市丸の雑記帳

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エンドレス・ゴンギョー

2008-01-18 15:33:53 | Weblog
 青年部時代を経験している人なら、誰でもあるのではないでしょうか、限界を越して活動して、それでも一日の締めくくりに仏壇の前に座って勤行をした経験。
 私もあります。
 そんな時って、大体勤行の始からして、午前様になってしまっているのですが、時間がどうと言うよりも、体力が残っていないわけです。それでも勤行だけは、と言う姿勢、立派でしょう。

 でも、そんなときの勤行って、悲しいかな、始まりこそちゃんとやっているのですが、ほどもなくどこ行っているか分からなくなるのが常でした。
 二座が終わって三座になっているはずなのに、いつの間にか長行の真ん中あたりをまた言っている、かと思えば題目を唱えて、題目かと思えば、また方便品。かと思えば長行に戻って、また……。

 こんな滅茶苦茶な勤行をして、と思っていたら、結構そんな人多かったみたいで、同時代に青年部だった人と話していたら、
 「あったあった、で、気がついたら経机に突っ伏して、そのまま朝になったりしてた」
 なんて聞いて、ああ、やっぱりな、なんて思ったものでした。
 ある人は、風呂で溺れそうになった、と言ってました。
 「お湯飲んで、目が覚めた」
 「風呂に入れるならまだ良いよ、仏壇の前で朝だものな」
 こんな話をよく聞きました。

 疲れて、それでも一時間の唱題をしようとしていた頃、居眠り勤行は御本尊拒否の生命の表れだ、と言われ、よし、御本尊様の前では絶対に居眠りをしないぞ、と決めて、挑戦した事があります。確かに勤行の時は、しっかりとした意識を持って、声もちゃんとしていました。眠気もあまり感じなくて、やればできるものだ、と思ったものです。

 そして朝、勤行の終わりだけは覚えていたのですが、何時二階に上がって、どうやって布団に入ったのか、全く記憶のないこともありました。

 今はこんな無茶をすることはなくなりました。第一。体がついて行きません。
 でも、青年は挑戦の異名である、と考えたら、そこまでやったと言う思い出も、また良いもの、なのかも知れません。

でも皆様、くれぐれもムリ・ムラ・ムダのないように、価値的な一日を。