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「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」(堀江貴文)という本はとてもオススメ!

2014年08月15日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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 この「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」という本は、ホリエモンこと元ライブドアCEOの堀江貴文さんが著者です。

 著者は東京大学在学中の1996年、23歳のときに起業し、2000年に東証マザーズ上場を果たします。
 2004年から2005年にかけて近鉄バファローズやニッポン放送の買収、衆議院総選挙への立候補などで世間を賑わせますが、2006年、33歳のときに証券取引法違反で東京地検特捜部に逮捕され懲役2年6ヶ月の実刑判決を下されます。
 そして2013年3月に仮釈放され本書が執筆されます。

 本書ではその人生を幼少時代から振り返って以下のこと等について、前向きに生きることの大切さについて具体的に書かれていて、想像以上に良い本だと思いましたね。

・働くことの大切さやチャンスに躊躇なく飛びつくことの大切さ
・能動的にやることの大切さ
・信用を得ることの大切さ
・何事もチャレンジすることの大切さ
・自立することの大切さ
・仲間の大切さ
・変化に順応し未練を残さないことの大切さ
・有限の人生を大切に生きることの大切さ
・今を大切に生きることの大切さ

 また本書では初めてその生い立ちから起業するまでの家庭環境やコンプレックス等についても赤裸々に書かれていたので興味を持ちましたね。
 家庭環境はドライだったし、意外と女性に対しては苦手だったようです。
また、小学生の頃は特に百科事典を隅から隅までよく読んでいたから、学生時代は学力がかなりあったのだなぁと思いましたね。

 またヒッチハイクの経験が自身の営業力を増したというのは、自分もヒッチハイクや、ヒッチハイクの青年を車に乗せたこともあるので、共感しましたね。

 それから、たまに死に対する恐怖感が小学生の頃から突然沸き起こるようで、そのことからも必死に生きるし、有限の人生を前向きに大切に生きようと思うようです。
これも自分もたまにあることなので共感を覚えました。

「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」(堀江貴文)という本はとてもオススメです!

以下はこの本のポイントなどです。

・うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば満足、という人である。そんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。当時は百科事典の訪問販売が盛んで、日本中の家庭に読まれもしない百科事典が揃えられていた。きっと、百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだったのだろう。わが堀江家でも、その例外ではなかったわけだ。そこで小学校時代、僕はひたすら百科事典を読みふけった。事典として気になる項目を拾い読みしていくのではない。第一巻、つまり「あ行」の1ページ目から、最終巻「わ行」の巻末まで、ひおつの読み物として通読していくのだ。感覚的には読書というより、情報から情報へとネットサーフィンしているオタク少年に近いだろう。リニアモーターカー、コンピュータ、そしてアポロ宇宙船や銀河系。百科事典には誇張も脚色おない。映画や漫画で見てきたような話が、淡々とした理論の言葉で紹介されている。星の名前も国の名前も、遠い昔の国王も、すべて百科事典で覚えた。ページをめくるたびに新たな発見があり、知的好奇心が刺激されていった。インターネットも携帯電話もない時代。僕にとっての百科事典は、社会に開かれた唯一の扉だったのだ。

・百科事典のおかげだとは思わないが、小学校時代、勉強はダントツだった。テストや教科書なんて、簡単すぎてつまらない。みんなが「わからない」と言っている、その理由がわからない。申し訳ないが、先生さえも間抜けに見えていたくらいだ。たとえば算数のテストだど、僕は10分とかからず全問解き終えてしまう。もちろん毎回100点だ。みんなが40分もかけている理由が、まったく理解できなかった。

・田舎の子どもらしく、みんなで山に登ったり、川辺で遊ぶこともあった。決して友達がいなかったわけではない。楽しい思い出がないわけではない。けれど僕は、いつもどこかで醒めていた。ここが自分の居場所でないような、自分だけみんなと切り離されたような、言葉にできない疎外感を抱いていた。そんな僕に、はじめての理解者が現れる。小学3年生の担任だった、星野美千代先生だ。福岡時代の僕いとって、唯一「恩師」と呼べる先生である。星野先生は、僕の生意気なところ、面倒くさいところ、そして不器用なところを、すべておもしろがってくれた。せっせと百科事典を読んでいることも、祖母が毎日唱えていたお経をいつの間にか暗記してしまったことも、全部ほめてくれた。こんな僕にも理解者がいて、応援してくれる人がいる。それだけでうれしかった。そしてなにより、星野先生が他の大人と違ったのは「みんなに合わせなさい」と言わなかったことだ。むしろ、みんなに合わせる必要なんてない、その個性をもっと伸ばしていきなさい、と教えてくれた。3年生の終わりごろ、先生は僕をつかまえてこんな話をした。「堀江くん、あなたはここにいたらもったいない。八女から出ないと、ずっとこのままよ。久留米に「全教研」という進学塾があるから、そこに行きなさい。そうすれば、あなたみたいな友達が何人もいるはずだから」最初は先生がなにを言っているのか、意味がわからなかった。学年でダントツのトップだった僕に、100点しかとったことのない僕に、塾に行けというのだ。それまで僕は、塾なんてお金持ちの子どもか、勉強のできない子どもが行くところで、自分には無縁の世界だと思っていた。しかし先生は、そうじゃないという。このまま八女の公立中学に進むのではなう、久留米にある中高一貫の私立校、久留米大学附設中学校に行きなさい。あなたの居場所はそこにあるのだから、と。結局僕は、星野先生の後押しもあって、4年生から福岡県久留米市の進学塾に通うことになる。いまでも不思議に思うことがある。もしも星野先生のアドバイスがないまま地元の公立中学に通っていたら、どうなっていたのだろう?地元の空気に染まり、地元の仲間と楽しく過ごし、地元でなにかの仕事を見つけ、地元で家庭を築いていたのだろうか。その人生がいいとか悪いとかではなく、いまの僕にはまったく想像がつかないことだ。僕にとってはじめての理解者であり、真っ暗な道に光を差してくれた人、星野先生。もしも再会できることがあったら、泣き出してしまうかもしれない。いまの僕があるのは、間違いなく星野先生のおかげなのだ。

