ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第56号、ジャーナリズムの責任

2006年02月01日 | 教育関係
教育の広場、第56号、ジャーナリズムの責任

(2001年09月26日発行)

 この7月に中1少女転落死事件というのが起きました。手錠をか
けられて中国高速道に転落した少女が後から来たトラックに轢かれ
て死んだというものです。その手錠をかけて援助交際を迫った容疑
者が先日逮捕されました。それは中学校の現職の教師F氏でした。
そこでF氏についていろいろな事が新聞や雑誌に書かれています。

 それを読んでいますと、F氏は何回目かの受験でようやく教師に
なり、自分の出身地から少し離れた地域の中学校に赴任したようで
す。そこでは最初は熱血教師だったそうです。バレー部の顧問とし
て「バレー部通信」を20回も出したとかということも報じられてい
ます。しかし、何年かたってからおかしくなったそうです。

 10ヵ月間の休職の後に、近くではあるが別の中学校に復帰したそ
うです。この新しい職場でもやはり当初は熱意があったそうですが
、しばらくして又おかしくなり、今年ついに又休職し、その休職期
間中に事件を引き起こしたということです。

 これを読んでいて私の考えたことは次の通りです。

 人間は誰でも大小の違いはあれ、精神的な悩みを抱えています。
その意味で「異常者」と言えます。

 しかし、それの「異常の度合い」が或る程度の範囲内なら、それ
は、大多数の人がそうなのですから、「正常」とみなされるわけで
す。

 逆に、その範囲を越えると「異常者」となるわけです。普通は悪
い方向に(というのは、他人に迷惑をかけるような形で)異常な人
がそう言われます。

 もちろん好い方向に異常な人もいるわけで、これは天才と言われ
るわけです。しかし、こういう天才は何らかの点で天才なのであっ
て、その他の点では悪い方向に異常である場合が多いようです。

 この8月から9月末までNHK TVで「天才の栄光と挫折」という講
座がありました。私は興味をもって視聴しましたが、天才であるが
故に不幸になった人もいれば、天才と異常とが同居していた人もい
るようです。

 さて、問題はその特に悪い方向に異常な性格はどのようにしてそ
うなるのか、それは個人だけに全責任のあることなのか、というこ
とです。もう少しはっきり申し上げるならば、我々は何らかの人間
関係の中で生きていますし、働いているのですが、その人間関係が
良好であるか否かは我々の精神状態にとても大きな影響を与えるの
ではないか、ということです。

 更に言い換えるならば、同じような資質を持った個人でも、置か
れた環境によって犯罪を犯すほどにひどくなる場合もあれば、逆に
正常になって楽しく生活していく場合もあるのではないか、という
ことです。

 つまりこのF氏がここまでおかしくなったのには、たしかに本人
の資質もあったのでしょうが、それと共に、あるいはそれ以上に、
彼の置かれた職場の人間関係が悪かったのではないかという疑問が
出てくるのです。

 しかるに、職場の人間関係を良好に保ち、皆が話し合って仲良く
楽しく協力して目的をより良く遂行するように計らうのはトップの
仕事です。中学校について言えば、校長のリーダーシップの問題で
す。

 現に『アエラ』の09月24日号には校長の次のような談話が載って
います。「セクハラとか援助交際とか、噂が生徒から寄せられたが
、聞いた教師が根拠がないと言って一笑に付していた。残念だ」。

 「残念だ」ではないのです。自分が職場全体を十分に把握して職
場の雰囲気を良くするためにどれだけの具体的な努力をしたか、自
分のやり方を反省して、今後の正しいリーダーシップのあり方を考
えるべきなのです。

 したがって、F氏の犯罪までの軌跡を跡づけて今後に役立てるに
は、ぜひともその中学校の人間関係はどうだったのか、校長のリー
ダーシップはどうだったのか、ということを取材しなければならな
いと思うのです。

 私の見た範囲では、F氏の学校の人間関係に問題を探り、校長の
リーダーシップを具体的に取材した形跡は一つもないのです。私が
今回問題にしたいのはこの点です。

 ジャーナリズムは「事実」を報道すると思っているのかもしれま
せんが、それは違うと思います。報道するべきは「事実」ではなく
て「真実」です。「個別的な事実」ではなくて「全体的な観点から
見ての真実」です。「個別的な事実」は全体の中に置くならば「虚
偽」になることもあるのです。

 では、事実ではなくて真実を報道するにはどうしたらよいのでし
ょうか。それはジャーナリストが正しい方法(正しい問題意識)を
持っていて、その観点から取材することです。学校の問題を取材す
る時には、「学校教育というのは校長を中心とする教師集団が行う
ものである」という観点を堅持して、何よりもまずその学校の「校
長を中心とする教師集団がどうだったか」を取材してほしいので
す。

 このように言うと、「それでは主観的になる」と反論する人が出
てくるかもしれません。しかし、何の観点も持たないで取材すると
いうことはあり得ないのです。人によって違うのはどういう観点を
もって取材したかだけなのです。

 かつて私は「黒磯北中事件の分析」の中で、殺された女教師が終
業間際に私語している生徒に注意した時、どういう言葉で注意した
かが報道されていないのは残念だ、と書きました。これも新聞記者
に正しい観点がなかったからこうなったのです。

 事件は次から次へと起きます。報道機関の役割は重要です。ぜひ
とも問題意識ないし方法ないし観点の重要性を自覚して、全体的な
観点からみての真実を追究して報道してほしいと思います。そうで
なければ、単なる興味本位の報道になってしまって、世の中を良く
するのに役立たないと思います。今回の場合でも、根本的な報道が
なかった反面、「F先生はボチャっとして胸の大きな女子生徒が好
きだった」といった興味本位の報道がありました。

 今回の事件をきっかけにして文部科学省は「教師の性的な犯罪に
対しては罰を重くする」という方針を出しました。たしかに罰は少
し軽すぎたと思いますから、それを重くすること自体には私は反対
しません。

 しかし、職場の雰囲気を良好に保つという根本問題と、従って校
長の任務が視野に入っていないのが問題だと思うのです。教師が問
題を起こした場合には、校長のリーダーシップを調査して、それに
問題があった場合には校長にも責任を取らせるようにするべきだと
思います。

 このように我が国では、残念ながら、行政にもジャーナリズムに
も学校教師の問題を考える正しい観点がないのです。これではいつ
までたっても学校はよくならないわけです。

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