現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

小日山運輸大臣の終戦

2019-08-15 08:19:50 | わが家のこと

私の叔父(父の兄)「牧原源一郎」は、終戦時、衆議院議員で、同郷(会津)の

「小日山 直登・運輸大臣」の秘書官だった。『小日山直登氏を偲ぶ』という本を上梓している。それによると・・・・・

「小日山」氏は 満鉄総裁から関東軍の推薦で、昭和20年5月1日、「鈴木貫太郎」内閣に入閣した。7月18日から、西部方面の鉄道輸送路の視察に赴き、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と一周して、一週間後というから7月26日、広島に立ち寄っている。

ここで「畑 俊六・西部方面第二軍司令官」「高野源進・広島県知事」「大塚惟精・中国地方総監」と懇親している。その後は、大阪で「佐藤栄作(後の総理大臣)・大阪鉄道局長」の案内で 京都に遊び、29日に帰京している。

どこの都市も空襲が激しくなり、大分と大垣で列車が襲撃され、危険な旅ではあったが、京都と広島は空爆されないと知っていたようだ。

さて、帰京してから8月15日終戦までの、一日一日が緊迫の途。

極秘のうちに終戦工作がなされ、近衛文麿をソ連に派遣して終戦の仲介を頼もうということになった。もう“溺れるもの藁をも掴む” なりふり構わずである。モスクワ駐在日本大使は、小日山大臣の義兄「佐藤尚武」氏で、小日山大臣の娘婿の「湯川盛夫」(外務省の若手外交官)が、 近衛公より先に行くことになったが、出発が幾度か変更された。

 

そうこうしているうちに、6日、広島に原爆。9日には長崎にも落とされ、ソ連が国境を越えてきたとの情報。「小日山」氏は満鉄の総裁で「関東軍」の推薦で入閣したから、陸軍の人気も高く、会津人であり「徹底交戦派」かと思われていたがさにあらず。「鈴木貫太郎・総理」に心服し、その意向を受けて、終戦に向けてのさまざまな道を模索されていた。

8月9日、総理官邸で臨時閣議が開かれた。各大臣の意見はまちまちで、真夜中の11時、総理は宮中に参内して、閣議の模様を陛下に御報告。ただちに「戦争最高指導者会議」が開かれた。

この会議は「内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部長」の6人で構成。時間は容赦なく経過して、10日の午前3時。総理が戻られ、再び閣議。この時、「終戦」派が7、「徹底抗戦」派が3、「条件付き終戦」が5のようだった。

11日、「ポツダム宣言受諾の用意あり」と、アメリカに打電。

12日に「バーンズ米国国務長官」の回答が、米国から放送され、その内容について閣議を開いて検討。

14日、「閣僚全員即刻宮内に参内せよ」との思し召し。

異例のことで「平服のままでよろしい」とのお達しだったが、豊田軍需、太田文部大臣は、開襟シャツだったため、「いくらなんでも、陛下の前にこのままでは出れない」というので、私(牧原)のYシャツとネクタイを貸した。

 

聖断がくだり、阿南陸軍大臣が、閣議のあと、真っ赤に血走った顔で巾広の軍刀をガチャつかせて、総理の部屋に入っていかれた。定めて、最後のお別れの挨拶であったと思われる。それから まもなくして、割腹自殺された。

 

終戦の動きを察知した過激派将校たちが不穏な動きとの知らせ。案の定、その夜、総理官邸が暴徒に襲われた。下村情報局総裁が拉致されたとか、近衛師団長が射殺されたとか、青年将校たちが野砲を宮城内に据え置いたとか、放送局が占拠されたと、さまざまな情報が乱れ飛んだ。

(中略)

そして 8月15日の「玉音放送」。省員を大講堂に集めて、玉音を拝聴。泣かぬものはない。悲しいというか、悔しいというか、力が抜けて、ただ涙が出るばかり。広い講堂の床には、一面に涙の跡が残っていた。

 

翌日には「鈴木貫太郎内閣」は総辞職。「東久邇宮内閣」が組閣。前閣僚で残留したのは「小日山運輸大臣」ひとり。しかし、翌年には「小日山」氏も 私 (牧原) も 「公職追放」。議員を辞し閑居する。

 

私の叔父「牧原源一郎」は、一代で田畑を買いあさって大地主と成り、福島県一の多額納税者として、衆議院議員に推され トップ当選。

同郷の小日山氏の秘書官として仕えたが、戦後の「農地解放」では、進んで田畑を小作人に分け与えた。その時のショックからだろうか、妻(私の叔母)は自殺しているが、叔父は、その後、長らく 「北会津村村長」を勤めた。叔父の生涯は、NHK TVでも 特集された。

 


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