日本人人質の中にも犠牲者が出たようだ。安倍首相は「人命第一で対応すること」と、“人命優先”を至上命題としていたが、叶わなかった。
アルジェリアの治安当局が武装勢力に対して攻撃を開始したのは日本時間1月17日夜。
安倍首相は攻撃開始から1日以上経過した1月19日に入ってからも、午前6時からの対策本部会合で、「邦人の救出に全力を尽くしてほしい」指示を出していた。
《安倍首相“邦人の無事確認と救出に全力”》(NHK NEWS WEB/2013年1月19日 7時22分)
安倍首相「徐々に被害の状況が明らかになってきているが、いまだに全容が明らかになったとは言えず、依然さまざまな情報が錯そうしている。引き続きアルジェリア政府に必要な働きかけを行うとともに、アメリカやイギリスとも連携して、あらゆる手段で邦人の救出に全力を尽くしてほしい」
会合終了後に記者団に――
安倍首相「このような卑劣な事件は断じて許されない。今後とも、私が陣頭指揮をとって、政府一丸となって全力で事件に対処していく」――
「アメリカやイギリスとも連携して、あらゆる手段で邦人の救出に全力を尽くしてほしい」と関係閣僚に指示を出した発言は日本政府を直接的な交渉当事者に置いた発言であろう。
また、「政府一丸となって全力で事件に対処していく」にしても、自らを交渉当事国に置いた発言となる。
安倍首相はアルジェリアのセラル首相と1月20日午前0時半から15分間、再度の電話会談を行なっている。《首相 電話会談で緊密な情報提供要請》(NHK NEWS WEB/2013年1月20日 3時57分)
セラル首相「人質救出に向けたすべてのオペレーションが終了し、全テロリストは降伏した。現在、まだ見つかっていない人質を捜索中だ」
安倍首相「わが国として、テロは断じて許容しない。今回の事件は極めて卑劣なものであり、強く非難する。これまでアルジェリア政府に対し、人命を最優先にするようにと申し入れてきたが、厳しい結果となったことは残念だ。
現地の状況について、以前から情報が錯そうしている。日本および関係国に、アルジェリア政府が把握している情報を緊密に提供するよう重ねて求めたい」
セラル首相「あらゆる指示を出して最大限の協力をしたい」
電話会談後記者団に――
安倍首相「邦人の安否につい、厳しい情報に接している。今後とも、人命最優先で取り組んでいくし、邦人の安否の確認にも全力で取り組んでいく」――
電話会談での、自分が発言したとしているのだろう、「人命を最優先にするようにと申し入れてきた」という言葉は直接的交渉当事国をアルジェリア政府に置いた発言である。
現実にも直接的交渉当事国はアルジェリア政府であって、日本政府ではないのだから、日本政府ができることは“人命優先”の申し入れしかない。
対策本部会合で閣僚たちに、「邦人の救出に全力を尽くしてほしい」と出した指示が、アルジェリアの首相に電話会談で「邦人の救出に全力を尽くしてほしい」と要請することに当たるいうことでは決してないはずだ。
あくまでも前者は日本政府を交渉当事国に置いた発言であって、後者は逆にアルジェリア政府を交渉当事国に置いた発言となっているはずである。
問題はアルジェリア政府が“人命優先”の申し入れに対してどの程度応えるか、アルジェリア政府の意向にかかっている。アルジェリア政府が「テロリストとは交渉せず」の態度を原則としていて、イスラム武装勢力が日本時間1月16日午後2時頃、アルジェリアの天然ガス関連施設を襲撃、人質を取って立て篭もったのに対してアルジェリア政府が武装勢力に対して攻撃を開始したのは日本時間1月17日夜。
武装勢力の侵入から約1日半程度しか経過していないうちの攻撃である。武装勢力の要求に対して問答無用の攻撃が早ければ早い程、それが“人命優先”の日本にとって拙速に見えたとしても、アルジェリア政府から見た場合、「テロリストとは交渉せず」の原則の強固な証明となる。
いわば「テロリストとは交渉せず」の確実な表現となる。
このような強固な証明・確実な表現こそが再度の武装勢力襲撃の抑止策になると見ているからこその「テロリストとは交渉せず」なのだろう。
日本政府の“人命優先”の立場と異なるアルジェリア政府の「人命優先」を目の当たりし、尚且つアルジェリア政府の攻撃によって人質に犠牲者が出ていながら、当然、直接交渉当事国でないことのもどかしさ感じていていいはずだが、いわば日本側の“人命優先”が最早手遅れとなっている現実を突きつけられているにも関わらず、安倍首相は結果的に日本政府を直接的な交渉当事国に置いた情報発信を行なっている。
アルジェリア首相との電話会談後の記者団に対しての、「今後とも、人命最優先で取り組んでいく」にしても日本政府がさも直接的な交渉当事国であるかのような発言となっている。
もし意図しないまま混同しているとしたら、合理的判断能力はゼロということになる。
「政府一丸となって全力で事件に対処していく」と発言し、「邦人の救出に全力を尽くしてほしい」と閣僚たちに指示を出した以上、安倍首相自身や閣僚たちが「政府一丸となって」「邦人の救出に全力を尽く」す具体的なアクションを起こさなければならないし、起こして初めて、安倍首相の言葉は実体を持つ。生きた言葉となる。
だが、具体的なアクションの実体はアルジェリアのセラル首相に、“人命優先”で取り組んで欲しいと要請することと情報の速やかな提供でしかなかった。
勿論、人質解放の直接的な交渉当事国ではないからだ。
何のために日本政府を交渉当事国に置くような情報発信を行ったのだろうか。
一国の首相の情報発信である。意図しないものであっても、合理的判断能力ゼロは許されることではない。人質解放の直接的な交渉当事国であるかのように見せかけて“人命優先”が可能であるかのような情報発信、あるいは人質解放の直接的な交渉当事国であるかのように装って「救出に全力を上げる」が実行可能であるかのような情報発信は詐欺そのものである。
実現の見通しがないと分かっている政策を公約として国民に約束するのと同じ詐欺である。
日本政府の“人命優先”をアルジェリア政府に認めさせてこそ、邦人救出に全力を上げたことになり、「政府一丸となって全力で事件に対処」したことになる。
だが、認めさせることができず、攻撃によって人質に犠牲者を出している状況を見ながら、“人命優先”を言い続け、邦人「救出に全力」の情報を発信し続けた。
不正直としか言いようがない。
但しアルジェリアの天然ガス関連施設でアルジェリアの治安当局と武装勢力の間で繰り広げられている状況に関連付けずに安倍首相の一連の発言を表面的に解釈した場合、あるいは単に上っ面だけをなぞった場合、“人命優先”に懸命な姿勢だけは伝わってくる。
如何に“人命優先”に懸命となっている首相なのか、そうと見せるためのアリバイ作りではなかったのではないだろうか。兎に角自身の失態で1名でも邦人が犠牲になった場合、自身の首が飛ぶ。“人命優先”の情報を発信し続ければならない立場にあった。
アリバイ作りでなければ、直接交渉当事国でもないのに結果的に直接交渉当事国となるような発言を発信することはなかったろう。首相の立場にある以上、合理的判断能力を少しでも持っていたなら、そのような錯誤は自分自身、許さないはずだ。
国民がいつ自分たちの生命を預けるか分からないのだから、こういったアリバイ作りだったり、ポーズだったりの不正直は許されることではない
