『九界六道の一切衆生各各心心かわれり、譬へば二人三人乃至百千人候へども一尺の面の内しちににたる人一人もなし、心のにざるゆへに面もにず、まして二人十人六道九界の衆生の心いかんがかわりて候らむ、されば花をあいし月をあいしすきをこのみにがきをこのみちいさきをあいし大なるをあいしいろいろなり、善をこのみ悪をこのみしなじななり。(千日尼御返事 1318頁)』
今も御書を拝読しています。
考えてみれば、毎年毎年年の初めに御書全編の拝読を決意し、突発的な出来事があって拝読が止まってしまう事はあっても、次の年にはまた拝読を始めているようです。
通して拝読できたのはまだ一桁ですが、実質はそれ以上になっていると思います。
その中で、最初は「まさか」と思ったもので、後に「さすが」と唸ってしまった一節が、上記の御文の中の『善をこのみ悪をこのみしなじななり』です。
「善を好み」はすぐに理解できました。しかし「悪をこのみ」の部分で引っかかったのです。
人はすべてにおいて、良くなる事を望んでいるはず。悪を好んで、悪へ堕ちる事など誰も望んでいないはずだ、という単純な思いからの発想でした。
しかし仏の言葉です。決して間違った事を言っているわけではありません。理解できないこちらの問題です。こちらの経験不足なだけのはずです。
ちなみに、この一説に触れた最初は、十代の終わり頃か、二十代初めの頃だったのではないか、と思います。まだ性善説を信じていた頃、と言ったらいいでしょうか。今はそんな甘い考えは持っていません、世の中を見れば分かる通りですからね。
翻って、ネットの中の教学論議を見てみると、面白い現象に行きあいます。
教条主義で御書を語る者、持論の飾りに御書の文を利用する者、自身の身丈に合わせて御書を語るもの。
もっと分かりやすく言えば、まともに御書の拝読もしないで、学習会や座談会で学んだ御書の範囲で、すべてが分かったように御書を論じる者が結構いるのではないか、と言う事です。
そして師匠の御書の解釈、講義を、切り文で利用し、反対意見の者を「師匠違背だ」と決めつけるために使って来る者の存在がある、と言う事です。
ネットと言うのは自己申告の世界です。現実がどうあれ、教授と言えば教授です。幹部だ、現場で戦っている、と言えばその人は現場の人であり、逆に未活だ、と言えば未活なのです。それが真実であろうがなかろうが、それが独り歩きをして、ネットで定着していくのです。
そして、多弁は立派そうに取られます。
ネットで言うところの多弁とは、単に時間があって、パソコンに向かっている時間が長くて、キーボードを打っている時間が長いだけなのですが、これは周囲だけでなく、自分さえも勘違いさせる落とし穴なのです。
婦人部で、掲示板を運営している人がいます。
文章は決して上手くありません。ネットの中のログの引用が中心です。
でもこの人は、自分の掲示板を使って、反対者に言いたい事を言い続け、自分の身丈で御書を矮小化し、我こそが正義、と発信し続けます。
ネットの中には、許可なく引用・転載を禁止しているブログ等は結構あります。私もそうしていますが、中には許可を取って来る人もいます。
「これこれしかじかかくかくで、この記事を引用させていただいても良いでしようか?」とのメールなりメッセージがきたとして、誰にでも許可をするわけではありませんが、その人は、許可なく孫引きをしてくるのです。
そんなマナー違反、ネチケット違反が通用するのであれば、まともな議論もできようはずがありません。
しかもその人は、小賢しく立ち振る舞って、まともな議論の場には、決して上る事なく、自分の土俵で、そこに上がって来ないと分かっている人の事を言い続けるのです。
さらに問題なのは「私が被害者」、のスタイルを作り続け、反対者が何時も加害者に仕立て上げられる、と言う事です。
そのしつこさは、尋常ではありません。場合によっては足掛け三年、同じ問題を蒸し返し蒸し返し、女性特有のねちっこさでつつき続けてくるのです。
