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村上”ポンタ”秀一自暴自伝

2006年09月15日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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 この本は、村上秀一さんの口頭による自伝です。村上秀一(ポンタ)さんは、1972年にフォークグループ「赤い鳥」に参加し、以後数々の超人的なスタジオワークをこなし、日本のトップドラマーとしての地位を確立し、その参加アルバムは優に1万枚を超えているようです。

 五輪真弓、キャンディーズ、ピンク・レディー、山口百恵、郷ひろみ、沢田研二、松田聖子、中森明菜、五木ひろし、伊東ゆかり、夏木マリ、桑名正博、矢沢永吉、氷室京介、尾崎豊、井上陽水、玉置浩二、泉谷しげる、吉田美奈子、ドリカム、宇宙戦艦ヤマトのテーマ、ガッチャマン、アントニオ猪木のテーマなどもやっているようです。

 また、この本は音楽家を目指す人や、ドラマーになりたい人には、その心意気や感覚や技術がものすごく勉強になると思います。必読です!

 以下は、本書で面白かった内容です。

・生まれてから4歳半になるまで、お母さんの親友だった芸妓さんに京都の祇園で預けられた。育ての母に当たるその人が「ポンタ姐さん」と呼ばれていた。京都弁でいう「豆狸」だよね。俺が「ポンタ」と呼ばれるようになったのもそのせい。実家に戻ることになった時、ポンタ姐さんが「せめて名前は持っていって」と言って、名前と一緒に返された。ポンタ姐さんはいまだに祇園で現役を張っている大実力者で、ポンタ姐さんのコネがあるから、俺、京都はもちろん金沢だろうが仙台だろうが、どこの花街に遊びに行っても、10円以上払ったことないよ。

・楽器代をケチるやつに、ろくなミュージシャンはいない。楽器にかぎらず服やレコード、食い物もそう。嗜好品に投資できないようなやつに、他人を感動させる音楽なんて作れるわけがない。これは確信だな。

・とりあえず大阪教育大学を受験して、無事受かりはした。入学したのはいいけど、時は1969年、学生運動真っ盛りの時代。将来、子どもを教え導くはずの教師のタマゴが、授業をボイコットして角材を振り回している姿を見てバカバカしくなって、たったの三日で退学してしまった。それで実家から勘当されたんだ。とはいえ、中学時代のブラスバンド部の顧問だった得津先生に相談はしていて、先生の軍楽隊時代の同期で、当時大阪ロイヤルホテル付きの音楽事務所の社長だった人を紹介してもらって、月給5000円でバンドボーイをやることになった。ドラムに出会うのはそれからさらに後のことなんだけどね。

・うちの一人娘の奈美ができたのが、式を挙げた、まさにその翌朝なんだよ。文字通りのハネムーン・ベイビー。うちのおふくろもそうだったらしいから、”一発必中”は村上家の伝統なのかもしれないな。

・ロサンゼルスのモーテルの一階ラウンジで、なんかうるさい音楽を延々やっているヒッピーみたいなやつらがいたわけ。後でわかったんだけど、セッションしてたんだね。うるさいし、わけわかんない音楽だけど、なんだかおもしろい。この白人のにいちゃん、なかなかギターがうまいなと。大村憲司に「憲司ほどじゃないけど、お前はなかなか見どころがある。精進すればいいギタリストになれるぞ」と言ってくれと頼んで言うと、なんとエリック・クラプトンだったんだ。「サンキュー」って言ってたもん、クラプトン本人が。今でも、クラプトンに会うと、その時の話が出るよ。「いいギタリストになれるって励ましてくれたね」って。

・ピンク・レディーの曲、大半は俺が叩いているんだけど、どの曲も飽きなかった。なにしろ歌詞がおもしろかったし、アレンジ、構成、リズム・・・・・どれを取ってもそれまで日本になかった斬新さがあったよね。しかも、「今度の曲はこういうイメージで」みたいなことを、ちゃんと話してくれるわけ。ピンク・レディーだったら、「今回は宇宙人の感じで・・・・・」とか。それが「UFO」になったんだけど、そう言われると、演奏するほうにも雰囲気が伝わるじゃない。あの振りつけまでは、さすがに予想できなかったけど。

・レコーディングの時点で歌詞が出来てないときは頭に来るんだ。その頃から俺にとっての譜面は歌詞カードなんだ。譜面なんか見ない。歌詞カードでドラムの種類を全部決めて、チューニング決めて、アプローチを決める。その手順はずっと変わってない。歌謡曲とくのは、楽曲の構成そのものは決まってるものだからさ。重要なのは、楽器は何が乗るとか、ここでどういうシンセが鳴るのか、どういうホーン・セクションが入ってストリングスはどうとか、そういうことを聞くことなの。ピンク・レディーの曲だったら、どっちのパートをミーちゃんが歌うの?とかね。そうやってイメージを固めていく、その作業が40分ぐらいかな。それからパッと音を出してみて、ちょっと違う、じゃあこういう感じで・・・、みたいに10分か15分で微調整して、今度は録音。せいぜい1テイクから2テイクで上がったな。1曲レコーディングするのにかけた時間が、実質は2時間くらいだった。