・塾に集まる子どもたちもまた、みんなおもしろかった。たとえば孫正義さんの弟で、現在「ガンホー・オンライン・エンターテイメント」の会長をしている孫泰蔵くんも、同じ塾の同級生である。彼はその後、中学・高校でも同級生となる仲だ。同じクラスになることはなく、親友とまでは言えなかったものの、廊下などで会えば軽く言葉を交わす「タイゾーくん」である。

・どうして両親はアルバイトを奨励していたのだろう?おそらく両親は勉強よりもずっと大切な、「働くこと」の価値を教えたかったのだと思う。なんといっても、趣味らしい趣味も持たないまま10代のうちから働き続け、わが子の授業参観を蹴ってまで「働くこと」を選んだ両親だ。たとえば2台目のパソコンを買うことを認め、20万円もの購入資金を貸してくれたのも、僕の熱意にほだされたわけではない。ただ単に新聞配達という「仕事」を経験させたかったのだ。感覚としては、柔道の道場に送り込んだときと近い。勉強もできて、口だけは達者だった僕に、仕事を通じて社会の厳しさやお金の大切さを知ってほしかったのだろう。しかし残念なことに、僕は新聞配達からなにも学べなかった。これも柔道のときと同じで、新聞配達を楽しいと思ったことは一度もない。朝が弱い僕にとって、毎朝5時台におきての配達作業はただの拷問でしかなかった。達成感らしい達成感もなく、はじめてのバイト代を受け取ったときも、「こんなに苦しい思いをして、たったのこれだけか」という落胆に似た気持ちしかなかった。

・およそ1ヶ月、試行錯誤を繰り返しつつも無我夢中でプログラミングしていった。ご飯のときも、お風呂に入っているときも、ずっとシステムのことばかり考えていた。中学2年生、14歳のときのことである。作業が無事終了し、受け取った報酬はおよそ10万円。中学生にとってはかなりの大金だが、金額のことはどうでもよかった。僕にとってないよりも大きかったのは、自分の能力を生かし、自分が大好きなプログラミングを通じて誰かを助け、しかも報酬まで得ることができた、という事実だ。新聞配達のように、誰にもできる仕事ではない。クラスの友達にできないのはもちろん、うちの両親にもできないし、学校の先生にも、塾の講師たちにもできない。プログラミングが得意な僕だったからこそ、直接指名を受けた仕事だ。「そうか、働くってこういうことなんだ」僕のつくったシステムに講師の人たちが驚きの声を上げ、握手を求め、そしてたくさんの生徒が学んでいく。僕の流した汗が誰かの役に立つ。この仕事をやり遂げたときの達成感、誇らしさ、そして報酬を受け取ったときの感慨は、とても勉強や新聞配達では味わえない種類のものだった。生まれてはじめて、「堀江貴文」という存在を認めてもらった気がした。

・僕が掲げていた最大の目標、それは「ここ」から脱出することだった。それが九州なのか、福岡なのか、八女なのか、あるいは堀江家なのか、よくわからない。とにかく、もう「ここ」での生活には、うんざりしきっていた。じゃあ、どんな進路が考えられるだろう?友達の多くは地元の国立、九州大学への進学を考えている。「九大」といえば、九州でいちばんのエリートコースだ。でも、僕にとっては絶対にありえない選択肢だった。もしも九大となれば、またも実家からの通学を強制される可能性がある。かといって、わざわざ大阪や名古屋をめざす気にもなれない。やはり、行くとなれば東京だ。早稲田や慶應はどうだろうか?・・・いや、東京の私立大に行くなんて、金銭的に無理である。学費を理由に「九大に行け」と言われて終わるだろう。それでは、同じく都内の国立大である「一橋はどうか?・・・これも論外だ。そもそも、うちの両親が一橋を知っているかどうかも怪しいし、おそらく一橋や早慶よりも九大のほうが偉いと思っている。それが九州人のメンタリティというものだ。そうやって考えていくと、僕が「ここ」から脱出するためには圧倒的な説得材料が必要だった。どんな強情な人間でも認めざるを得ない、最大級の結果が必要だった。考えを重ね、出てきた結論に目眩がしそうになる。僕は自分に、しかと言い聞かせた。他に選択肢はない。うちの親でも知っている日本一の大学、東大に合格するしかないのだ。それは、失われた自尊心を取り戻すための挑戦でもあった。

