ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

歴史のために(60年安保の覚書)

2007年06月03日 | ヤ行、ラ行、ワ行
 間もなく又6月15日が来ます。我々60年安保世代にとってはこの
日は忘れられない日です。言うまでもなく、国会デモの中で樺美智
子さんが殺された日です。この日だけでなく、私などにとっては1
年のカレンダーが1959年から1960年の1年間の出来事の記念日と結
びついています。それは11月27日であり、12月10日であり、06月15
日であり、06月18日であり、10月12日です。

 団塊世代とか全共闘世代の方がもてはやされることは多いですが
、60年安保世代もしっかりした役割を果たしてきたと思います。最
近、インターネット新聞 JanJan でもブント〔共産主義者同盟〕を
中心とした新左翼の人々のことを連載し始めたようです。しかし、
当時は新左翼と戦いながら旧左翼、特に共産党系の人々も活躍して
いました。私もこれに属する1人でした。目にした少しの記録が歴
史的事実を必ずしも正確に伝えていないのではないかと思いますの
で、私も一度発言しておこうという気持ちになりました。

 もう随分前になりますが、西部邁氏が「六〇年安保」(文芸春秋
)という本を出しました。これによりますと、彼は1年間の浪人の
後、1958年の4月に東大に入ったようです。そして、大した信念も
知識もなく共産党にオルグされて入ったようです。

 その年は日教組の勤務評定反対運動〔略称、勤評闘争〕が盛り上
がった年でした。西部氏はこう書いています。

 「6月の末だったか7月の初めだったか、日教組の勤評闘争が激
しくなり、私は和歌山市に出かけた。北海道しか知らなかった私に
は、関西の夏は気が狂いそうになるくらいの暑さであった。幸いに
も私の無能ぶりはすぐ認められ、市内にいても役に立たないので、
すずしい山村へ遣られた。解放同盟が日教組と連帯して児童の
登校拒否運動をしており、山小屋ふうのところで子供たちの自習の
相手をするのが私の仕事であった。

 北海道にはそうした被差別が存在しないので、戸惑うことも
多かったが、そのぶん強い印象が残っている。被差別出身の口
数の少ない女教師が、田舎道を歩きながら、被差別出身のもの
のつらい人生についてぽつりぽつりと話しているその横顔の美しさ
など、忘れがたいことがたくさんある。」

 これなども、勤評闘争は我々が入学した4月からすでに大問題に
なっており、我々は自治会執行部のストライキ提案をどう受け止め
るかで大変だったのです。この辺の事は「本質論と戦術論」(拙著
『ヘーゲルからレーニンへ』鶏鳴出版に所収)に書きました。

 その年の秋、警察官職務執行法(警職法)の改正案が国会に上程
され、大問題になりました。しかし、西部氏はこれについては全然
書いていません。
  1958年10月08日、警職法改正案国会提出
     11月22日、審議未了決定

 そして、翌1959年の秋です。氏はこう書いています。
 「そして11月末、自治会委員長選挙がやってきた。それまでの半
年間、ブントの同盟員および同調者が少しずつ集まりはじめ、田中
学〔東大教養学部自治会〕委員長はブントと共産党のあいだでよく
均衡をとっていた。両派のむきだしの対立が田中委員長によって先
に延ばされていたのである。しかしブントの劣勢は明瞭で、第1候
補の加藤尚武、そして第2候補の河宮信郎がクラスの自治委員選挙
で落選した。つまり委員長に立候補する資格を失ったわけである。
そのほか、僅かしかいないブント派が次々と共産党にたたき落とさ
れていった。私のクラスには共産党員がおらず、クラスの自治委員
になることができた。それで私が立候補することになったわけであ
る。

 まったく勝ち目がなく、勝とうとすれば、共産党ゆずりの「ボル
シェヴイキ選挙」に頼るほかなかった。つまり、民主主義の原則を
ふみにじって、まやかし選挙をやるわけである。投票用紙の原紙が
盗み出され、用紙の増刷をし、私をふくめ何人かが駒場の裏手にあ
った旅館に待ち構えていた。ブントの集票員が人目を避けて旅館に
走り込み、そこで票の入れ替えが行われる。実数は、おそらく、共
産党候補6割、第4インター候補3割、そして私の票が1割である
。1割が少なすぎるとしても、せいぜい2割である。予想をはるか
に下回る得票で、さすが一抹の悲哀がこみ上げてきた。」

 ここに出てくる加藤尚武氏は、ヘーゲル研究を武器に東北大学か
ら千葉大学へ、更に京都大学教授にまで上り詰め、最後は鳥取環境
創造大学とかいう大学の学長になった人です。思想を変えるのは自
由ですが、思想家なら、それに思想的決着をつけるべきではないで
しょうか。

 それはともかくここでは「ボルシェヴイキ選挙(ボル選)」とい
う言葉を覚えておくことが大切でしょう。こういう事を平気でする
のが左翼なのです。

 1959年の秋と言えば、忘れることのできない11月27日の国会突入
事件のあった時です。しかし、西部氏は詳しく述べていません。た
だ、「ブント中央はいったいどういう考慮があってのことか、私が
贋の委員長になったとたんに、逮捕状の出ていた清水丈夫を駒場寮
に籠城させ、共産党に恰好の攻撃材料を与える」とだけ書いていま
す。しかし、これでは読者には何の事かさっぱり分からないでしょ
う。

