小野言員(ときかず 妙雲寺)
徳川光圀の傅(ふ 養育係)だった武士で、「横柄傲慢で服装などかぶきものに等しく 家康の孫とは夢にも思われない これでは親不孝もはなはだしい」といった意味の長文のいさめ書き、「小野諫草(いさめぐさ)」を、光圀が16-7才の頃書いたそうです。
田口茂兵衛(仏性寺)
水戸藩は、頼房の時代から那珂川で獲れた初鮭を朝廷と幕府に献上していたそうです。承応2年(1653)に中間(ちゅうげん 武士に仕え、雑役に従事した奉公人)・田口茂兵衛らは朝廷へ献上鮭を届ける途中に東海道岡部の宿で、旗本衆との道を譲る譲らぬのいさかいで、相手に12人の死傷者を出させたものの、応援の旗本衆に殺されたそうです。これを知った頼房は、初鮭献上の飛脚に短刀しか認めていなかったのを残念がり、中間以外にも帯刀を許したそうです。墓は昭和32年再建されたものです。
原南陽(酒門共有墓地) 宝暦3(1753)-文政3(1820)
水戸藩医をつとめ、古法を尊重した、実証的医学を発展させたそうです。北見町にあった田見御殿跡に朝鮮人参などを植えて薬草園にしたそうです。本間玄調の師だそうです。
大内清衛門(酒門共有墓地) 天明8(1788)-慶応3(1867)
那珂湊の海産物問屋業、回船業を営んだ豪商で、藩への献金により郷士として最高の待遇をうけた家でもあったそうです。光圀同様、蝦夷に興味を持っていた斉昭の命によって、大内清衛門は天保9年(1838)に極秘裏に蝦夷へ向かい、千島、シベリア、サハリンを調査したそうです。最大限の賛辞を記す司馬遼太郎の碑が隣にあります。
本間玄調(常磐共有墓地) 文化元年(1804)-明治5年(1871)
現・東茨城郡小川村の生まれで、水戸藩医でしたが、斉昭から救という名を賜ったそうです。17才で原南陽に入門し、その後、シーボルトや華岡清洲に師事したそうです。蘭方と漢方とを折衷した医術を弘道館医学館で教授したそうです。藩内での種痘実施にも尽力したそうです。