・いかにも血のにじむような努力をしたように思われるかもしれない。しかし、そんな意識はまったくなかった。実際僕は、どんなに追い込まれても毎日10時間の睡眠を確保するようにしていたほどだ。要は起きている14時間をすべて-これは食事や風呂を含めて-勉強に充てればいいのである。勉強でも仕事でも、あるいはコンピュータのプログラミングでもそうだが、歯を食いしばって努力したところで大した成果は得られない。努力するのではなく、その作業に「ハマる」こと。なにもかも忘れるくらいに没頭すること。それさえできれば、英単語の丸暗記だって楽しくなってくる。これは中学時代にコンピュータのシステム移植の仕事を通じて学んだ結論だ。あの仕事はたしかに大変だった。ギリギリだった。でも、その大変さも含めてすべてが最高に楽しかった。何事も得意だとか苦手だとかいう先入観で物事を判断せず、目の前の作業にハマッてしまえばいいのである。実際、単語帳の丸暗記はおもしろくてたまらないゲームとなり、英語についてはほぼこれだけの勉強で、3年冬のセンター模試で9割以上の正解率を叩き出した。F判定だった模試も回を重ねるごとにE判定、D判定となり、最終的にC判定まで上昇する。楽観的すぎるのかもしれないが、このC判定をもらった段階で「よし、これで合格できる!」と確信した。結果的に、僕はどうにか現役で東大に合格することができた。あからさまな劣等生だった僕の合格に、職員室は大騒ぎだたようだ。しかし、うちの両親はそこまで大喜びというわけではなかった。仕送りのことが頭をよぎったのか、それともひとり息子の状況が寂しかったのか、あるいは感情表現が苦手すぎるせいなのか。きっとすべてが入り交じっていたのだろう。

・上京するために荷物をまとめていたとき、背中を向けた父がボソッと「まあ、お前が卒業してこっちに帰ってきたときには・・・」とつぶやいた。顔を上げると、さほど大きくない父の背中が、余計に小さく見えた。帰ってくる!?僕が?なにを言っているんだろう?八女に生まれたこの人は、これからもずっとこの地で生きていくのだろう。見慣れた景色に囲まれ、見慣れた仲間とともに生きていく。その人生を否定するつもりはないし、そういう幸せだってあるのかもしれない。でも、僕は前を向いてしまったのだ。一度しかやってこない人生の特急列車に、飛び乗ってしまったのだ。この先どんな困難が待ち受けていようと、後ろを振り返るつもりはなかった。ちゃんと言葉を返すべきだったのだろうか。もう帰ってくることはないと、言葉にして伝えるべきだったのだろうか。うまく返事のできないまま、僕は黙ってカバンに荷物を詰め込んだ。

・僕らのヒッチハイクは無敵だった。たとえば夜中に、串カツが登場する料理漫画を読んで、「よし、いまから大阪に行って、串カツ食べるぞ!」と港北パーキングエリアに出かけ、ヒッチハイクをはじめる。そして翌日の昼には、大阪で本場の串カツを食べているのだ。好きなときに、好きな場所に、1円も使わず出かけられるフリーパスチケット。財布が空でも勇気ひとつでどこにでも行ける圧倒的な自由。この快感は、普通の旅では得られないものがある。結局、ヒッチハイクによる小さな成功体験を積み重ねることで、僕はコンプレックスだらけの自分に自信を持てるようになっていった。もう見知らぬ人に声をかけるのも怖くない。交渉だって、うまくできる。自分の殻を打ち破ったという、たしかな手応えがあった。僕が起業後にも臆することなく営業をかけていくことができたのは、このヒッチハイクの経験があったからこそなのだ。

・友達からヒッチハイクに誘われて、やってみるのか、断るか。あるいは友達からおもしろそうなイベントに誘われて、参加すのか、しないのか。イベント会場で積極的に話をしようとするのか、会場の隅で傍観者になるのか。いずれもとるに足らない、些細なことだ。しかし僕は、あらゆる人の一生とは、こうした小さな選択の積み重ねによって決まってくるのだと思っている。これはチャンスの問題なのだ。

・チャンスについて語るとき、僕はよく昔話の「桃太郎」を例に挙げる。川で洗濯をしていたおばあさんは、大きな桃に飛びついた。奇妙な桃だと怖がらず、洗濯中だと無視もせず、とにもかくにも飛びついた。鬼退治の物語は、おばあさんが桃に飛びつくところからはじまるのだ。そしてチャンスとは、あらゆる人の前に流れてくる。大きな桃じゃないかもしれない。葉っぱ一枚のこともあるだろう。それでも、目の前に流れてきたチャンスに躊躇なく飛びつくことができるのか。そこが問題なのである。