 1958年11月の警職法反対闘争の勝利で少し落ちついた後、1959年
の春からは安保改定反対運動が始まっていました。学生運動も同じ
です。
1959年03月28日、安保改定阻止国民会議結成
    05月15日、全学連安保阻止大会

 しかし、大して盛り上がらず、沈滞気味でした。そこに11月27日
が起きたのです。

 立花隆氏は「中核 VS 革マル」(講談社文庫)の中でこう書いて
います。

 「11・27の国会突入闘争は、当時いわれていたように、偶発的に
起きたものではなく、ブントの指導の下に、目的意識的に起こされ
たものだった。それにもかかわらず、闘争を現場で指導した加藤昇
全学連副委員長、糠谷秀剛(ぬかや・ひでたけ)全学連副委員長、
永見暁嗣都学連書記長らは、なんの警戒心も抱かずに自宅に帰り、
その夜のうちに逮捕された。自宅に帰らず逮捕をまぬがれた清水丈
夫全学連書記長と、葉山岳夫(たけお)ブント東大細胞キャップと
は、逃げ場を失ってそれぞれ東大駒場と本郷に逃げ込んで、世に言
う「籠城事件」を起こす。」

 この辺の記録ないし考察で重要な事だと思うのは、この11・27国
会突入事件を契機にして、それをどう評価するかで学生運動の中の
4つの派(だったと思う)の提携関係が変わったということです。

 私の記憶では当時の東大駒場(全国の縮図)には4つの派があっ
たと思います。民青(共産党系)とブントと第4インター系(表向
きの名前は覚えていません)と、もう1つあったと思うのですが、
名前は覚えていません。

 そして、11・27まではレーニンの「外部注入説」を機械的に主張
するブント系のやり方に反対する大多数の学生の意向を反映して、
ブントに対して他の3つの派がまとまって反対していたのだと思い
ます。従って、ブントは主導権を握れなかったのです。

 それが11・27の評価をめぐって、否定する共産党系と肯定するそ
れ以外の3派という対立に分かれたのです。そして、後者の中心に
ブントが座ったのです。

 この対立は結局60年安保闘争の間ずっと続き、その後も解消する
ことはなかったと思います。

 思うに、この辺の事は立花隆氏が好く知っているはずです。氏は
どれかの派(多分、第4インター系)とつながっていたはずですか
ら。それなのに氏がこの辺の事を書かないのは、何か後ろめたいこ
とでもあるのでしょうか。とにかく歴史に対して無責任だと思いま
す。

 西部氏は1958年秋ころの委員長の名前として小島昌光を出してい
ますが、私には懐かしい名前です。個人的にもサークルで一緒だっ
たことがあるからです。たしか日比谷高校を出た人でアコーディオ
ンのうまい人でした。外部から注入しなければならないと主張する
ブント系の人々に堂々と反論していた姿を思い出します。

さて、11月27日は安保改定阻止国民会議の第8次統一行動でした
。私も参加していましたが、途中から用事で帰りました。その後、
国会突入事件が起きたのです。

 これが計画的だったかは大した問題ではないと思います。計画的
にしては、ほんの少し柵を動かして中に入った後、何も予定があり
ませんでした。

 まあ、それは大した問題ではないと思います。私の記憶が立花氏
の記述と違うのは、駒場と本郷に1人ずつ籠城したという点です。
私の記憶では2人とも駒場寮に隠れたのだと思います。

 それから12・10の次の統一行動で逮捕されるまで、駒場キャンパ
スの中は騒然として、様々な議論が起きました。警察は「大学の中
も治外法権ではない」と主張して、踏み込むぞと脅しました。恐れ
をなした教員たちは、警官が踏み込めば大学の自治が否定されるか
ら自主的に出てゆくべきだと主張しました。結局、上のような妥協
が成立したようです。初冬のキャンパスで遅くまで議論していたこ
とが強く印象に残っています。

 そして、いよいよ1960年となりました。1月から岸首相の訪米に
反対する羽田空港での闘争とかありましたが、何といっても5月19
日の強行採決が国民の不安な気持ちに火をつけました。もちろん国
会審議では社会党の人々も問題点を炙りだして政府を窮地に追い込
み、国民に問題点を知らせました。その背景があって初めて強行採
決後の盛り上がりが理解できるのだと思います。

 国会審議は停止し、連日国会周辺では多くの人達がデモ行進をし
ました。しかし、特に6月4日の労働者のストライキの後、徐々に
沈滞気味となりました。そこに6・15事件が起きたのです。沈滞気
味となっていた運動に活を入れようという意図があったのではない
かと想像しています。学生が死んだということは大きな怒りを呼び
起こしました。東大文学部国史科の4年生でした。

 茅学長も抗議の声明を発表し、授業は出来なくなりました。それ
でも6月19日午前0時には遂に「自然成立」ということになったの
です。その夜、我々30万と言われるデモ隊は国会の回りで1夜を過
ごしました。