私はその人の事を女性、と理解していますが、ネットはあくまでも自己申告の世界です。確証はありません。また、創価学会員である確証もありません。
それは私も同じです。私の事は、このブログの文章を以って理解していただくしかないのです。
と、今回は、今のネットの現状に対しての雑感なりを書いてみました。
御書の感想ではなくてごめんなさい。
最後に、この文章に関しても、転載・引用は禁止です。
ネチケット無視の方もいらっしゃいますが、重ねて申し上げておきます。
今も御書を拝読しています。
考えてみれば、毎年毎年年の初めに御書全編の拝読を決意し、突発的な出来事があって拝読が止まってしまう事はあっても、次の年にはまた拝読を始めているようです。
通して拝読できたのはまだ一桁ですが、実質はそれ以上になっていると思います。
その中で、最初は「まさか」と思ったもので、後に「さすが」と唸ってしまった一節が、上記の御文の中の『善をこのみ悪をこのみしなじななり』です。
「善を好み」はすぐに理解できました。しかし「悪をこのみ」の部分で引っかかったのです。
人はすべてにおいて、良くなる事を望んでいるはず。悪を好んで、悪へ堕ちる事など誰も望んでいないはずだ、という単純な思いからの発想でした。
しかし仏の言葉です。決して間違った事を言っているわけではありません。理解できないこちらの問題です。こちらの経験不足なだけのはずです。
ちなみに、この一説に触れた最初は、十代の終わり頃か、二十代初めの頃だったのではないか、と思います。まだ性善説を信じていた頃、と言ったらいいでしょうか。今はそんな甘い考えは持っていません、世の中を見れば分かる通りですからね。
翻って、ネットの中の教学論議を見てみると、面白い現象に行きあいます。
教条主義で御書を語る者、持論の飾りに御書の文を利用する者、自身の身丈に合わせて御書を語るもの。
もっと分かりやすく言えば、まともに御書の拝読もしないで、学習会や座談会で学んだ御書の範囲で、すべてが分かったように御書を論じる者が結構いるのではないか、と言う事です。
そして師匠の御書の解釈、講義を、切り文で利用し、反対意見の者を「師匠違背だ」と決めつけるために使って来る者の存在がある、と言う事です。
ネットと言うのは自己申告の世界です。現実がどうあれ、教授と言えば教授です。幹部だ、現場で戦っている、と言えばその人は現場の人であり、逆に未活だ、と言えば未活なのです。それが真実であろうがなかろうが、それが独り歩きをして、ネットで定着していくのです。
そして、多弁は立派そうに取られます。
ネットで言うところの多弁とは、単に時間があって、パソコンに向かっている時間が長くて、キーボードを打っている時間が長いだけなのですが、これは周囲だけでなく、自分さえも勘違いさせる落とし穴なのです。
婦人部で、掲示板を運営している人がいます。
文章は決して上手くありません。ネットの中のログの引用が中心です。
でもこの人は、自分の掲示板を使って、反対者に言いたい事を言い続け、自分の身丈で御書を矮小化し、我こそが正義、と発信し続けます。
ネットの中には、許可なく引用・転載を禁止しているブログ等は結構あります。私もそうしていますが、中には許可を取って来る人もいます。
「これこれしかじかかくかくで、この記事を引用させていただいても良いでしようか?」とのメールなりメッセージがきたとして、誰にでも許可をするわけではありませんが、その人は、許可なく孫引きをしてくるのです。
そんなマナー違反、ネチケット違反が通用するのであれば、まともな議論もできようはずがありません。
しかもその人は、小賢しく立ち振る舞って、まともな議論の場には、決して上る事なく、自分の土俵で、そこに上がって来ないと分かっている人の事を言い続けるのです。
さらに問題なのは「私が被害者」、のスタイルを作り続け、反対者が何時も加害者に仕立て上げられる、と言う事です。
そのしつこさは、尋常ではありません。場合によっては足掛け三年、同じ問題を蒸し返し蒸し返し、女性特有のねちっこさでつつき続けてくるのです。
