市丸の雑記帳

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唱えがたき題目

2008-01-07 09:13:54 | Weblog
 『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし。(諸法実相抄 1360頁)』

 私は子供の時から創価学会員でした。母はいつも仏壇に向かって、題目を唱えていました。
 しかし私は、生まれた時からの学会員ではありませんし、両親にしても、四十代でようやく学会にめぐり合って、ようやく題目にたどり着いたのです。
 「南無妙法蓮華経でなければ、成仏は出来ないそうだ」
 たったこの一言で、創価学会に入会した両親を、私は偉いと思います。この決断がなかったら、私は学会にたどり着けなかっただろうし、当たり前に題目を唱える事もできなかっただろう、と思うからです。

 南無妙法蓮華経と言う題目が、どれほど唱えがたいものであるのか、考えた事がありますか? 

 もう四十数年も前になります。母に手伝ってもらってですが、私が折伏をした友人がいました。その友人の所へ、足繁く通っていましたが、彼女は、どうしても南無妙法蓮華経が唱えられない、と言うのです。
 「題目をあげなければいけないとは分かっているのだけど、口がまめらないし、題目を唱えているはずなのに、いつの間にか念仏になってしまっている……」
 当時の私には、彼女の言っている事が、理解できませんでした。
 「念仏なんか、唱えちゃあ駄目だよ」
 「ウン、分かっているんだけど……」
 彼女は懸命に題目に挑戦し、普通に唱えられるまでになりました。子供にも信心をしっかりと教えました。

 主人は二十五歳を過ぎてから学会に入りました。
 念仏の家に生まれ、何かあれば真言の所へ祈祷に行く、と言う生活をしていましたが、盆と正月ぐらいは仏壇に手を合わせたらどうだ、と親に言われるほど、信仰心はなかった、と言います。当然、念仏など,口にした事はありません。
 どれほど宗教に縁が無かったかは、その歳になるまで、創価学会の事を聞いた事もなかった、と言う事で見当がつくでしょう。
 その主人でさえ、題目を唱える事には猛烈な抵抗があった、と言います。
 「題目をあげていると、念仏にこそならなかったが、どうにもこうにも、口がまめらなくて、なんて苦しい宗教だろう、と学会に入った事を後悔した」
 そんな主人の所へ、地区リーダーが家庭訪問に来て、何を言うでもなく一緒に題目をあげてくれたそうです。その時、すらすらと題目を唱える地区リーダーが、ものすごく立派に見えた、と言います。

 今、主人は当たり前に題目を唱えています。
 今年は題目をコンスタントにあげたいね、そう平気で言えるようになりました。
 次の目標もあるし、やっぱり題目だな、と言い合っています。
 
 しかし主人の思いの中には、常に、あの唱えがたき題目、の感覚がある、と言います。
 だから、当たり前に題目を唱えられる事が、尊いのです。