断っておくが、“人命優先”を否定しているわけではない。“人命優先”は最大限尊重されるべきことであることは言うまでもない。
だが、“人命優先”の価値感・人権意識は万人共通というわけではないことも厳然たる事実として否定し難く横たわっている。
“人命優先”の価値感・人権意識を世界に向けた場合、届く範囲には限界があることを認識していなければならない。認識することから、国家の危機管理は始まる。果たして安倍首相は今回のアルジェリアでのイスラム武装勢力による邦人人質事件で、このことを厳格に認識していたのだろうか。
イスラム武装勢力が日本時間1月16日(2013年)午後2時頃、アルジェリアの天然ガス関連施設を襲撃、そこで働くアルジェリア人や外国人を含む邦人を人質として、施設に立てこもった。
事件を受けて、安倍首相は日本時間の1月17日午前9時過ぎ、訪問先のベトナムで記者団に次のように発言している。
《安倍首相 政府対策本部設置を指示》(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 10時8分)
安倍首相「こうした行為は断じて許すことはできない。
きのう第一報を受けて、人命第一で対応すること、事態の掌握に努めること、関係国と連携を密にすることの3つのことを指示した。菅官房長官とは緊密に連絡をとっていて、先程も電話で近況の報告を受けた。
政府の対策本部を立ち上げ、私の不在中は、麻生副総理が本部長として対応するよう指示した。その後、麻生副総理に電話をして、本部長として万全を期すよう指示した」
記事付属の動画では、実際の発言は次のようになっている。
安倍首相「先ずこうした行為は断じて許すことはできないということを申し上げたいと思います。
えー、昨日は第一報を受けまして、えー、三つのことを指示を致しました。第一に、人命第一に対応するように。第二に、事態の把握・掌握に努めるように。第三に関係国と、えー、連携を密にするように、ということで、になります。
えー、官房長官とは緊密に連絡を取っております。その際、えー、政府に於いて、えー、対策本部を立ち上げるよう、指示を致しました」――
先ず第一番に「人命第一で対応すること」と、“人命優先”を菅官房長官に指示している。
だが、直接交渉者は日本政府ではない。直接交渉者はアルジェリア政府である。アルジェリア政府がテロリストと交渉しないという姿勢を堅持していることを安倍首相は情報として得ていたはずだし、得ていなければならない。
交渉しないということは、例え武装勢力が人質解放に条件をつけて要求項目を掲げたとしても、基本的にはそれを無視した武力制圧による治安優先、そのためにはときには“人命優先”を犠牲にする国家危機管理をタテマエとしていることを意味する。
そのような国家危機管理を体制としているアルジェリア政府当局が“人命優先”の価値感・人権意識をクスリにもしない人間集団であるイスラム武装勢力を相手に対峙するということになれば、“人命優先”はかなり危機的状況に曝されることになる。
かと言って、日本政府が直接交渉者となれないのだから、“人命優先”を日本政府自身がイスラム武装勢力相手に直接的に機能させることも不可能である。
日本政府が直接交渉者であると仮定したとしても、“人命優先”の価値感・人権意識に拒絶反応のイスラム武装勢力相手では十分な機能は至難の業となる。
こういった状況に陥るだろうということは安倍首相にしても早い段階から予想できていたことでなければならない。
予想できていたなら、“人命優先”の危機的状況の打開はテロリストとは交渉しないとしている直接交渉者のアルジェリア政府当局に交渉しないとしている旗を降ろして貰い、武装勢力が要求している条件について話し合って貰うしかない。
武装勢力の要求が例え呑めない条件であったとしても。
だとすると、安倍首相は菅官房長官に対して「人命第一で対応すること」と指示を出すのではなく、アルジェリア政府に対して“人命優先”を直接働きかけるべきではなかったろうか。既に断っているように、日本政府は武装勢力に対して“人命優先”を直接関与できないのである。
菅官房長官「安倍総理大臣の指示に基づき、関係する当事国に対して、外務省を通じた電話会談なり、さまざまな方策で、人命を第一とする日本の意向を伝えて、そのことが実現するよう外交努力を続けている」(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 18時11分)
首相ではない官房長官が「関係する当事国」に向かって“人命優先”を訴えたとしても首相が直接行うよりもインパクトは弱いはずだ。
《【アルジェリアの邦人拉致】菅義偉官房長官会見詳報》(MSN産経/2013.1.16 21:51)
菅官房長官「アルジェリアにおいて現地邦人企業の社員数名、今、確認中でありますけれども、武装集団により拘束、人質になっているという情報があり、現在確認を急いでおります。
なお人数にいては複数の異なる情報があります。政府としては、第一報を16時40分に受けまして、外務省において(上村司)領事局長を長とする対策室を立ち上げるとともに、官邸においては17時に内閣危機管理監を長とする官邸対策室を立ち上げました。本件が人質事件であることから、その性質上これまで非公開扱いとしてきたことをご理解をいただきたい。
――中略――
外国訪問中の安倍総理には私から20時30分、電話で改めて報告をしました。総理への第一報は16時50分。その際、総理からは以下のご指示を頂きました。まず第1に被害者の人命を第一とした対処をすること。情報収集を強化し、事態の掌握に全力を尽くすこと。当事国を含め関係各国と緊密に連携をすること。人質事件であるという事案の性質上、現時点ではこれ以上の具体的内容については差し控えをさせていただきたい」
安倍首相は菅官房長官から事件の第一報を1月16日の16時50分に受け取っている。そしてアルジェリアのセラル首相に直接電話したのは、日本時間の1月18日午前0時30分から15分間であった。1日と7時間以上経過している。
既にアルジェリア政府は武力鎮圧の攻撃を仕掛けていた。
《首相 攻撃控えるよう電話で要請》(NHK NEWS WEB/2013年1月18日 1時47分)
記事――〈タイを訪れている安倍総理大臣は、アルジェリアのセラル首相と電話で会談し、日本人を含む複数の外国人が拘束された事件の人質を解放するため、アルジェリア軍が攻撃を開始したことについて、人質の生命を危険にさらすような攻撃は控えるよう要請しました。
電話会談は安倍総理大臣の呼びかけで行われたもので、日本時間の18日午前0時30分から15分間行われました。〉――
安倍首相「アルジェリア軍が軍事作戦を開始し、人質に死傷者が出ているという情報に接している。人命最優先での対応を申し入れているが、人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」
セラル首相「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ。作戦は続いている」
安倍首相「解放された人質の国籍など具体的な情報を知らせて欲しい」(この箇所のみ解説文を会話体に直す)
