震災後の横浜復興に尽くしたそうです。日本経済連盟会長、枢密顧問官にもなったそうです。

渡辺治(元治元年1864-明治26年1893)
 石川と同様、松木校長の紹介で福沢諭吉の慶應義塾へ入り、卒業して、時事新報社に入社したそうです。その後、請われて大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)社に入社して主筆から社長になり、現在の新聞スタイルの源流になるような改革をおこなったそうです。社長のまま、第1回衆議院議員選挙に当選したものの、29歳で死去したそうです。


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