・僕はこの「チャンスに飛びつく力」のことを、向上心とか目的意識とか、そんな堅苦しい言葉で語りたくはない。もっとシンプルな、人としえの「ノリのよさ」だと思っている。フットワークの軽さ、好奇心の強さ、そしてリスクを承知で飛び込んでいける小さな勇気。それらの総称が「ノリのよさ」だ。ちなみに言うと、女の子の前でキョドっていた僕は、女の子に対する「ノリのよさ」が欠落していたことになる。せかくのチャンスをみすみす逃し、フットワークを重くしていたのだ。チャンスの見極め方がわからない?桃と葉っぱの見分けがつかない?僕に言わせると、その発想がすでに「ノリの悪さ」を表している。チャンスを見極める目なんて、必要ないのだ。少しでもおもしろいと思ったら、躊躇せず飛び込む。そうしないと、せっかくやってきたチャンスは流れる桃のように過ぎ去ってしまう。たとえばの話、この本を読んで「よし、自分もヒッチハイクをやってみよう!」と思える人、行動に移せる人は、その後の人生でも多くのチャンスをつかむことができるだろう。一方、「さすがにヒッチハイクなんて・・・」と思ってしまう人は、目の前に流れるチャンスを掴めないまま、凡庸な人生が待っているのかもしれない。小さな成功体験の前には、小さなチャレンジがある。そして小さなチャレンジとは、「ノリのよさ」から生まれる。ノリの悪い人は、人生の波にも乗れない。もちろん血肉となるような経験も得られず、自信にもつながていかない。シンプルに考えればいい。すべては「ノリのよさ」からはじまるのだ。

・おそらく、当時インターネットがビジネスになると「真剣に」考えていたのは、日本中で100人くらいだったと思う。僕は幸いにも100人のうちの1人に入ることができた。まさに川を流れる大きな桃だ。このチャンスを逃してしまったら、必ず後悔してしまう。僕は書店に駆け込み、「有限会社のつくり方」という本を手に取った。誰もやらないのなら自分でやるしかない。いま、このタイミングでやらなければ、あっという間に1000人が気づき、1万人が気づき、僕は「その他大勢」になってしまう。そうなれば資本の力に負けてしまうだろう。何者でもない学生の僕に勝機があるとすれば、スピードだ。そこで勝つしかない。もともと会社員になるつもりはなかったし、起業の意志は持っていた。本を読むかぎり、会社をつくるのなんて簡単だ。アルバイト先の会社に独立の意思を伝えると、月70万円という破格の給料を提示されてまで慰留を受けたが、それも断って退路を断った。急げ、急げ、急げ-。そして1996年の4月、僕は東大に籍を置いたまま「有限会社オン・ザ・エッヂ」を起ち上げる。

・人生が豊かになっていかない根本原因は、なによりも「時間」だ。有限かつ貴重な時間を、無条件で差し出さざるを得ない状況。時間以外のリソースをなにも持ちえていない状況が、根本原因なのだ。だから僕は、もう一度言いたい。お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。儲けるために働くのではなく、お金から自由になるために働こう。僕は20代の早い段階で、お金から自由になることができた。それはたくさんのお金を得たからではない。仕事に対する意識が変わり、働き方が変わったか、お金から自由になれたのだ。

・やりがいとは、業種や職種によって規定されるものではない。そして「仕事をつくる」とは、なにも新規事業を立ち上げることだけを指すのではない。能動的に取り組むプロセス自体が「仕事をつくる」ことなのだ。すべては仕事に対する取り組み方の問題であり、やりがいをつくるのも自分なら、やりがいを見失うのも自分だ。どんな仕事も楽しくできるのである。

・これは自分でも不思議だったのだが、僕は受験勉強が好きだった。学校の勉強はあんなに嫌いだったのに、中高時代はとてつもない落ちこぼれだったのに、受験勉強だけは好きになることができた。なぜ好きになったのだろう?仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じだ。人はなにかに「没頭」することができたとき、その対象を好きになることができる。スーパーマリオに没頭する小学生は、ゲームを好きになっていく。ギターに没頭する高校生は音楽を好きになっていく。読書に没頭する大学生は本を好きになっていく。そして営業に没頭する営業マンは、仕事が好きになっていく。ここで大切なのは順番だ。人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。順番は逆で「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。心の中に「好き」の感情が芽生えてくる前には、必ず「没頭」という忘我がある。読書に夢中で電車を乗り過ごしたとか、気がつくと何時間も経っていたとか、いつの間にか朝を迎えていたとか、そういう無我夢中な体験だ。没頭しないままなにかを好きになるなど基本的にありえないし、没頭さえしてしまえばいつの間にか好きになっていく。つまり、仕事が嫌いだと思っている人は、ただの経験不足なのだ。仕事に没頭した経験がない、無我夢中になったことがない、そこまでのめり込んだことがない、それだけの話なのである。

・自分でつくったルール、自分で立てたプランだったら、納得感を持って取り組むことができるし、やらざるをえない。受動的な「やらされる勉強」ではなく、能動的な「やる勉強」になるのだ。受験勉強から会社経営、そsれに紙袋折りまで、僕はいつも自分でプランを練り、自分だけのルールをつくり、ひたすら自分を信じて実践してきた。会社経営にあたっても、MBAを出たわけでもなければ、経営指南書の一冊さえ読んだことがない。ルールづくりのポイントは、とにかく「遠くを見ないこと」に尽きる。受験の場合も、たとえば東大合格といった「将来の大目標」を意識し続けるのではなく、まずは「1日2ページ」というノルマを自分に課し、来る日も来る日も「今日の目標」を達成することだけを考える。人は本質的に怠け者だ。長期的で大きな目標を掲げると、迷いや気のゆるみが生じて、うまく没頭できなくなる。そこで「今日という1日」にギリギリ達成可能なレベルの目標を掲げ、今日の目標に向かって猛ダッシュしていくのである。