セラル首相「作戦は継続中で確認できない」
安倍首相「とにかく日本人を含め、人質を全員無事に保護してほしい」
セラル首相「最善の努力を尽くす。必要に応じて、アルジェリアにいる城内政務官に情報を入れるようにしたい」――
安倍首相は自身が直接申し入れたのではない、現地派遣の城内外務政務官が申し入れたのか、他が申し入れた「人命最優先での対応」が、既に攻撃が開始しているというのに未だ生きている要請と把えて、しかも元々必要に応じて“人命優先”を犠牲にしたとしてもテロリストとは交渉しない、武力制圧優先・治安維持優先をを国家危機管理の基本姿勢としているアルジェリアの首相に対して、「人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」と後付けにしかならない申し入れを行なっている。
この遅過ぎた安倍首相の国家危機管理は何と説明したらいいのだろうか。
要するに安倍首相は“人命尊重”を口で言ってるだけに等しかった。
また、イスラム武装勢力の人質解放の条件の一つが隣国マリでのフランスの軍事介入停止の要求である。これはアルジェリアにしてもフランスにしても到底呑めない要求であろう。呑めないから、フランス政府は公式の反応を示さなかった。呑んで、フランスが軍事行動を停止したなら、軍事行動自体が意味を失い、弱腰と見られて、嘲笑の対象となるだろう。
いわば武装勢力がマリからのフランス軍の撤退を求めた時点で、フランス政府にしてもアルジェリア政府にしても、“人命優先”の犠牲を止むを得ないと見ていたはずだ。
後は制圧が終了した時点で、人質を生存した状態で何人救出できるか、結果次第としていたに違いない。だから、人質がどこにどのような状態で閉じ込められているか探索できないヘリコプターによる空からの攻撃ができた。
“人命優先”なら、地上部隊が突入して、人質を目で確かめつつ救助しながら、施設内を展開、武装勢力を追いつめていくはずだ。
そのようにも“人命優先”が危機的状況に置かれていたと見る、あるいは置かれることになるのではないかと疑うだけの認識が安倍首相になかったとしたら、その国家危機管理は未熟としか言いようがない。
安倍首相は集団的自衛権行使容認の憲法解釈見直しに意欲を見せている。しかも2007年設置の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」検討の4類型に関して訪問先のタイで次のように発言して、集団的自衛権行使の対象拡大を狙っている。
安倍首相「4類型で十分なのかも含めて、もう一度議論してもらいたい」(asahi.com)
4類型とは――
(1)公海上での米艦船への攻撃への応戦
(2)米国に向かう弾道ミサイルの迎撃
(3)国際平和活動をともにする他国部隊への「駆けつけ警護」
(4)国際平和活動に参加する他国への後方支援
当然、対象を拡大した集団的自衛権の行使と共に日本はイスラム武装勢力の攻撃対象となる可能性が生じる。日本の自衛隊が集団的自衛権行使で海外で戦闘活動を行うに伴って、それを阻止するためにイスラム武装勢力が日本の民間人を特定して襲撃、人質にして解放の交換条件に自衛隊の撤退を求めるといったことが勃発した場合、日本の国家危機管理はどういった態度を取るのだろうか。
“人命優先”を最優先に掲げて、他国部隊を見放し、撤退したなら、日本の集団的自衛権の信用を失う。
では、日本の集団的自衛権の信用を守るために、人質邦人の“人命優先”を放棄、何人助かるかは結果論次第として、襲撃地の政府当局にテロリストとは交渉せずの武力制圧に任せるのか。
どちらかを絶対とすると、どちらかを放棄することになる。
また、国民がどちらを絶対とするかも選択の重要な条件となる。
国民が“人命優先”を絶対とした場合、武装勢力を相手に人質解放の交渉当事者となったとき、国家権力の立場から、集団的自衛権行使を揺るがせにすることもできず、“人命優先”を言っているだけでは済まない冷徹な外交判断が求められることになる。
だが、今回のアルジェリアでの人質事件で発揮することになった安倍首相の未熟な国家機危機管理の手腕から判断すると、集団的自衛権の信用を守ることと“人命優先”の価値感・人権意識を守ることの兼ね合いはさして期待できないように思える。
また、そういった当事者に立たされる最悪の場合を前以て想定して、覚悟しておくことも安全保障上の国家危機管理の一つだが、今回の安倍首相を見る限り、覚悟しているようには見えない。
本題に入る前に二つのことを取り上げたいと思う。一つは橋下大阪市長の新たな独裁行為。もう一つは外国の体罰の扱いと比較した日本の体罰の問題点を話題とした、1月16日(2013年)フジテレビ放送「知りたがり!」。
《校長会と橋下市長 入試巡り意見対立》(NHK NEWS WEB/2013年1月17日 18時44分)
大阪市立中学校校長会が1月17日、「受験生の動揺が広がっている」として入試を予定通り行うよう教育委員会に申し入れた。
窪田透大阪市立中学校校長会会長「中学3年生の進路の選択に影響を及ぼすことは認められない」
橋下市長「一番、重要なのは亡くなった生徒のことで、どちらが重要なのか分かっていない。そういう校長は大阪市には要らない。公募でどんどん替えていく。
来年度、桜宮高校の体育教師が残るなら体育教師の人件費の予算は執行しない。
大阪市が高校を抱えるのは危機管理対応能力がなく、もう無理だ。松井知事と市立高校の府への移管を早急に進めていくことで合意した」――
その上で今年4月の人事異動で桜宮高校の体育系クラブの顧問を全員異動させるべきだという考えを示したという。
「そういう校長は大阪市には要らない」という発言にしても、「来年度、桜宮高校の体育教師が残るなら体育教師の人件費の予算は執行しない」という人件費予算を人質に取った体育教師全員退去命令発言にしても、大阪市立高の大阪府移管発言にしても、話し合うということは一切せずに殆ど一人で決めていく自己絶対化からの独裁意志が益々露骨になっている。
何よりも直接的な責任はバスケットボール部顧問が部員に対して体罰を行なっているという情報が2011年9月に学校に寄せられながら、学校側の聞き取り調査に対して部活顧問が否定すると鵜呑みにして、部員なり生徒なりに聞き取り調査を一切行わず、結果として体罰の横行をそのまま許すことになり、防ぐことができた可能性の高い自殺を防ぐことをできなくさせた学校の最終責任者たる校長とバスケットボール部顧問の教師にある。
「一番、重要なのは亡くなった生徒」であるのは当然のことだとしても、だからと言って、受験生はより重要ではないと見做して体育科系入試中止、普通科入試、合格者は後に体育科系に編入では、試験内容も異なるだろうし、受験生にまで責任を拡大する不当な処罰としか言いようがない。
また、市長が市立学校の教師人件費の予算執行権限を握っているとしても、校長会や教育委員会と議論を詰めもせずに自身の一存を押し通そうとするのは、それが正しい考えであったとしても、やはり独裁意志からの強制に他ならないはずだ。
次に1月16日(2013年)フジテレビ放送「知りたがり!」。主なところだけを拾ってみる。
テーマ「なぜ体罰はなくならないのか」
伊藤利尋アナ「世界の目線でみてみると、日本人特有の意識が浮かび上がってきた」
