ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「ユーゲント」05号(1999年06月16日)

2007年08月29日 | 教科通信「ユーゲント」
「ユーゲント」05号(1999年06月16日)

                ドイツ語教室の教科通信

   9日の小テスト

 この小テストから成績に関係させます。
 定冠詞の格変化をしっかり覚えて下さい。複数はdie, der, den,die です。複数3格形を dem としている人が何人かいました。

 名詞の覚え方自体が出来ていない人がまだ何人かいます。これはみな×です。

   der Tisch,-e 。─
 定冠詞・見出し語・コンマ・複数1格形(-を使うこと)

 20点の人が人文で2人工学部で1人でした。人文には19点も何人かいました。0点が数人出ました。12点は取るようにして下さい。

   「舌切り雀」か「舌切られ雀」かの研究法

 ユニークな答えを紹介します。工学部には面白い答えが少なかったです。

──おとぎ草紙のような「舌切り雀」のもととなっている物を探して、まず読む。そこに「舌切られ雀」とあれば、現代になって「られ」が「れ」に変化したものだと分かるだろう。そして、「舌切り雀」のモトがなく、口によって伝えられてきたものかもしれないと思ったら、「舌切られ雀」を百回くらい続けて唱えてみる。そうすると「舌切り雀」になるかもしれないので。

──日本語では、主語を省略して、動詞+目的語という形にして、その動詞をさらに形容詞化するという現象が存在する。「舌切り雀」の場合、「人が雀の舌を切る」→「雀の舌を切る」→「舌切り雀」となる。

──「舌切られ」と言うと残酷な感じが出てしまうので、「舌切り」とつけたと思うので、他の日本の昔話の題名をいろいろ調べ、残酷な感じのする言葉が切り取られていることを明らかにする。

──ほかに「止まり木」などの例を出して、類似性でせめる。

──たくさんの人、様々な年齢層の人々に、「舌切る雀」「舌切り雀」「舌切られ雀」などいくつかの解答パターンを提示してアンケートをする。選んだ理由も述べてもらう。その結果を導き出し、日本人の表現法のデータをとる。

──舌切り雀に出てくる雀は、おばあさんが作ったのりを食べてしまう、という良くないことをした結果として、舌を切られた。だから、直接舌を切ったのはおばあさんだけど、「雀が良くないことをしたから」というふうに、雀自身に原因があるから、雀自身がやったと同じなので、「舌切り雀」というようになった、と思う。

──「舌切り雀」は舌を切られた雀の話だが、これは「舌切る+雀」をまとめて全体を名詞化したもので、例えば「焼き肉」も焼かれた肉で、「焼く+肉」を名詞化したものではないかと思う。

──アメリカのNASAに行ってタイムマシンを作ってもらい、「舌切り雀」の書かれた時代に行き、作者に聞く。

──他にも同じような事例、または言い回しのものを探し、音や字数を調べる。

    講師の考え

 まず、「舌切り雀」型の用例と「舌切られ雀」型の用例を集めてみると、前者はあるけれど、後者はないのである。前者の例を列挙する。

 (1) 忘れえぬ思い出
 (2) 裏長屋・・人家の裏の方(裏通り)に建てた(みすぼらしい)長屋(『新明解国語辞典』)

 (3) 士官が、呟いた。いかつい顔、がっしりと鍛え上げた体格とは、およそ似つかわしくないロマンチックな言葉だった。(伴野朗氏『霧の密約』63回)

 (4) メディアが丸裸にした被害者(『アエラ』50号の記事の標題。医師が妻と二人の子供を殺害して、海に捨てた事件の記事)

 (5) 「ふれ合い小さな絵画展」と題したこの展示会(ラジオ)

 このように、受け身でもよいところに能動形が好んで使われている。要するに、日本語はこういうものだというだけの話ではなかろうか。

 外国語で似た例を考えてみる。「人っ子一人見当たらなかった」と言う時、英語とドイツ語では次のように対照的である。

 英語・ Nobody was to be seen.
 独語・ Niemand war zu sehen.

 つまり、英語は受動形を使うが、ドイツ語は(表面的には)能動形を使う(ただし、意味は受動なので、文法としてはこれを「未来受動分詞」と言う)。

 この時、なぜ英語では to see と言わないのか、なぜドイツ語では gesehen zu werdenと言わないのか、という質問を出したとする。答えは「そういう習慣になっている」としか言えないであろう。

 この場合も、英語には The room ist to letと You are to blame の2つの例外がある。ドイツ語には例外はない。

 では、なぜ英語のその2つの場合は例外になったのか、という問題を出してみよう。すると、歴史的な経緯で答えることは出来ても、原理的な答えとしては、ただ「そうなっている」というしかないであろう。

 言葉の学問は最後は「習慣」に行き着くが、それはソシュールが明らかにしたように、言葉の本性として「恣意性」ということがあるからであろう。しかし、その「習慣」を確認するために、しっかり用例を調べて見なければならないのである。

 もう1つ。「最後は」習慣に行き着くのだが、習慣も一度出来てしまうと、その後の言葉のあり方に対しては影響力を持つ。従って、ある表現がそれに先行するどういう表現から影響を受けているか、ということは問題になりうる。習慣の内部での関連である。今の「舌切り雀」についてそれを考えてみる。

 井上ひさし氏の『私家版日本語文法』(新潮文庫)によると、日本語では利害を感ずるという意味で人格を認められる主体に対してのみ受け身表現が認められていた。しかし、明治以降、非情の物にもそれが認められるようになり、又自然可能的な受け身表現(自然に~される、~と考えられる、といった表現)も西欧語の影響で生まれた、そうである。

 そうだとすると、「舌切り雀」の雀は有情主体だから受け身表現は可能だったはずである。従って、ここで更に、受け身表現の可能な場合でも、どういう場合には能動表現が使われ、どういう場合には受け身表現が好まれるか、という問題が生まれる。私はこれに一般的に答えるだけのものをまだ持ち合わせていない。しかし、今では英語の影響で受け身も奇異に感じられなくなったが、昔の人には原則として能動が自然だったのではないだろうか、という仮説を持っている。

   父の日のプレゼント

 06月20日は「父の日」です。皆さんは何をしますか。ネクタイとか、何か物を贈るのですか。感心しません。お父さんが何を欲しがっているか、考えて下さい。息子や娘と対話をしたいのです。「父の日」には「話を贈る」のです。晩酌に付き合って、あるいは電話をかけて、いつもよりは少し長く付き合ってあげて下さい。喜んでくれるはずです。

 話す事がない、なんて言わないで下さい。自分がいかに「青春を謳歌」しているかを話し、お父さんはいかに「青春を謳歌」したか、それを聞けばよいのです。話す事はいくらでもあるはずです。

 いずれアンケートにその結果を書いて下さい。楽しみにしています。