・突き抜けられる人と、そうでない人の違いは、次の一点に尽きる。物事を「できない理由」から考えるのか、それとも「できる理由」から考えるのか。それだけだ。突き抜けられるかどうかは能力の差ではなく、意識の差なのである。もしあなたが「やりたいことが見つからない」と悩んでいるのなら、まずは「できっこない」という心のフタを外していこう。何事も「できる!」という前提に立って、そこから「できる理由」を考えていくのだ。

・単純計算するなら、この国で働く人のうち「15人に1人が経営者」なのだ。ひとりで複数の会社を経営しているパターンを差し引いて考えても、おそらく「20人に1人」くらいの割合に収まるだろう。この数字を前にしても、まだ「できっこない」と言えるのだろうか?誰でもできると考えるのが普通じゃないだろうか?電器屋のオヤジさんも、ラーメン屋の大将も、喫茶店のマスターも、みんな経営者としてお店を切り盛りしている。もちろん学歴なんて関係ない。彼らが独立し、起業できた理由はひとつしかん。あれこれと「できない理由」を考えず、「できる理由」だけを考えたからだ。

・起業によって「失うかもしれないもの」を心配するのではなく、起業によって「得られるもの」を考える。あるいは、会社員を続けることのデメリット-出世の遅さ、つまらない権力争い、足の引っ張りあいなど-を冷静に列挙してみる。それでも不安なときには、町の「経営者」たちを思い出す。20人に1人が「経営者」であることを思い出す。そうすれば、僕が起業をすすめる理由もわかってもらえるだろう。いまの会社に不満があるのなら、行きたい就職・転職先が見当たらないのなら、我慢を選ばず起業を選ぼう。お金を「もらう」だけの仕事から、自ら「稼ぐ」仕事に変えていくのだ。

・お金に投資する時代は、もう終わった。これからの時代を生きるあなたには、「お金」ではなく、自らの「信用」に投資することが求められている。ほんとうに困ったとき、人生の崖っぷちに追い込まれたとき、失敗してゼロに戻ったとき、あなたを救ってくれるのはお金ではなく、信用なのだ。

・ハッタリをかますこと、背伸びをすることは、決して悪いことじゃない。他者からの信用を獲得していくために、絶対に乗り越えなければならないハードルなのだ。80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。プライベートでも同じである。初対面の人ばかりが集まる飲み会に誘われたとき、目上の人ばかりいるパーティーに誘われたときでも、自分に自身があれば物怖じせずに参加して、そこから新しい関係を築くことができる。100人の人間と知り合って、100人すべてから信用されることはないだろう。あなたの努力や人間性にかかわらず、あなたを嫌う人は一定数いる。あなたの理解者となってくれるのは100人中10人程度かもしれない。でも、それでいいのだ。もしも100人中10人が理解してくれるのなら、1000人に会えば100人が理解してくれる。万人から愛されようと自分の信念を曲げるのではなく、単純に分母を増やしていけばいいのだ。信用の「ゼロからイチ」は、まず自分で自分を信じるところからはじまる。

・僕からのアドバイスはひとつ、「全部やれ!」だ。ストイックにひとつの道を極める必要なんてない。やりたいことは全部やる。節操がないとか一貫性がないとか批判されようと、全部やりきる。僕はそうして生きてきた。なぜなら、人は「ここでいいや」と満足してしまった瞬間、思考停止に突入してしまうのだ。そして思考を停止した人は、一気にオヤジ化してしまう。常識に縛られ、前例を重んじ、新しい可能性や未知へのチャレンジをすべて拒絶し、たとえ20代であっても心がオヤジ化してしまうのだ。酒を飲めば「あのころはよかった」と思い出話をくり返し、若い世代の頭を押さえつける。僕は絶対にそんな人間にはなりたくないし、できればあなたにもそうなってほしくない。人生のどの段階においても「いま」がいちばん楽しく、充実している自分でありたい。だからこそ、「全部やれ!」なのである。常に新しい分野に目を向け、新しい出会いをつくり、新しい情報を浴びて、思考と行動を繰り返す。止まることなく、休むことなく、動き続ける。思考停止が持つ力を甘く見てはいけない。人は少しでも油断すると思考停止に足を踏み入れ、「ここでいいや」と安住の地を求めてしまう。

・常識を疑い、自分の頭で物事を考えていくためには、ひとつ乗り越えておかなければならない条件がある。自立だ。特に親元を離れることである。精神的に親から自立して、物理的、そして経済的にも自立すること。この一歩を踏み出したとき、人はようやく「自分の頭」で物事を考えられるようになる。念のため断っておくと、僕だって親に仕送りはするし、たまには旅行に連れて行くこともある。それは育ててくれた親に対する、当たり前の気持ちだ。あえて強調することでもないし、これまでほとんど公言してこなかった。しかし、感謝の念とは別に、僕は両親との間に明確なラインを引くよう心掛けてきた。具体的には、こんな一線だ。どんなに困ったときにも、親には頼らない。どんなに追いつめられても、親の前では弱音を吐かない。もしもそれをやってしまったら、僕は再び「あの人たちの子ども」になってしまう。血縁的に息子であることは変わらなくても、気持ちの上ではひとりの大人でありたい。それが、僕にとっての自立だった。「親元を離れる」とは、単にひとり暮らしをすることではない。もっと精神的な問題なのだ。