私はその人の事を女性、と理解していますが、ネットはあくまでも自己申告の世界です。確証はありません。また、創価学会員である確証もありません。
それは私も同じです。私の事は、このブログの文章を以って理解していただくしかないのです。
と、今回は、今のネットの現状に対しての雑感なりを書いてみました。
御書の感想ではなくてごめんなさい。
最後に、この文章に関しても、転載・引用は禁止です。
ネチケット無視の方もいらっしゃいますが、重ねて申し上げておきます。
>心臓をつかまれた男>08/07/20 21:55
心臓をつかまれるのは男と思っていたんだが、女も心臓をつかまれるのな。
なあ?あんたはどうだい、大河さんよ。あんたの心臓潰されちまったかい?大河さんよお。
昨日もいつもと同じく御書の拝読をしました。
偶然にも、弘安3年1月に書かれた御書だったのですが、普通でした。
確認のため、弘安2年10月20日の分も読んでみました。
普通の内容でした。
今はこれしか言えませんが、御書がすべてだと、いつもその姿勢で拝読しています。
タイガーになってるよてね
猫ちゃんならまだ可愛いけど所構わず噛み付くのはどうなんでしょうね
僕から見ると江戸時代のバテレン狩りか中世時代の魔女狩りしか写らないですね
あの人はネット創価学会のお巡りさんですかね
ある御婦人、困ったものだと思っています。
楠板での名無しさんとの対話、見ていましたが、質問の意味を完全に取り違えて「愚か者」の連呼。
名無しに対してスレッドが立ったのも初めて見ましたし、ここまで質問の意味をすり替えるというのも凄いな、と。
あの御婦人の固定観念が、すべての文章を、自分のテリトリーに取り込んで、自分色に染め直してからでないと、何も考え付かない、きわめて狭い思考の持ち主なのかな、と言う思で拝見していました。
私が感じた問題点を、いくつか上げて良いでしょうか。
その1
「公式見解」大好きの人ですので、それで押して来るのは当然でしょうが、相手はその事を言っているのではなく、公式見解を了解した上で御書の文を聞いているだけなのに、「公式見解否定論者だ」と決めつける。
そう言う印象操作で、自分だけが正しい、と周囲に思わせる。
その2
ご本人が宗門問題の事を知らないと伺える記述があちこちにあるのに、相手が知らないと決めつける。
知った上で質問していたら、どうなのでしょう。
これも印象操作ですよね。
その3
質問者が言ってもいない言葉を付けて、質問者の真意をすり替える。
別々の掲示板でやっているので、どう言おうと構わないと言う、これも「我こそ正義」の考え。
その具体的な言葉としては、質問者の「御書の文を上げよ」に対して「御書の中の出世の本懐を顕した文を上げろと聞くのか」となる。
「10月20日に書かれた御書もある」に対しては「10月20日に真筆本尊があると言っているようだが」となる。
さぞかし名無しさんは困った事でしょう。
だから「そんな高尚な事は聞いていない」と言ったのだと思います。
質問者は、単純に、弘安2年10月12につ以降の御書の中で、この日についての記述があるかどうか、と聞いているだけなのに、一体この人は、何を考えていたのだろう、と頭をひねってしまいました。
名無しさんの質問には、非常に興味を持っていました。
ただ、答える側が答えられなくて、必死にごまかして行ったという事でしょうか。
あの御婦人のこれからの発言に興味を持って行きたいと思っています。
これからもきっと事あるごとに、暴走列車のごとく突っ走るでしょうから。
きっとここも見ていて、何らかの反応をするとは思うのですが。
はじめまして、学会婦人部の花百蓮といいます。関東に住んでおります。私はブログもはじめてですが、よくわからないことも多く力を入れすぎてしまうところもありますから、気をつけないといけませんね。
月に2回、信濃町本部へは唱題も含めまして行かさせていだいております。
11月18日の日に大勝利の報告が出来るように皆さんと頑張っています。
宜しくお願いいたします。