・当時のアイドル歌手は、まずオケ録りなんかのぞきに来ないのが当たり前だった。8割方は来なかったね。俺以上に忙しかったんじゃないかな。そんな中でもピンク・レディーの二人や、百恵ちゃんには会ったよ。時間さえ許せば、来たがるものなんだ。そりゃそうだよ。やっぱり自分が歌う曲のレコーディングなんだから。反対に、そういうのに一切興味がなかったのが、郷ひろみと沢田研二だったね。郷ひろみにしろ沢田研二にしろ、すごいなと思うのは、普通歌入れをする時には、どんな歌手でも神経質になるものなのよ。ところが郷君とか沢田さんの場合、1回ツルッと歌ったらそれで終わり。歌手である以前にカリスマなんだね。

・俺、自分の収入って今でも知らないの。すべて奥さんまかせ。いくら税金を払っているとか、全然知らない。金は天下の回りもので、自分はいい音を出してればいい、と思ってるからね。俺のスケジュールを見たハービー・ハンコックに、以前言われたことがあるよ。「お前、どんなすごいお城に住んでるんだ?」って。そんなふうに超ハイペースでやってたから、当時の歌謡曲ってかなりの割合で俺が叩いてるはずなんだけど、数が多すぎて、今では自分でもどの曲を叩いたのか、よく分からないんだよ。たまにラジオで流れているのを聴いたりして、「うまいな、このドラム・・・・・」ってボソッと言うと、「何言ってるんですか、ポンタさんじゃないですか」「あれ、そうだっけ?」みたいなこともあるくらいで、例えば、「宇宙戦艦ヤマトのテーマ」を叩いたのは鮮明に覚えてるんだけど、「ガッチャマン」や「アントニオ猪木のテーマ」も俺が叩いてるらしいんだよね。

・そんな中で、ひときわ印象が強烈だったドラマーといえば、やっぱりスティーヴ・ガッドだった。初めて聴いたとき、「なんだこいつ?」と思ったもん。あまり大きな声で言えないんだけど、俺、当時のレコーディングでけっこう、スティーヴの代役を務めてるのよ。仲良くなってから。その頃のスティーブ、超忙しかった上に、いつも酒とクスリでベロベロのブンブンでしょ。ダブルどころかトリプル・ブッキングで仕事を受けてしまう。そうなると、”ニセ・ガッド”の登場よ。名義はあくまでスティーヴのままで、チューニングを含め、俺がスティーヴそっくりに叩くわけ。それがまた、うまいのよ、はっきり言って。前にも言ったように、俺、物真似大王だから。

・アフリカ・ツアーでよく覚えてるのは、どの国でも「リンゴ追分」をやったことだね。ちょっとマイルス風の「リンゴ追分」ね。それがなんと、「~~リンゴー」の部分で総立ちなんだよ、どこの国でも。やっぱり曲ってすごいな、と思ったよね。おもしろいよ。はじめはね、美空ひばりってそんなに有名なのか、と思ってたんだ。でも違った。曲を知ってるやつなんか、いないんだよ。「リンゴ追分」恐るべ しだよ。

・矢沢永吉とツアーして回った3年間は、道中のエピソードにこと欠かなかった。矢沢本人もさることながら、あいつのファンというのがまた、傑作なのが多いからね。いまや恒例になってる武道館コンサートなんか、開場する前からおもしろかったもん。会場の前で客がかならずパフォーマンスするから。こんなちっちゃい子どもが矢沢とまるっきり同じ衣装を着せられて、まわらない口であいつの曲を歌ってたりとかさ。そういうのを見るのも、僕としては楽しみだった。また、矢沢を見にくる女の客というのが、俺の好みなのよ。ちょっと”おミズ”が入った、いいオンナ系。矢沢のファンって昔から、男はたいていアホなガキで、女はしっかり者の姉さん女房タイプ。その図式は今でも変わらない。

<目次>
はしがき
第1章 70年代のポンタ ~青春編~
第2章 80年代のポンタ ~回天編~
第3章 90年代のポンタ ~滑翔編~
おしまいに
構成者後記 真保みゆき
解説 小西康陽

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<今日の独り言>
 折り紙の本を見て紙飛行機を作ると、さすがによく飛びました。さすが折り紙の本ですね・・・。いろんなものを折ってみたいと思います。。

コメント
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