昭和22年施行「学校教育法」第11条の紹介。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」
法律上は戦後の早い段階から体罰を禁止していながら、体罰が横行している実態を説明。その結果――
伊藤利尋アナ「2007年に具体的に殴る・蹴るはダメですよというガイドラインを文部科学省が示している。だが、禁じているはずの体罰が減っていない」
街の声――
若者「少しはあった方がいい。ただ口で言っているだけでは伝わらない。愛情として、やられる方も受け取るべきだと思います」
30代(?)男性「多少なりとも、そういう教育は必要だと思う。暴力という感じではなくて、昔よく竹刀を持ってお尻を叩かれたりとかね。僕らはスクールウオーズの世代だから。エヘヘヘ・・・」
60代(?)女性「運動なんかやっていると特に。だけど、それがあったから、頑張れるし。ウン。でも、愛情はありました。感じました。歳を取ってみると、初めて、そういうふうな先生の方が凄く思い出も残ってるし――」
街頭アンケート
「賛成」――3
「時と場合による」――62
「反対」――35
「時と場合による」とした街の声をボードで紹介。
67歳男性「水を飲んじゃいけないし、ビンタ、正座、ウサギ跳び・・・・当たり前と思っていた」
37歳女性「『ちょっと来い』と殴られるが、その先生が殴るのは余っ程絶対的な信頼があった」
30代男性「バレーボール時代、殴られたり、竹刀で“ケツバット”。でも、愛情があればいいんじゃないですか」
「反対」の街の声をボードで紹介。
20代女性「殴られた男の子が鼻血を出して、この先生、何をやっているのという。絶対尊敬できないと思った」
以上を「アンケートから見た日本人意識」として紹介。
伊藤利尋アナ「愛のムチだったら、いいんじゃないですかという趣旨の回答が多かった。自分の経験則からなのか」
アテネ五輪・アーチェリー銀メダリスト。
山本博(声の出演)「先生は成功体験から、同じ教育方法を引きずる。子ども、時代が変われば、その時々のいい教育方法を模索し、変わる貪欲さが必要」
ロンドンブーツ田村淳「(体罰の良し悪しは)ケースバイケース。殴られた先生としかメールの遣り取りをしていない。
一口では語れない。学校学校、部活部活であって、俺も殴られた先生と未だにメールで遣り取りするぐらい、その先生としかやり取りしていないから、ルール上、体罰はダメだって言っている以上、体罰はしちゃあいけないけど、やっぱり人間なんて、信頼関係どうやって築くかっていうのが一番大切なんだと――」
信頼関係を築くことができる体罰なら、オーケーということになる。だが、すべての体罰が信頼関係を築くことができるという保証はない。
外国人の街の声――
20代後半(?)ニュージーランド人男性「体罰、反対だね。どんな遣り方でも、許すべきではないよ」
街頭アンケート
「賛成」――7
「時と場合による」――17
「反対」――43
日本人の「時と場合による」――62に対して。
オーストラリア人女性(50代?)「文化の違いなのかしら?でも、私は理解できない」
イギリス人男性(30代後半?)「非常に間違っている。犬の訓練をするわけじゃないんだから」
――世界118カ国で体罰禁止――
体罰反対外国人――
アメリカ人男性(40代後半?)「州によって違います。アメリカの中心部は少し体罰があります。北部は厳しいのでありません」
解説「実はアメリカでは18の州で体罰を認めている。そこでは日本では考えられない厳格なルールがある」
テキサス州アナワック学区の体罰ガイドライン
●体罰を受ける理由を生徒に説明した上で行なうこと
●体罰は校長または校長から指名を受けた人物が行なうこと
●体罰は校長が許可した道具を使うこと
●体罰は他の学校職員が同席のもと、他の生徒の目に触れない場所で行うこと
説明はないが、要するに恣意的に行なうことの厳禁が規定されているということであろう。恣意的体罰の厳禁。
だが、日本では体罰の多くが、あるいは殆どが、試合中だろうが練習中だろうが、人目に触れようが触れまいが恣意的に行われている。
アメリカで一般的に体罰に使用される、“パドル”という、板一枚だけで作った、大きさも同程度の羽子板のような、頭は長方形、握り柄付きの板を紹介。
解説「必ず親の同意が必要になってくる」
体罰に同意しないときに署名して提出する用紙まで用意されているという。その用紙のサンプル。
「体罰に関する承諾書」
「あなたの子どもに体罰を与えたくない場合は、毎年通知が必要です」
2010年8月、アメリカ・テキサス州で行き過ぎた体罰が露見し、それを防ぐために様々なルールが設けられたという。
韓国の体罰規定
男子生徒は臀部
女子生徒は大腿部
1回10発以内
幅1.5センチ 長さ60センチ以内 直線系の木製
禁止事項 障害を負わせてはならない。
使用道具は60センチ長さの木製の線引きみたいな物なのだろうか。
ニュージランドの場合。
体罰を行った場合、教員免許取り消し、最長で5年の懲役。
伊藤利尋アナ「体罰の教育的意味を今考えなくてはならない」(以上、「知りたがり!」から)
番組の結論は、現在大人となっている自分たちも学校に通っていた頃体罰を経験してきて、人間形成に役立ったとして、時と場合に応じて体罰は許されると見ている日本人が大多数となっているが、時代が変わっている以上(少なくとも人権意識は強くなっている)、指導方法も変わらなければならないのではないのかという主張となっている。
この結論がそれ程外れていないとすると、番組も同じく把えていたように日本人の全体的な意識の問題ということなら、大阪市立桜宮高校という一学校の問題ではなく、橋下市長のように一学校の問題と把えて、やれ入試中止だ、途中編入だ、校長・教師総入れ替えだ、体育教師の人件費の予算執行はしないだ、精々大阪市の市立高校全体の問題だと把えて大阪市の市立高は府へ移管だと一人イキリ立っているのは、その一人相撲が蝸牛角上の争いの譬えに似て、滑稽に見えてくる。
では、なぜ殴ったり叩いたり、暴力に近い身体的強制力を用いた体罰を部活指導や授業中の生徒指導に用いるのだろうか。
1月13日(2013年)当ブログ記事――《大阪市立桜宮高校2年生体罰自殺死に見る暗記教育と運動部顧問体罰指導との関係 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、上に位置する教師・部活顧問が体罰を手段として下に位置する生徒・部員に考えさせないで自らの意志・考えを一方的に押し付ける知識・情報の伝達構造が暗記教育の構造と同質だということを書いた。
今回は言語力という点から暗記教育との関連性を考えてみたいと思う。
体罰正当化理由に、「言葉で言って分からない場合は体罰も止むを得ない」、あるいは「言葉が通じない場合は体罰も仕方がない」と主張する者が多い。
言葉で言って分からない・言葉が通じないのではなく、教師や部活顧問が児童・生徒に対して通じさせる言葉・分からせる言葉を持っていないからではないのだろうか。
叱る言葉や注意する言葉は何不自由なく持っている。但し紋切り型の定番の言葉となっている。
