8月23日を我々会津人は生涯忘れない。この日は白虎隊自刃の日なのだ。
一人蘇生した飯沼貞吉は「会津戦争のことを我が子にも語らなかった」と。
この日、薩長土の西軍は、母成峠を破って怒涛の如く会津に迫った。
この時会津藩は、藩兵の大半を日光、長岡方面の国境に派遣していたから、
城には老人と子供しか残っていなかった。そこで白虎隊と老人組が藩侯に
お供して滝沢口へと向かった。我が家の先祖も、牧原一郎67歳と弟の奇兵
62歳が老躯をかって殿の御前に伺候した。そして奇平は、僧侶、山伏、力士
を駆り集めて戸の口が原に出陣した。兵力は白虎隊50名を含めても2、3百人
ではなかったか。これで3万の西軍に敵うわけがない。しかも相手は大砲を
撃ち込んでくる。白虎隊のヤーゲール銃では太刀打ちできない。まして、
テレビ、ドラマで見るような刀を抜いての白兵戦などなかったのだ。
実際は、白虎隊は一晩中雨の中で砲声を聞きながら、寒さと空腹にふるえて
いた。夜が明けると、街道を進軍する官軍を見つけて、山中を逃げまどった。
僧侶や力士も砲声に驚き、戦わずして逃げてしまったので、牧原奇平は責任を
とって自刃した。一郎も殿様が城に逃げ帰る途中、「足でまといになっては
申し訳ない」と、自宅に帰り自刃している。牧原邸は甲賀口門前にあり、
西軍を喰い止めるための激戦地となった。
そして白虎隊も本隊は皆急ぎ帰城しているのだが、一部はぐれた者20名が
飯盛山で自刃した。彼らはほとんど戦っていないのだが、それでは話になら
ない。明治、大正、昭和と軍国主義の高揚の過程で、自刃した白虎隊士19名
だけが異様に賛美され、「国難に殉じること」が美化、喧伝された。まともに
戦って城に帰り、さらに籠城戦を戦い抜いた他の隊士たちは、生き恥を晒し、
肩身の狭い生活を余儀なくされた。我が一族にも生き残りの隊士がいたが、
戦後東京に護送され謹慎の後、行くへ不明である。川崎市鶴見の牧原一郎氏が
本家であるが交流も面識も無い。一郎氏は故人となられた由。
というわけで、会津人には、不快を感じるかと思われるが、白虎隊の賛美が、
太平洋戦争の玉砕、特攻の悲劇へとつながっていったと思えてならない。
白虎隊が悪いのではなく、それを喧伝材料にした軍の参謀本部が悪い。