・離婚はかなりギリギリの選択だったと、いまでは思う。けれども僕は、このとき決めたのだ。逃げることをやめて、この孤独と正面から向き合おうと。孤独だから寂しいからといって、他者やアルコールに救いを求めていたら、一生誰かに依存し続けることになる。この孤独は、僕が自分の責任で引き受けなければならないものなのだ。僕は、連日のバー通いにピリオドを打ち、仕事の合間を縫ってスポーツジムに通いはじめた。広すぎる一軒家も引き払い、新しいマンションに越した。外食の回数を減らし、自炊もするようにした。仕事にも俄然やる気が出てきて、再び全速力で走りはじめた。近鉄バファローズの買収に名乗りを上げ、メディアに大きく登場するようになったのは、ちょうどそんなころのことだった。当時の僕に、怖いものはなにもなかった。あの孤独を乗り越えられたのだから、もうどんな困難に襲われても動じない。誰がなんと言おうと、自分の信じた道を突き進むことができる。いま、なかなか一歩を踏み出せずにいる人は、孤独や寂しさへの耐性が足りないのではないだろうか。少しでも寂しくなったら、すぐに誰かを頼る。孤独を感じたら、誰かに泣きつく。そんなことでは、いつまでたっても自立することはできず、自分の頭で決断を下すこともできない。友達は大事だ。家族も大事だ。でも、ひとりで孤独を受け止める強さを持ってこそ、真の自立を果たすことができるのである。

・実際、僕は仲間に恵まれていた。それを強く思い知らされたのは、僕が逮捕され、東京拘置所に身柄を拘束されていたときのことだ。僕のような特捜部案件の経済事件の被疑者は、すべての人間との接見が禁じられ、担当弁護士としか面会できない。取り調べ以外の時間は、ずっと独房に閉じこめられたままだ。外部の情報をシャットアウトするよう、新聞や雑誌の購読も許されない。世間がどうなっているのか、これから自分がどうなるのか、誰を信じればいいのか、まったくわからない。まさに孤独との戦いを強いられることになるわけだ。僕は少しずつ追いつめられていた。そんなある日、面会に訪れた弁護士さんたちが2枚の色紙を持ってきてくれた。黙って差し出された色紙に目をやると、そこにはライブドア社員からの応援メッセージがびっしりと書き込まれていた。個性豊かな一人ひとりの筆跡。直球ど真ん中の熱い言葉で応援してくれる社員。明るく元気な言葉を送ってくれる社員。遠慮がちに小さく、けれど力強い言葉をしたためた社員。みんなの笑顔が浮かび、それぞれの思いを色紙に書き記す姿が、ありありと浮かんできた。気がつくと僕は、声を上げて号泣していた。すべてを失ったつもりでいたけど、なにも失ってない。僕にはこんなに熱くて、こんなに最高な仲間がいるじゃないか!涙が止まらない。彼らだって、ライブドア社員というだけで、あのホリエモンの部下というだけで、世間から白い目で見られているだろう。僕のことを恨みたくなったり、疑いたくなったこともあっただろう。それでもみんな僕を信じて、こんなに熱いメッセージを送ってきてくれたんだ・・・。・・・ありがたい。ただただ、ありがたかった。大声で号泣する僕を見て、弁護士さんたちも泣いていた。「いいんだよ、堀江君。どんなに泣いてもいいんだよ。涙と一緒に、嫌なこともすっきり洗い流せるんだから」弁護士さんは、涙声で僕を励まそうとしてくれる。そう、なにも恥ずかしがることじゃない。精一杯突っ張って生きてきたけど、背伸びをして生きてきたけど、僕は弱くてちっぽけな人間なんだ。ひとりではなにもできない人間なんだ。いま僕はこれだけたくさんの、すばらしい仲間に囲まれて生きている。働くことを通じて、こんな幸せに恵まれている。僕の歩んできた道は、決して間違いじゃなかった。心の底からそう思えた。もしもいま、あの色紙にメッセージを書いてくれた元ライブドア社員に会えるとしたら、一人ひとりの目を見てお礼を言いたい。みんな、ほんとうにありがとう。みんなと一緒に走り抜けた日々は、僕の宝だ。みんな仲間にできたことを、心から誇りに思う。

・万物は流転する。すべては流れる川のように、ひとときとして同じ姿をとどめない。たとえば鏡に映る昨日の自分と今日の自分は、どこにも違いがないように見える。しかし、5年10年と経てば大きな違いが出ているはずだ。それはどこかの段階で大きく変わったのではなく、日々刻々と小さな変化を積み重ねた結果なのだ。昨日の自分と今日の自分は、さっきの自分といまの自分は、違っているのである。諸行無常の原則は、組織やビジネス、さらには人間関係にも当てはまる。組織は動き、ビジネスは変化する。大小さまざまな出会いと別れが、人間関係を更新していく。現状維持などありえない。僕は変わり、変わらざるをえない。僕を取り囲む環境もまた、変わっていく。なにを得ようと、なにを失おうと、未練など生まれるはずもないのだ。