教師が児童・生徒に対して、親が子どもに対して、それが男親であっても、女親であっても、叱ったり注意したりする場合、最初に、「バカッ」とか、「何やってるんだ」、「何やってるのよ」といった言葉を浴びせる。そして、「こうするんだろう」とか、「こうしなくちゃ、ダメでしょ」と叱りながら、いきなりそうすべき行為を指示・強制して、子どもが指示・強制どおりに従うと、それで良しとする。
いわば指導は完結する。
そのような指導がなかなかうまく行かないと、言葉が通じないからと、あるいは言葉で言っても分からないからと体罰を用いることになる。
理非を説いて、それがしてはいけない行為だということの説明を児童・生徒に対して、子どもに対して通じる言葉で、分からせることの出来る言葉で行なう習慣を一般的として来たのだろうか。
例えば野球の練習で、キャッチャーが二塁ベースに送球すべきを三塁ベースに送球した場合、監督やコーチは、「バカヤロッー、なぜ二塁に送球しなかったんだ。二塁だったろ、バカヤロー」と怒鳴ることはあっても、二塁に送球した場合と三塁に送球した場合の相手チームに有利な状況を招くことになるフォーメーションに於けるプラスマイナスを説いて、いくら一瞬の判断を要求されるプレーであっても、判断を間違えないようにと注意する例がどれ程あるのだろうか。
暗記教育というのは自分で自分の言葉をつくり出さない教育である。何度でも書いているように教師が教科書に載っている知識・情報をほぼ載っているままに児童・生徒に伝え、児童・生徒も教師が伝えるままに頭に暗記していく教育形式となっている。
児童・生徒の質問にしても、なぜそうなるのですか、よく分からないから、もう少し説明してください程度で、教師から教えられた知識・情報について議論し合うことは皆無に近いはずだ。
議論することで、知識・情報を発展させて、あるいは連鎖的に拡大させて、自分の言葉(=自分の考え)として身につけていくといったことはほぼ経験していないはずだ。
だから、総合学習の時間を設けて、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」といった主体的学習姿勢を要求しなければならなかった。
総合学習のテーマ達成こそが、自分で自分の言葉をつくり出す契機となる。
自分の言葉は考えることによってつくり出され、そのまま自分自身の言語力として反映されていく。
部活部員にしても、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」教育に保育園児・幼稚園児の頃から恵まれていたなら、部活顧問の体罰を待たなくても、「自ら課題(問題点)を見つけ、自ら考え、主体的に判断して、よりよく問題を解決する資質や能力」を発揮できていたろうし、部活顧問にしても、このような教育を行なうことを通して学ぶことになる自分の言葉で説明することによって部員の理解を得ることができていたはずだ。
スポーツで成功した選手の多くが、あるいは一つ物事で成功した人間の多くが人を説得させる素晴らしい自分の言葉をそれぞれに持っていることがこのことの証明となる。
彼らが他を指導する場合、体罰は必要だろうか。必要とするのは自分の言葉だけであるはずだ。
彼らは決して自分の言葉・言語力を学校教育で得たのではなく、スポーツ選手として成長していく過程で、あるいは一つ物事を成し遂げていく過程で獲得していったはずだ。
自分の言葉・言語力を身につける絶好の機会となる総合学習は学校・教師に教えるだけの能力がなく、テストの成績低下・学力低下の前に呆気なく敗退して、暗記教育のより強化へと回帰することになった。
体罰自殺のほとぼりが冷め、忘れ去られた頃、自分の言葉を持たない、言語力貧弱な部活顧問や教師は自分の言葉を持たないがゆえに言葉よりも先に手や罵声を出すことになって、再び体罰を手っ取り早い指導の手段として登場させるのではないだろうか。
せめて部活顧問の体罰を根絶させるためには、既に誰かが提唱しているかもしれないが、体罰ではない、言葉を使った徹底的な指導方法の何年の研修、国家試験合格者といった手順の認可制とする方法を考えることができる。
最後に余談になるが、「知りたがり!」は3月で打ち切られるとか、インターネット上で伝えられているが、放送のある日は毎日見ている。年老いたミーハーとしては、なかなか面白い番組だと思うが。
橋下大阪市長が1月15日記者会見で明らかにした大阪市立桜宮高校体育科系の突然の入試中止要請にしても、一方的過ぎるところに既に独裁意志が現れているところに持ってきて、その翌日の1月16日に市教委に対して普通科入試実施の最低条件に校長・教員の総入れ替えを一方的に求める独裁意志を露わにした。
独裁は常に自己を絶対とするところから始まる。自己の絶対性を他に強制したとき、独裁が現れる。自己絶対の他に対する強制が存在しないところに独裁は生じない。
自己絶対化の強制による独裁は相手の納得と承諾というプロセスを経ない、あるいは例えプロセスを経たとしても、そういったプロセスを強圧によって無力化するゆえに納得と承諾は形骸化、あるいは儀式化した意味のない議論と化す。
もし大阪市教育委員会が橋下徹の要請を言いなりに受け入れたとき、橋下徹の独裁意志が完成することになる。
かつて橋下徹は体罰容認論者として自己を絶対化していた。体罰容認の立場から様々に情報発信してきたことが自己絶対化を証明している。
だが、橋下徹は独裁によってではなく、条例によって体罰行使を「有形力行使」という形で正当化すべく図った。大阪維新の会が2011年9月に大阪府議会に提出した「大阪府教育基本条例案」は、「児童生徒に対する懲戒」を次のように定めていた。
「第47条 校長、副校長及び教員は、教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して、児童生徒に学校教育法第11条に定める懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。
2 府教育委員会は、前項の運用上の基準を定めなければならない」――
体罰を禁止し、有形力行使の運用基準を定めるとしているが、維新の会の親分自体が体罰容認衝動を抱えていた関係からして、有形力行使にもその衝動を潜ませていたはずだ。
ただ、あからさまに体罰容認を求めたら、社会の反発が強いことが分かっていたから、一歩下がって「有形力」とした。
実際にも「有形力行使」であっても反対意見が多く、採決に至らなかった。府議会に於ける納得と承諾のプロセスで撥ねられたということである。
強制的にそこを無力化する独裁は民主主義国日本に於いて許されていない。
そして桜宮高2男子体罰自殺事件を受けて、体罰容認から体罰否認へと転向した。体罰容認の自己絶対化を自ら崩した。
体罰容認の自己絶対化が絶対でなかったことを証明していながら、懲りもせずに今度は体罰否認を自己絶対化し、市教育委員会に対して自己絶対化の強制を謀ろうとしている。
独裁意志の現れである。
だが、そこに論理矛盾が存在する。
前日のブログに用いたが、1月15日記者会見。
橋下市長「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」――
市教委に対して桜宮高体育科とスポーツ健康科学科の入試中止を要請、最悪の場合には廃校や体育科の廃止も含めて検討する考えを示した。
