持病がいくつかあり、通院しょうと思っていましたが、祝日でした。
暑さ寒さもひがんまでのとおり、朝晩は、たいへん涼しくなりましたが、昼間は、まだ、暑いです。
暑さ寒さもひがんまでのとおり、朝晩は、たいへん涼しくなりましたが、昼間は、まだ、暑いです。
カウンセリングの方とお話する機会がありました。
特に、困っているというわけではありませんが、30分程度
お話をすることになりましたる
キーは、カウンセリングの方は、「傾聴」しれていて、こちらがお話を聞いてもらった感じでした。
特に、困っているというわけではありませんが、30分程度
お話をすることになりましたる
キーは、カウンセリングの方は、「傾聴」しれていて、こちらがお話を聞いてもらった感じでした。
トラブルが発生です。やはり設備は、いつか故障しますが、早期発見が大事です。
幸いメンテナンス中の発見ですから、早ければ明日直せるようです。
今日の晩ご飯は、頼んでおいたので、電話するとカレーです。
残しておいてもらうようにお願いしました。
帰寮後に、部屋でカレーを食べましたが、いつもより2時間以上遅い食事になったので、
カレーの半分、サラダの半分は、残して、明日の朝食のまわします。
幸いメンテナンス中の発見ですから、早ければ明日直せるようです。
今日の晩ご飯は、頼んでおいたので、電話するとカレーです。
残しておいてもらうようにお願いしました。
帰寮後に、部屋でカレーを食べましたが、いつもより2時間以上遅い食事になったので、
カレーの半分、サラダの半分は、残して、明日の朝食のまわします。
三木東インターから下りて三木城跡や金物資料館を見学したあと 三木小野インターから山陽道に乗る予定でしたが 近くにある小野陣屋へ行くことしました。
カーナビの目的地は、小野小学校にセットすれば、OKです。
陣屋跡は、小野市の中心の小野小学校がその場所で陣屋風の門や校舎になっています。
//////データ//////
小野小学校正門脇には「一柳藩敷地旧陣屋跡」の石碑が建っています。寛永13年(1636)伊勢・神戸藩50000石の一柳直盛は、伊予西条(58600石)に加えて播州加東郡10000石を所領するが、直盛が病で亡くなり所領は息子に三分割され、それぞれを引き継ぐことになり次男直家に28600石を分知・播磨:小野一柳藩陣屋を構えます。寛永19年(1642)直家の死で嗣子がなく家名断絶となるところ、幕府は関ヶ原での先祖に軍功により、伊予の領地を没収した上で養子:一柳土佐守直次に改めて小野1万石を与え、承応2年(1653)今の地に移して近世小野陣屋を構築しています。遺構は何も残っていないが、南と西は崖となっており北東部が台地の市街地に接しています。陣屋内は土塀で仕切られ、陣屋の東から北側にかけて藩士宅が建ち並んでいたようで、明治維新を迎えて廃藩になるまで、一柳氏が十一代に渡って小野藩を維持してきました。なを小野城の城主を「播磨鑑」では天正年間以前(1573-92)別所長治の幕下で小野権右衛門とされていますが、小野氏や別所氏との関係は不明です。城の位置関係からは垂井氏が垂井城(小野市新明町)を築く以前に小野城を築いていたとも考察されています。
カーナビの目的地は、小野小学校にセットすれば、OKです。
陣屋跡は、小野市の中心の小野小学校がその場所で陣屋風の門や校舎になっています。
//////データ//////
小野小学校正門脇には「一柳藩敷地旧陣屋跡」の石碑が建っています。寛永13年(1636)伊勢・神戸藩50000石の一柳直盛は、伊予西条(58600石)に加えて播州加東郡10000石を所領するが、直盛が病で亡くなり所領は息子に三分割され、それぞれを引き継ぐことになり次男直家に28600石を分知・播磨:小野一柳藩陣屋を構えます。寛永19年(1642)直家の死で嗣子がなく家名断絶となるところ、幕府は関ヶ原での先祖に軍功により、伊予の領地を没収した上で養子:一柳土佐守直次に改めて小野1万石を与え、承応2年(1653)今の地に移して近世小野陣屋を構築しています。遺構は何も残っていないが、南と西は崖となっており北東部が台地の市街地に接しています。陣屋内は土塀で仕切られ、陣屋の東から北側にかけて藩士宅が建ち並んでいたようで、明治維新を迎えて廃藩になるまで、一柳氏が十一代に渡って小野藩を維持してきました。なを小野城の城主を「播磨鑑」では天正年間以前(1573-92)別所長治の幕下で小野権右衛門とされていますが、小野氏や別所氏との関係は不明です。城の位置関係からは垂井氏が垂井城(小野市新明町)を築く以前に小野城を築いていたとも考察されています。