 以上が縦糸とするならば、学内でのブント系と共産党系との戦い
が横糸です。私は1960年4月には本郷に進学していました。そして
、共産党系として活動していました。そこで、少し書いておきたい
ことがあります。

 東大本郷では当時、教育学部自治会だけが学部として共産党系で
した。その他はみなブント系でした。

 大学としては東京教育大学(当時はまだ大塚の茗荷谷にありまし
た)が拠点でした。ほとんど毎晩、教育大学の教室で共産党系の活
動家の集まりがありました。その中心人物は、私の記憶では、黒羽
清隆氏だったと思います。

 しかし、既に故人となっている(1987年没)氏の「昭和史」下巻
の著者紹介を見ますと、次のように書いてあります。
 1952~56、教育大学史学科在学。
  1956~61、新宿区立東外山中学教諭

 1960年当時、既に教師をしていたことになるのです。腑に落ちま
せん。しかし、私にはこの名前が強く焼きついているのも事実です
。教師になってからも学生の組織の指導をしていたということも考
えられます。

 実際、共産党の支援は強力で、文書などは「赤旗」を印刷してい
る印刷所でやっていたようです。活字が同じでしたから。

 もう1つ書いておきたい事があります。これは西部氏と関係する
ことです。氏はこう書いています。

 「ところで、この場をかりて当時の東大生に感謝しておきたいこ
とがある。安保闘争の最中、60年5月末、委員長改選の時期がまた
やってきた。やはり、ブントは6対4の見当で、劣勢であった。共
産党の厳重な監視のなか、私はまたしてもボル選の準備にとりかか
ったのである。いま思い出してもうんざりするくらいにトリッキー
な方法であり、実行にたずさわった人間にはすまぬことをしたとい
う気持ちが今でも拭えないのだが、ともかく準備は完了した。

 しかし共産党が『西部が何かをする、選挙は延期すべし』という
ビラを出し、その方針が全学的な支持をうけたのである。つまり、
東大生は私が『何かをした』委員長であり、また『何かをする』委
員長だということを知っていたわけである。奇妙なことに、私は自
分の正体が全学的なかたちで見抜かれていたと知って、羞恥よりも
安堵を感じた。そして、我田に水を引いて言えば、そんな贋の委員
長の出す過激方針に賛同してくれた東大生が4割もいたとことに感
謝したくなるのである。

 こんな私の顛末は、それ自体としては、語るに値しない事柄であ
る。歴史の動きには何の関係もない話である。ボル選が私の前にも
後にも多々あったことは左翼の常識である。左翼の内情を暴露した
いのでもない。ブントなるものの実態を理解してもらう手掛かりに
なればとの心づもりで、四半世紀前の記憶をほじくってみただけの
ことである。ブントの実態というよりも、その精神の型である。駒
場は、おそらく、党派抗争の最も激しかったところである。暴力は
時折のなぐりあいにとどまっていたが、それだけに言葉の抗争にお
いて神経を用いなければならなかった。勝つためには、民主主義を
持ち上げるふりをしながら、それを足蹴にしなければならなかった
のである。」

 これは少し記憶違いではないだろうかということを書いておきた
いと思います。

 まず第1に、西部氏は1960年4月には私と同様、本郷に進学して
いたはずです。駒場の委員長にはなれないはずです。

 しかし第2に、西部氏が何かの選挙に出たのは事実だと思います
が、それはどこかの自治会の学生大会の議長選挙に出たのだと思い
ます。なぜそう推測するかと言いますと、対立する共産党系の候補
者が私だったからです。

 しかし、ここではっきりしないのはどの自治会の議長なのかとい
う点です。本郷では学部ごとに自治会が出来ていたはずです。法学
部は緑会という名だったと思います。そして、西部氏は経済学部に
進学したはずで、私は文学部でした。それなのにどうして同じ議長
選挙で争ったのかということです。

 とにかく私が議長選挙に出たことはたしかであり、対立候補が西
部氏だったこともほとんど疑いがありません。1度同席した時、「
公正な選挙にすることを2人で共同で呼びかけよう」と提案して断
られた記憶があります。その選挙で私はそれこそ4対6くらいで負
けたのですが、その後「おかしい」という声がたくさん出て、「牧
野に投票した人の署名集め」をしたからです。これは結局6・15事
件のためにそのまま終わりになりました。

 当時、こういったボル選をした人々の中には、その後法哲学者と
して1人前になった長尾龍一氏などもいたはずです。すると、法文
経の3つの自治会の合同の大会の議長だったのかもしれません。

 とにかく人間の記憶はあてにならないものです。私の記憶も完全
とは言えませんが、西部氏は自信たっぷりに言いすぎていると思い
ます。これが本人の書いたこととして「歴史的事実」とされては困
りますので、私の記憶と調査で書きました。

 上に引用した本のほかには東大職員組合編「6・15事件前後」
(東大出版会)(1960年9月)の「資料・安保改定阻止行動日誌」
を使いました。(2007年06月01日)

PS・10月12日というのは書きませんでしたが、浅沼稲次郎氏が19
60年に暗殺された日です。


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