「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた」と言うことは、「生徒や保護者の意識の積み重ねでできた伝統を断ち切るために入試を中止すべきだ」(MSN産経)とも発言していることから、体罰を用いた勝利至上主義は学校全体の体質であって、そうである以上、学校共々保護者や生徒が加担してつくり上げた同罪の体質だと把えている発言となる。
いわば橋下徹の体罰否認姿勢からの体罰に対する攻撃は体罰の行使者そのものに向かうことを超えて、保護者や生徒をも巻き込み、学校全体に向けている。
同罪だとしていることと最悪の場合は廃校や体育科の廃止という考えは、同罪だからこそ在校生とその保護者に対する懲罰とすることができるという点で整合性を得るが、入試中止は在校生とその保護者に関係なく、受験生とその保護者に関係することであって、どこにも整合性を見つけることができない。
まさに論理矛盾である。
そして1月16日、市教委に対して普通科入試実施の最低条件として校長・教員の総入れ替えをメールで求めた。《橋下市長“全教員の異動を”》(NHK NEWS WEB/2013年1月16日 17時47分)
橋下市長「お茶を濁すような人事は、だめだと思う。校長や教員の総入れ替えは最低条件で、人事権を適切に行使してほしい」
大阪市教育委員会(NHKの取材に対し)「現実的にその対応は非常に厳しい。教育委員会として何らかの答えを出さなければならず、対応を検討したい」――
《【桜宮高2自殺】橋下市長、普通科入試も「校長や教員の総入れ替え」が条件 市教委に要請》(MSN産経/2013.1.16 21:28)
橋下市長「桜宮高校普通科の入試を継続するにしても、校長や教員の総入れ替えは最低条件だと思います。そこまでの人事をやって、やっと普通科入試はギリギリOK。
適切な人事権の行使をやってください。茶を濁すような人事はダメ」
市教委幹部「生徒指導の継続性の点から、総入れ替えは支障が大きい」――
同1月16日記者会見。《【桜宮高2自殺】「完全に違う桜宮高校として再生したとき、生徒を迎えるべき」橋下市長、入試中止の姿勢崩さず》(MSN産経/2013.1.16 23:17)
橋下市長「生徒が死んだ。越えてはいけない一線を越えたから、高校の伝統を断ち切る。
(受験生への影響を懸念する声に対して)同校は生徒を預かる場所ではない。僕は受験生のことを考えて判断した。
同じ校名でも、完全に違う桜宮高校として再生したとき、生徒を新しく迎えるべきだ」
校長・教員の総入れ替えにしても、桜宮高校再生論にしても、自身の一存を強制しようとする独裁意志を露わにしている。
高2男子自殺までは体罰容認論者でありながら、自殺を境にして、生徒や保護者、体罰行使の部活顧問を除いた他の教師といった周囲が容認した体罰体質・勝利至上主義体質だからといって、こうまでも学校全体に攻撃を加えてまで体罰否認の姿勢を見せるのはなぜなのだろう。
だが、在校生とその保護者も同罪とする以上、校長・教師総入れ替えのみで在校生の総入れ替えを加えない桜宮高校再生は論理矛盾を来すことになる。
在校生のみを残したなら、同罪だとしている以上、在校生にしても体罰指導と体罰指導による勝利至上主義を体質として身に沁みつかせているはずだから、普通科入学を経て体育科系への編入を果たした新入生に対して在校上級生が体質としている体罰指導と体罰指導による勝利至上主義を伝統と文化として植えつけない保証はない。
在校生の総入れ替えまでまでやってこそ、あるいは在校生総入れ替えの懲罰をその保護者にも味わわせてこそ、同罪だとしていることに反する論理矛盾を避けることができるばかりか、学校が伝統し、文化とするに至っている体罰指導と体罰指導による勝利至上主義に対する否認の姿勢・断罪は徹底できるはずだが、中後半端にも、そうはなっていない。
過去の体罰容認発言に反省を見せてはいるが、人間は往々にして過去の過ちを消去したいがために現在の自分に於いて過剰に正義を演じて過去と現在を差し引きゼロか、ゼロを超えて現在を余りあるプラスにしたい欲求に駆られるものだが、そのような欲求から出た体罰否認の強気の態度としか見えない。
だが、自分の一存にのみ立った強気一点張りの要請は、要請の形を取っているものの、自己絶対化による強制以外の何ものでもなく、そこに露わな独裁意志を嗅ぎ取ったとしても、不思議はあるまい。
元々人間的に独裁意志の強い政治家である。
コロコロと言うことが違ってくるご都合主義者橋下徹大阪市長が1月15日記者会見で、部活顧問から体罰受けて自殺した高2男子通学の大阪市立桜宮高の体育科とスポーツ健康科学科の入試を中止するよう、市教委に要請したことを明らかにしたという。
《大阪・高2自殺:桜宮高体育科入試の中止を要請…橋下市長》(毎日jp/2013年01月16日 00時04分)
〈同校のホームページによると、募集人数は体育科が80人、スポーツ健康科学科が40人を予定。来月13、14日に出願を受け付け、学力検査や運動能力検査などを20、21日に実施。26日に合格発表する予定〉――
橋下市長(保護者や生徒を含めて体罰を容認する風潮があったと指摘)「一旦流れを断ち切るべきだ。
学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」――
そして、「混乱を最小限に抑えるため」として、3月に実施する普通科の入試で募集人数を増やし、体育科などの希望者120人を一旦普通科で受け入れる方針を示したという。
橋下市長「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥。入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない。
(体罰)禁止と言ってもなくならない。スローガンを唱えるだけでは亡くなった生徒に申し訳ない。(一旦普通科入学の新入生は)普通科から体育科への編入を検討するので我慢してほしい」
最悪の場合には廃校や体育科の廃止も含めて検討する考えを示したと言う。
何とまあ、過激な。
だが、言っていることがデタラメもいいとこである。
「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた。クラブ活動の在り方を変えるなら保護者や生徒の意識も変わってもらわないといけない。このまま入試をすれば、同じ意識で生徒が入ってくる」と言っているが、戦前の日本は国民の中に最初に軍国主義があったのか。国民が突き上げて、国家を軍国主義に走らせたのか。
そうではあるまい。大日本帝国と称した国家が最初に軍国主義という体制を国民支配の装置とした。国民はその装置に徐々に取り込まれて、自らも軍国主義を体現することになった。「天皇陛下のために、お国のために」と。
いわば戦前の日本に於いては国民は国家に対して常に従の関係にあった。
「学校全体がクラブで勝つことを第一」とした勝利至上主義は保護者・生徒が最初に求めたものなのか。
そうではあるまい。学校が体育科とスポーツ健康科学科を設けた当初から、強豪校となれたわけはなく、運動関係の科を設けたことと様々な運動部を作った手前、生徒獲得の必要上、勝利至上主義へと一歩ずつ踏み出していったのではなかったのか。
学校は勝利至上主義を満たす手っ取り早い方法として体罰を手段とした。
