テレビドラマでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いを
しているが、実際には刀槍を交えての白兵戦は行われていない。
実は、私の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから
「石(ごく)つぶし」。北会津村の名主「新田」家に居候し、
村人に読み書きソロバンを教え、医術なども施していた。
「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かった。
会津藩の成人はみな四方の国境に出払っていたから、城下に
残っていたのは老人と少年だけ。わが家の本家「牧原一郎」は
65歳で殿様を警護して滝沢本陣まで出陣。その弟の「奇平」は
63歳で「敢死隊」を率いて強清水(こはしみず)まで出向いた。
牧原源八郎は44歳、叔父の奇平に従っていた。
急遽 駆りめられたのは 郷頭、肝煎、僧侶、神主、相撲取り。
「士分に取り立てる」という俄かしのぎの口約束でかり集められたが
鉄砲も刀も扱ったことが無い。もっとも「牧原奇平」は郡奉行で
付近の村々を回っての食料調達が任務だった。
しかし迫りくる大砲、鉄砲の音に驚いて、隊員はみな逃げ出して
しまった。その責任をとって奇平は強清水で自決。
源八郎は、左腕に鉄砲玉が当たって負傷し、城の南を廻って、
北会津の新田家まで戻った。そこで手当てを受け、一命を
取り留めたことで、子孫が存続し、私がいる。。