ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第296号、共産党の衰退と学者・評論家の態度

2007年08月09日 | カ行
 過日の参院選で共産党は議席を減らしましたし、この先の展望は暗いと見るのが普通だと思いますが、共産党自身は「比例区での得票数が前回や前々回より増えた」ことをもって、敗北とは考えていないそうです。

 朝日紙はこれを報じた時(2007年08月07日)、同時に名大教授の後房雄氏と評論家の立花隆氏の談話を載せました。

 後氏は、「共産党が衆議院の小選挙区に候補者を立てることで自民党を勝たせている、と有権者が見れば、共産党は邪魔だとなる。今は単なる死票ではなく、自民党を助けることになっている」という点を指摘しています。これは前々から言われていることです。

 共産党の言い分だと、多分、「自民党でも民主党でも同じ」ということでしょう。従って、後氏が更に突っ込んで問題提起するならば、学者らしく、共産党の統一戦線論であった(過去形。最近は聞かないから)「一致点で協力し、相違点はねばり強く話し合う」はどうなったのか。その「理論」はどこがどう間違っていたのか、という所まで検討しなければならないと思います。後氏の説はあちこちの雑誌などで読んでいますが、この点まで突っ込んで論じたものは知りません。

 更に、最近の連立時代においては、連立とは何か、連立の中の多数党はどう振る舞うべきか、少数党はどう振る舞うべきか、ということも理論的・実践的な大問題だと思います。後氏にはこれの検討もありません。

 私見では、連立を組む党派の間では、協定を結んだり話し合って決まった事についは、「賛成できない党派もその実行には反対しないが、理論的には反対を堅持していて好いし、堅持するべきだ(但し、閣僚になっている人は実行する)」という考えを確立するべきだと思います。なぜならこれが民主主義だからです。

 これまでの連立では、決まった事に理論的にも改宗してしまっていますが(それの一番ひどい例が自社連立政権での社民党の自衛隊合憲論、安保容認論への改宗)、これでは民主集中制か全体主義です。

 立花氏の共産党への忠告はその組織原則に関してです。つまり、「日本共産党が絶対の組織原則として守る『民主集中制』は、名称とは裏腹に民主的な制度ではない。党内の言論の自由を封殺し、指導部の絶対権力を保障する制度だ」から、それを捨てることが「真先にするべきことだ」と忠告しています。

 しかし、立花氏は、民主集中制が非民主的な制度になっていることを「事実として」指摘しているだけで、原理的にそうならざるをえないのかの分析がありません。従って又、どういう過程をへて民主集中制が非民主制になったのか、その変質過程の分析もありません。

 後氏と立花氏に共通するのは自分の政治的な立場の表明を避けていることですが、後氏は、多分、「共産党は、自公連立政権における公明党のような形で民主党と連立せよ」という山口二郎氏と同じなのでしょう。

 自分に対する批判に答えないことで悪名の高い立花氏の立場は分かりません。しかし、東大で哲学を学んで、「日本共産党論」を公刊したこともある人とは思えないお粗末な理論ではあります。

 共産党は多くの人によって「理論性の高い政党」と思い込まれており、自分たちもそう思い込んでいるようですが、私の見るところでは、その理論は極めてお粗末です。先日亡くなった宮本顕治さんも「理論家」と言われていますが、私の見るところでは組織運営に長(た)けていただけだと思います。池田大作氏もそうであるように。

 共産党の民主集中制が全体主義に変質する過程を理解するためには、まず民主集中制自体を民主主義及び全体主義と比較して確定しておかなければなりません。

 この3者は、少数意見の扱い方で区別されます。民主主義では少数意見は自説を保持していて好いのです。多数意見の実行を行動で妨げなければいいのです。

 民主集中制では、少数意見は自説を保持したままではありますが、多数意見の実行に多数派と一緒に参加しなければなりません。

 こう理解すると、民主制と思い込まれている多くの組織でも、特に比較的小規模な組織やグループなどでは事実上、民主集中制が実行されていることが、分かると思います。8人のグループで今度どこへ旅行しようか、話し合ったとします。意見は一致しなかったけれど、採決でA地に決まったら、少数意見の人も一緒に行くというのがそれです。

 民主主義でも、例えば税とかは不賛成の人でも決まった通り収めなければなりませんから、部分的に民主集中制が行われています(なお、民主集中制については、共産党自身の解説に基づいて、朝日新聞にも用語解説が載っていましたが、その解説の不適切性については「マキペディア」に書く予定です)。

 全体主義では少数意見は多数意見に改宗し、一緒に行動しなければなりません。

 共産党の民主集中制は、事実上、少数意見に改宗を迫るようになっていますので、それは全体主義に変質しているのです。この変質の理論的手段になっているのが、第1に、「理論と実践の統一」の間違った解釈です。

 それは、本当は、理論と実践は「事実」一致しているという事なのですが、ほとんどの左翼関係者は、何の理論的検討もなしに、「言行は一致させなければならない」という道徳的な意味に理解し、更に具体的には、マルクス主義を口にする者は実践という名の政治ごっこをしなければならない、あるいは共産党に入らなければならない、という意味に理解しています(詳しくは拙著『理論と実践の統一』(論創社)に書きました)。

 第2の理論的手段が「批判と自己批判」です。これもかつては共産党の規約に「批判と自己批判の方法によって」などと書かれていた言葉ですが、この句はそもそも「批判と自己批判がどうなのか」「批判と自己批判の方法とはどういう方法なのか」を述べていない(どこにも書かれいない)点で無意味な句です。それなのに、実際には、少数意見に対して「自己批判という名の土下座」を強要する理論的根拠となりました。その土下座の強要の極まったものが「査問」でした。

 これらの2つの間違った理論と一緒になって、共産党の民主集中制は全体主義に転落したのです。

 こういう説明を初めて聞いたという方も少なくないと思います。共産党は事程さように理論水準の低い政党なのです。

 又、学者も評論家も、多くは、あまり大した事はないのです。