結果として保護者・生徒の方から勝利至上主義を学校に求めるようになったとしても、学校自体の勝利至上主義を素地とした相乗作用からの「容認」であって、学校にないものとして勝利至上主義を求めたわけではないはずだ。
まさか学校が勝利至上主義を否定していたにも関わらず、保護者・生徒の方から体罰を使ってでも部員を強くして試合に勝つようにしてくださいと学校を突き上げ、勝利至上主義に巻き込んでいったということではあるまい。
戦前の日本国家が軍国主義を素地として国民を軍国主義に巻き込んでいったのに対して日本国民も進んで国家の軍国主義に自らを染めていった構造と同じく、学校と保護者・生徒は学校の勝利至上主義を主とし、保護者・生徒の勝利至上主義を従とする相互対応の構造にあったはずだ。
保護者・生徒が学校に対してあくまでも従の関係にある以上、体罰教師を処分し、今後の勝利至上主義を否定、部活指導に於ける体罰を厳禁すれば済むことである。何も入試を中止することはない。
そうすることによって、「クラブ活動の在り方」も変わるし、「保護者や生徒の意識」も否応もなしに変わってくる。
こういったことで解決できることを入試中止まで打ち出す。市権力による教育への不当介入以外の何ものでもない。
「入試をやめて、生徒、保護者で考えないと学校なんて良くならない」などと言っているが、新入生を迎えて、新入生の保護者を交え、在校生とその保護者と共に「クラブ活動の在り方」を議論しても、何の障害もないばかりか、より多くの視点からの議論を得ることができるメリットが期待できる。
入試を中止した場合、新入生とその保護者が存在しない議論は、新入生が中学時代に体罰を受けていたとしたなら尚更、逆に体罰経験者としての彼らの視点を欠いた議論となる損失の危険性が生じる。
但し桜宮高体育科とスポーツ健康科学科入学希望者の希望を断たないために「普通科から体育科への編入を検討」の措置を取るということであって、そうすることによって新入生とその保護者の視点を欠いた「クラブ活動の在り方」の議論となる損失の危険性をもクリアするということなのだろうが、大体が体育科とスポーツ健康科学科入学希望者が普通科入学試験を行い、合格者は一旦普通科に入学させてから、体育科方面に編入では厳密には入試中止ではない。
また、編入の手間を掛けるなら、最初から直接入学であってもいいはずだ。直接入学であっても、「クラブ活動の在り方」の議論ができないわけではない。
全く以って言っていることがデタラメである。「(体罰)禁止と言ってもなくならない」は最たるデタラメ発言であろう。
自身は散々に体罰容認発言をしてきたのである。体罰を指導の手段としていた部活顧問や教師の中には橋下体罰容認発言を聞いて、「そうだ、俺のやっていることに間違いはない、橋下徹が言っているのだから」とばかりに自身の体罰正当性の再確認を行い、体罰に自信を深めたとしても不思議はない。
だが、高2男子の体罰自殺によって一人の若者が命を失ってから、体罰容認から体罰否認に転向した。
「こんなところでそのまま入試をやったら大阪の恥」も意味不明なデタラメ発言である。
逆に「大阪の恥」になったとしても、試験勉強を一生懸命にやってきた受験生の希望に応えてやろうとするのが首長であるはずだが、正反対の逆を行っている。
この程度の認識力の持ち主が日本大堺維新の会などといった国政政党の代表代行を務めている。
橋下市長の入試中止要請に対する教育長の反応。
長谷川恵一教育委員長「自殺者が出た事実は重いが、(入試まで)ぎりぎりになって子供たちに混乱を生じさせて本当によいのか。しっかり議論する時間がほしい」
永井哲郎教育長「入試が直前に迫っており、中学3年生は殆ど進路を決めている。影響が大きい」
橋下徹は自身のその時々の思いで発言するから、入試中止と言いながら、編入だなどと、入試中止にならないことを言って、結果として受験生を不安な思いに駆らせることになった。彼らは答が出るまで、結果を見つめなければならない。
高校入試という、当事者にとっては人生の試練の途上にある生徒の重大な思いになど、実際は深くは認識していないのだろう。
市教委は受験生の混乱に懸念を示しながら、1月21日に結論を出すそうだ。橋下徹の言いなりになったなら、橋下徹が組織として「ダメだ」と盛んに攻撃している教育委員会は実際にダメになってしまう。ダメな組織ではないことを示すためにも橋下の要請を撥ねつけるべきだろう。
「学校全体がクラブで勝つことを第一」としている学校の勝利至上主義の姿勢について、「NHK NEWS WEB」記事では実際に「勝利至上主義」という言葉を直接使って、学校を批判している。
橋下市長「(現在の運動部の活動は)勝利至上主義になってはいないか。スポーツの指導で、手をあげることは非効率で、不合理だ」
過去の体罰容認発言は忘却の彼方。
橋下氏は府知事だった当時、大阪府の全国学力テストの成績が全国平均点以下、小・中学校とも1都1道2府43県、47自治体のうち34~45位に低迷。猛り狂って大阪府教育委員会を詰(なじ)った。
橋下市長「教育委員会には最悪だと言いたい。さんざん『大阪の教育は違う』と言っておきながら、このざまは何なんだ。抜本的に今までのやり方を改めてもらわないと困る」(毎日jp)
府知事就任時から大阪府の「教育日本一」を目指す姿勢を示していたが、「教育日本一」になお拍車をかけることになった。
学校の勉強だけが唯一の可能性ではない。学校の勉強ができなくても、お笑いタレントとなって、成功した者もたくさんいる。生徒の多様な可能性に応えるのも学校教育であるはずである。
にも関わらず、学校の成績のみを生徒の可能性と限定して、「教育日本一」を目指す姿勢は学校成績至上主義そのものであって、これを部活の成績に譬えると、勝利至上主義となる。
両者は同義語の関係にある。自身が成績至上主義を体現して散々に教育委員会の尻を叩きながら、今更ながらに部活の勝利至上主義を批判する。
これも橋下徹の最たるデタラメの一つであろう。
入試中止は、例え編入という体裁を取るにしても、高校授業料無償化で北朝鮮に対する懲罰を朝鮮高校生に身代わりに課して無償化対象としなかったように部活顧問の体罰に対する懲罰を新入生にも課すのに似ている。
橋下徹のここに来ての体罰容認から体罰否認への転向は高2男子体罰自殺をキッカケとして自身の過去の体罰容認発言を消去する目的にも使っているいるように見える。体罰を悪と強調する姿勢を見せることによって転向を確かなものとすることができ、過去の体罰容認発言に免罪符を与えることができる。
悪とする強調の行き過ぎが受験生のことを考えない入試中止にまで突っ走ってしまったのではないのか。
大阪市立桜宮高バスケボール部顧問は日常的に体罰を行なっていた。
バスケボール部顧問「強い部にするには体罰は必要。叩くことで良い方向に向かう生徒もいる(asahi.com)
いわばバスケットボール部の成績を上げるために体罰を常用していた。
あなたの言っていることは素晴らしい。
だが、体罰を常用しなければ良い成績を上げることができない、強いチームになれないという状況は部活顧問によるチーム采配が当たり前の指導では正常に機能しなかったということであろう。薬物を常用しなければ、ハイになれない状況に等しい。
お笑い芸人のさんまは薬物を常用しなくても、常にハイな状況にある。
