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志方城(兵庫県加古川市志方町志方町観音寺)は市易城、観音寺城、船原城とも呼ばれた。
城の規模は現在の当観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であった。
伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ文明十三年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築いた。以来伊家、伊定と父子三代80年間続いたが、天正七年(1579)八月十日羽柴秀吉の攻略にあって落城した(『城址案内板』)。
志方城(兵庫県加古川市志方町志方町観音寺)は市易城、観音寺城、船原城とも呼ばれた。
城の規模は現在の当観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であった。
伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ文明十三年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築いた。以来伊家、伊定と父子三代80年間続いたが、天正七年(1579)八月十日羽柴秀吉の攻略にあって落城した(『城址案内板』)。