青年部時代を経験している人なら、誰でもあるのではないでしょうか、限界を越して活動して、それでも一日の締めくくりに仏壇の前に座って勤行をした経験。
私もあります。
そんな時って、大体勤行の始からして、午前様になってしまっているのですが、時間がどうと言うよりも、体力が残っていないわけです。それでも勤行だけは、と言う姿勢、立派でしょう。
でも、そんなときの勤行って、悲しいかな、始まりこそちゃんとやっているのですが、ほどもなくどこ行っているか分からなくなるのが常でした。
二座が終わって三座になっているはずなのに、いつの間にか長行の真ん中あたりをまた言っている、かと思えば題目を唱えて、題目かと思えば、また方便品。かと思えば長行に戻って、また……。
こんな滅茶苦茶な勤行をして、と思っていたら、結構そんな人多かったみたいで、同時代に青年部だった人と話していたら、
「あったあった、で、気がついたら経机に突っ伏して、そのまま朝になったりしてた」
なんて聞いて、ああ、やっぱりな、なんて思ったものでした。
ある人は、風呂で溺れそうになった、と言ってました。
「お湯飲んで、目が覚めた」
「風呂に入れるならまだ良いよ、仏壇の前で朝だものな」
こんな話をよく聞きました。
疲れて、それでも一時間の唱題をしようとしていた頃、居眠り勤行は御本尊拒否の生命の表れだ、と言われ、よし、御本尊様の前では絶対に居眠りをしないぞ、と決めて、挑戦した事があります。確かに勤行の時は、しっかりとした意識を持って、声もちゃんとしていました。眠気もあまり感じなくて、やればできるものだ、と思ったものです。
そして朝、勤行の終わりだけは覚えていたのですが、何時二階に上がって、どうやって布団に入ったのか、全く記憶のないこともありました。
今はこんな無茶をすることはなくなりました。第一。体がついて行きません。
でも、青年は挑戦の異名である、と考えたら、そこまでやったと言う思い出も、また良いもの、なのかも知れません。
でも皆様、くれぐれもムリ・ムラ・ムダのないように、価値的な一日を。
私もあります。
そんな時って、大体勤行の始からして、午前様になってしまっているのですが、時間がどうと言うよりも、体力が残っていないわけです。それでも勤行だけは、と言う姿勢、立派でしょう。
でも、そんなときの勤行って、悲しいかな、始まりこそちゃんとやっているのですが、ほどもなくどこ行っているか分からなくなるのが常でした。
二座が終わって三座になっているはずなのに、いつの間にか長行の真ん中あたりをまた言っている、かと思えば題目を唱えて、題目かと思えば、また方便品。かと思えば長行に戻って、また……。
こんな滅茶苦茶な勤行をして、と思っていたら、結構そんな人多かったみたいで、同時代に青年部だった人と話していたら、
「あったあった、で、気がついたら経机に突っ伏して、そのまま朝になったりしてた」
なんて聞いて、ああ、やっぱりな、なんて思ったものでした。
ある人は、風呂で溺れそうになった、と言ってました。
「お湯飲んで、目が覚めた」
「風呂に入れるならまだ良いよ、仏壇の前で朝だものな」
こんな話をよく聞きました。
疲れて、それでも一時間の唱題をしようとしていた頃、居眠り勤行は御本尊拒否の生命の表れだ、と言われ、よし、御本尊様の前では絶対に居眠りをしないぞ、と決めて、挑戦した事があります。確かに勤行の時は、しっかりとした意識を持って、声もちゃんとしていました。眠気もあまり感じなくて、やればできるものだ、と思ったものです。
そして朝、勤行の終わりだけは覚えていたのですが、何時二階に上がって、どうやって布団に入ったのか、全く記憶のないこともありました。
今はこんな無茶をすることはなくなりました。第一。体がついて行きません。
でも、青年は挑戦の異名である、と考えたら、そこまでやったと言う思い出も、また良いもの、なのかも知れません。
でも皆様、くれぐれもムリ・ムラ・ムダのないように、価値的な一日を。