三木は京都と西国を結ぶ重要な街道筋で、東条街道、明石街道、姫路街道などが通じる交通の要衝にあり、徳川時代も参勤交代や西国との交易上重要な役割を果たした湯ノ山街道(三木~湯ノ山・有馬)が通じています。
三木城は1492年(明応元年)別所則治によって、赤松氏の釜山城(別所城)を修築された城郭周囲約3里(12km)の平山城で、以来、別所氏代々の居城となり、御着城・英賀城とともに播磨三大城のひとつに数えられています。
戦国時代、東播磨地方を領有した戦国大名別所氏の5代目当主、別所長治は13歳で当主となり、天下統一を目指す織田信長と同盟関係にありましたが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に味方したため、織田信長は家臣の羽柴秀吉に三木城攻めを命じました。
羽柴秀吉の三木城攻め・三木合戦で「三木の干殺し」といわれる2年にも及ぶ飢餓作戦・兵糧攻めで、別所長治は飢えに苦しむ家臣や領民の命を救うべく自害し、三木城は落城しました。
三木城は、江戸時代に入り1616年(元和2年)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、1617年(元和3年)に江戸幕府による一国一城令により明石城が築城されたときに廃城となり、今では本丸跡が上の丸三木城址公園として残されているだけとなっています。
三木城は1492年(明応元年)別所則治によって、赤松氏の釜山城(別所城)を修築された城郭周囲約3里(12km)の平山城で、以来、別所氏代々の居城となり、御着城・英賀城とともに播磨三大城のひとつに数えられています。
戦国時代、東播磨地方を領有した戦国大名別所氏の5代目当主、別所長治は13歳で当主となり、天下統一を目指す織田信長と同盟関係にありましたが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に味方したため、織田信長は家臣の羽柴秀吉に三木城攻めを命じました。
羽柴秀吉の三木城攻め・三木合戦で「三木の干殺し」といわれる2年にも及ぶ飢餓作戦・兵糧攻めで、別所長治は飢えに苦しむ家臣や領民の命を救うべく自害し、三木城は落城しました。
三木城は、江戸時代に入り1616年(元和2年)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、1617年(元和3年)に江戸幕府による一国一城令により明石城が築城されたときに廃城となり、今では本丸跡が上の丸三木城址公園として残されているだけとなっています。
台風16号ですが、大型で非常に強い台風として、沖縄から北上しています。
そのまま北に向かい、九州北部、山口県は、警戒区域に入るようです。
被害が、最少となるように祈ります。
<17日09時の予報>
強さ 非常に強い
存在地域 対馬近海
予報円の中心 北緯 33度30分(33.5度)
東経 127度35分(127.6度)
進行方向、速さ 北 30km/h(17kt)
中心気圧 940hPa
中心付近の最大風速 45m/s(85kt)
最大瞬間風速 60m/s(120kt)
予報円の半径 160km(85NM)
暴風警戒域 東側 370km(200NM)
西側 300km(160NM)
そのまま北に向かい、九州北部、山口県は、警戒区域に入るようです。
被害が、最少となるように祈ります。
<17日09時の予報>
強さ 非常に強い
存在地域 対馬近海
予報円の中心 北緯 33度30分(33.5度)
東経 127度35分(127.6度)
進行方向、速さ 北 30km/h(17kt)
中心気圧 940hPa
中心付近の最大風速 45m/s(85kt)
最大瞬間風速 60m/s(120kt)
予報円の半径 160km(85NM)
暴風警戒域 東側 370km(200NM)
西側 300km(160NM)