・人が前に進もうとするとき、大きく3つのステップを踏むことになる。
①挑戦・・・リスクを選び、最初の一歩を踏み出す勇気
②努力・・・ゼロからイチへの地道な足し算
③成功・・・足し算の完了
このステップを着実に踏むことで、小さな成功体験が得られる。そして小さな成功体験を積み重ねていった先に、成長がある。これはアスリートからビジネスマンまで、すべてに共通する話だ。僕自身、このサイクルを高速回転させることによって成長してきたという自負がある。努力という言葉には、どうしても古くさくて説教じみた匂いがつきまとう。できれば僕だって使いたくない。でも、挑戦と成功の間をつなぐ架け橋は、努力しかない。その作業に没頭し、ハマッていくしかないのである。成功したければ挑戦すること。挑戦して、全力で走り抜けること。その全力疾走のことを、人は努力と呼ぶ。

・はじめて死を意識したのは忘れもしない、小学1年生の秋である。学校からの帰り道、一緒に下校していた友達と別れ、自宅へと続く一本道を歩いていたときのことだった。深まる秋に、すでに空は赤く染まっている。足元には枯れ葉が舞い上がり、冷たい風の吹き抜ける夕方だった。これといって考えごとをしていたわけではない。なのに突然、気がついた。「僕は、死ぬんだ」人はみな、いつか死んでしまう。お父さんもお母さんも、いつか死ぬ。そして僕も、死んでしまうんだ。この世から消えてなくなってしまうんだ・・・!!あたりの景色が暗転したような、猛烈な恐怖に襲われた。気がつくとその場にうずくまり、うなり声を上げながら頭を抱えていた。僕は死ぬんだ。消えてなくなるんだ。死んだらどうなるんだ、僕はどうすればいいんだ!!嫌だ、嫌だ、死にたくない!!この日の帰り道以来、僕の脳裏から死への恐怖が消えることは一度もなかった。ぼんやりと物思いにふけっているとき、一人で道を歩いているとき、電気を消して眠る前。突如として「僕は、死ぬんだ」「この世から消えてしまうんだ」という恐怖に襲われる。まるで発作を起こしたかのように、頭を抱えて「ウワーッ」とうなり声を上げる。誇張しているのではない。この発作は中高時代も、大学時代も、そして大人になってからも定期的にやってきた。人はなぜ死ぬのか。いや、それ以上になぜ「僕」は死ぬのか。僕が死んだら、どうなるのか。考えても考えても答えは出てこない。夏の終わりにセミが死ぬように、縁日で買った金魚が死んでしまうように、人は、僕は、ひたすら死に向かって歩を進めている。大人たちが平然と暮らしている理由が、さっぱりわからなかった。まさか自分だけは死なないとでも思っているのだろうか。しかし、会社を起業してからしばらくしたある日、「あれっ?」と我に返った。考えてみるとこの2年ほどの間、あの発作に襲われていなかったのである。死の恐怖を克服したわけではない。いまだに怖い。ただ、死について考える時間がなかった。ぼんやり物思いにふける時間がなかった、それだけの激務を走り続けていたのだ。「そういうことだったのか」長年抱えてきた疑問が、ようやく氷解した気がした。パソコンでも受験でも、競馬や麻雀でも、僕は一度その対象にハマり込んでしまうと、異常なほどに没入してしまう。周りのことがなにも見えなくなる。なぜそこまでハマるのか、昔は不思議でたまらなかった。でも、おそらくこれは、僕なりの生存戦略だったのだ。なにかに没入することで、死を遠ざける。死について考える時間を、可能な限り減らしていく。僕は死を忘れるために働き、死を忘れるために全力疾走し、死を打ち消すために生を充実させていたのだ。

・僕らは「自分の時間」を生きるのか、それとも「他人の時間」を生かされるのか、を常に意識化しておく必要がある。営業マンの無駄話に付き合わされるとき、あなたは「他人の時間」を生きている。大好きな仲間と飲みに行くとき、あなたは「自分の時間」を生きている。与えられた仕事をやらされているとき、あなたは「他人の時間」を生きている。自ら生み出す仕事に臨んでいるとき、あなたは「自分の時間」を生きている。いずれの時間も、刻一刻と過ぎていく。今日という日に与えられた24時間をどう振り分けるか、という話だ。若いとき、たおえば19歳や20歳くらいの間、人は自分が歳をとる姿をうまく想像できない。自分だけは歳をとらないような、この若さが永遠に続くような錯覚にとらわれる。もしかするとあなたも同じ感覚でいるかもしれない。しかし、時間は永遠ではない。残酷なほど有限なものだ。その有限なる時間、つまり命を、どう使っていくのか。いかにして無駄を減らしていくのか。そこをもっと真剣に考えるのだ。

・僕は、毎日できるだけ8時間は睡眠をとるように心がけている。有限なる時間と聞いたとき、ふつうは「1日は24時間しかない。だから、6時間とっていた睡眠を4時間に減らそう。そうすれば2時間分だけ自由に使うことができる」と考えるだろう。実際、書店に足を運ぶと短眠術を指南する本もたくさん出回っている。しかし、1日24時間しかないからこそ、しっかり8時間眠るのだ。そうすると、実質1日16時間しかなくなる。無駄なことはできないし、無駄を省こうという意識づけができやすくなる。そしてなにより、しっかりと睡眠が取れていると、日中の集中力が段違いに高まる。仕事の質は、ひとえに「集中力×時間」で決まるものだ。寝不足のぼんやりした頭で10時間働くよりも、集中力を極限まで高めて2時間働いたほうが、ずっといい仕事ができる。6時間の睡眠を4時間に削ったところで、ぼんやりした時間が増えるだけだ。それだったら集中力を高める方法を模索するほうがずっと建設的だし、成長も早いだろう。有限であるからこそ、時間の使い方に知恵を絞るようになるのだ。

・僕らの人生には「いま」しか存在しない。過去を振り返っても事態は変わらず、未来に怯えても先へは進めない。かけがえのない「いま」に全力を尽くすこと。脇目も振らず集中すること。将来の自分とは、その積み重ねによって形成されていく。だから僕は仕事をする上でも、できれば1ヶ月、せめて半年くらいで結果が出るようなプロジェクトばかりを動かしていたい。その範囲であれば、いろいろな計画も立てられるし、集中力をもって実行に移していける。

・成功者の足を引っ張って、なにが得られるというのだろう?2013年に惜しまれつつも他界したマーガレット・サッチャー元英国首相は、こんな言葉を残している。「金持ちを貧乏人にしたところで、貧乏人が金持ちになるわけではない」他人の足を引っ張り、引きずり下ろしたところで、気が晴れるのは一瞬のことだ。むしろ、時間が経つほど空しさや苦々しさに襲われるに違いない。なぜなら、あなたの居場所はまったく変わらず、ゼロ地点のままなのだから。他者を羨ましいと思う気持ちがあるのなら、その人の足を引っ張るのではなく、自分で一歩を踏み出そう。他者を引きずり下ろすのではなく、自分が這い上がろう。先行く他者にブレーキをかけるのではなく、自分がアクセルを踏もう。成功者をバッシングするのか、それとも称賛するのか。これは「嫉妬心」と「向上心」の分かれ道であり、ゼロにイチを足せるかどうかの試金石である。少なくとも僕は、嫉妬にまみれた人生なんて送りたいとは思わない。すべての羨望は、向上心に転換可能なのである。

・僕の目に映る未来は明るい。それはひとえに自分を信じ、仲間を信じているからだ。この明るい未来を、あなたと共有できるとしたら最高だ。さあ、前を向いて最初の一歩を踏み出そう。バックミラーを見るのは、もうたくさんだ。有限の人生、絶望しているヒマなんかないのである。

<目次>

第0章 それでも僕は働きたい
 すべてを失って残ったもの
 嗚咽号泣した孤独な夜
 いまこそ、「働くこと」を考えたい
 カッコ悪さもすべて語ろう
第1章 働きなさい、と母は言った-仕事との出会い
 父と母のいない風景
 胸元に包丁を突きつけられた日
 たった一度の家族旅行
 情報は自らつかみ取るもの
 「あなたの居場所はここじゃない」
 刺激と仲間を求めて
 コンピュータとの運命的な出会い
 働くことの意味を実感した日
 気づいたときには落ちこぼれ
 ここから抜け出すには東大しかない
 勉強とは大人を説得するツールだ
第2章 仕事を選び、自分を選ぶ-迷い、そして選択
 大学生活のすべてを決めた駒場寮
 どうして東大に幻滅したのか
 僕はまったくモテなかった
 あなたが仕事や人生に怖じ気づく理由
 「小さな成功体験」を積み重ねよう
 挑戦を支える「ノリのよさ」
 「このままではこのまま」の自分に気づくこと
 インターネットとの出会いから起業へ
 激動の10年間をくぐり抜けて
第3章 カネのために働くのか?-「もらう」から「稼ぐ」へ
 あなたは何のために働くのか
 お金から自由になる働き方
 どんな仕事にも「やりがい」はある
 仕事を好きになるたったひとつの方法
 「やりたいことがない」は真っ赤な嘘だ
 あなたも必ず起業できる
 会社は潰れても人は潰れない
 通帳ではなく自分に貯金する
 お金よりも大切なものとは?
 ゼロの自分にイチを足す
 積み重ねた「イチ」の先に見えてくるもの
 やりたいことは全部やれ!
第4章 自分の先にあるつながり-孤独と向き合う強さ
 苦しいからこそシンプルに考える
 あなたはほんとうに「自立」できているか
 父から届いた一枚の手紙
 孤独と向き合う強さを持とう
 仲間の意味を教えてくれた社員たち
 ゼロを貫く「諸行無常」の原則
 成長のサイクルに突入しよう
 僕は世の中の「空気」を変えていきたい
第5章 僕が働くほんとうの理由-未来には希望しかない
 堀の中にいても、僕は自由だった
 働くことは自由へのパスポート
 消えることのなかった死への恐怖
 有限の時間をどう生きるのか
 人生には「いま」しか存在しない
 飽きっぽさは最大の長所になる
 テクノロジーが世界を変える
 僕が宇宙をめざすわけ
 ゼロからイチへの試金石はどこにある?
 絶望しているヒマなどない
おわりに

面白かった本まとめ(2014年上半期)

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