部活顧問は口頭による、あるいは身体の動きを用いた技術指導では思い通りの成績を上げることができなかった。
何のことはない、部活顧問の指導能力の問題であり、指導の質の問題であるはずだ。
そこで体罰を常用して、成績を上げる。
だが、体罰を常用されて伸びる部員の能力とは何を意味するのだろうか。殴られなければ、ピリッとできない、あるいは発奮できない、あるいはモチベーションを高めることができない、あるいは技術的正確さを発揮できない。
部員の側にとっても、少なくとも体罰の効用を認めている部員にとっては体罰は自分たちをハイにする薬物同然の効能があると見ていることになる。
そこに理性や合理性の存在を認めることができるだろうか。
部活顧問は部員それぞれの主体性に期待せずに体罰に期待していたことになる。主体性だけでは良い成績を上げることはできないからと。
部員側からしたら、自らの主体性に恃(たの)むことができずに体罰に恃(たの)んでいたことになる。
中には体罰の効用を頭から信じて、主体性を抜きに体罰に恃み切っていた部員も存在したはずだ。部活顧問は極めて内発的な主体性を体罰という外発的な身体的強制力に置き換えて部員の行動力とし、部員は自らの行動力としていた。
両者のこのような精神構造のどこに正当性を置いたならいいのだろうか。
「叩くことで良い方向に向かう生徒もいる」と言っているが、口頭によるアドバイスや注意の類によってではなく、叩かれて「良い方向に向かう」主体性とは、事実良い方向に向かったとしても、従属であったことから免れることはできない。
当然、それが従属的主体性であって、能動的でない以上、良い方向に向かったとしても、限定的な成果しか期待できないはずだ。
とう見ても、体罰正当化の口実、虚構の効用に過ぎない疑いが濃い。
人間をハイにする薬物は一過性の効果しかない。持続性を持たないから、再びハイな高揚感を手に入れるためには、醒めるたびに服用を繰返さなければならなくなる。結果、常用することになり、常習者という有難い名称を頂くことになる。
体罰にしても常用していた以上、一過性の効果しかなかったことを物語っている。体罰を与えたときだけ、よりよく力を発揮した。それが過ぎると、力を発揮しなくなり、再び体罰を用いる。このようなことを以って、体罰の常用と言うはずだ。
一過性とは、体罰が部員の肉となり、血となることはなかったことを意味する。
体罰を繰返し常用することによって、一過性を補い、持続性の代用としていた。
その成果が複数回のインターハイ出場獲得、全国バスケットボール選抜優勝大会ウインターカップ出場獲得ということになる。
果たして名誉な成果と言えるのだろうか。体罰の常用を介在させなければ獲得できなかった成果である。
かつて体罰を介在させて志気を高めていた組織が存在していた。正確には志気ではなく、戦意である。旧日本軍のことであるが、新たな装いとして組織された現在の軍隊、自衛隊でも時折体罰やイジメが露見する。
大日本帝国軍隊は天皇の軍隊であった。天皇の軍隊であったことから、軍という組織単位に於いて天皇の絶対的権威を体現していた。個人的行動に於いても、上官になる程、天皇の絶対的権威を色濃く体現していた。
上官が天皇の絶対的権威を表現せずして、軍隊そのものが天皇の絶対的権威を体現しようがない。国も組織も人によって成り立つ。
上官が天皇の絶対的権威をより色濃く体現していることから、上官の命令は絶対という服従のルールが存在することになる。絶対服従が崩れた場合、上官が体現している天皇の絶対的権威そのものが崩れることになる。
上官の命令は絶対という服従のルールが存在しながら、旧軍隊では海軍に於いても陸軍に於いても下級兵士に対する体罰が日常的に横行していた。
上官の絶対的命令は下級兵士に対して体罰の常用を併用しなければ機能しなかったということである。
体罰常用の併用なくして機能しない上官の絶対的命令とは口頭ではその絶対性を表現できないことを意味する。体罰によって初めて絶対性を機能させることができた。
だが、その体罰の効用は一時的であるために体罰は日常化し、常態化した。あるいは恒常化した。体罰の常用である。
旧日本軍の体罰のように激しくはなかったとしても、大阪市立桜宮高校バスケットボール部部活顧問の体罰の常用は基本的には同じ構造を取っている。
旧日本軍兵士にしても、桜宮バスケットボール部員にしても、体罰を抜きにした場合、両者の力そのもの、能力そのものが一過性であった、あるいは一時的発揮にとどまったことを物語ることになる。
確かに旧日本軍は戦闘に於いて勇猛果敢であった。だが、それは上官の日常的な体罰によって上官の命令は絶対であることを叩き込まれたり、あるべき兵士の姿を戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」等の外発的な精神的強圧によって叩き込まれたりして生じることとなったそれら外発性が強力に働いている磁場では、あるいはそのような外発性の目が届いている場では勢いよく戦うしか選択肢がなかったことからの戦闘能力であって、それが戦闘期間中持続したものの実際は一過性であったことは「生きて虜囚の辱を受けず」に反して捕虜となったとき、いわば体罰や精神的強圧の磁場から解き放たれたとき、アメリカ軍の尋問に対してルース・ベネディクトはその著『菊と刀』で、「西洋の兵士たちと異なり、日本の俘虜たちは、捕らえられた場合にどういうことを言うべきか、また、どういうことについて沈黙を守るべきか、ということを教えられていなかった。それで色々な問題に関する彼らの返答は著しく統制を欠いたものであった」と書いているが、例え身動きできない程に重症を負っていて捕らえられた意図しない捕虜の身であったとしても、尋問を受ける程に回復していた以上、「生きて虜囚の辱を受けず」の教えは機能させていいはずだが、多くが機能させていなかったのは体罰や「生きて虜囚の辱を受けず」等々の精神的強圧の磁場の外に自身を置いていたからで、「著しく統制を欠いた」証言を行った、何でもかんでも思いついたことを喋ったということなのだろう。
要するに体罰によって叩き込まれたり、外発的な精神的強圧によって刷り込まれた教えを有効としなければならない磁場の内側に位置するときは、兵士たちの行動性は軍隊が望んでいたとおりの反応を示したが、その磁場から解き放たれて外に位置した途端、軍隊が望んでいたとおりの秩序立った反応を示すことができなかった。
そこでは体罰も戦陣訓も有効性を失っていたということである。両者共に一過性であったことの証明であろう。自分で判断して行動しなければならない肝心なときに兵士たちの血や肉となって根付いていなかったために秩序を失った。
特に体罰は常用化することによって日常的な軍隊訓練でも一過性の効用しかなかった。
体罰を常用した教えは決して血や肉となって根付かないこと、長続きしないことをそろそろ知るべき時が来ているはずだ。
確かアメリカ人女性スポーツ選手だったと思うが、「日本のスポーツ選手は練習がハード過ぎて、選手生命を自分から短くしている」といったことを話していた。
欧米のスポーツ選手は自身の練習スケジュールをコーチと相談して決める。だが、日本人スポーツ選手は、特にアマの選手のうち、無名の間はコーチが決めたハードなスケジュールに従ってハードなトレーニングを自らに課し、例え世界的大会で優秀な成績を収めたとしても、その多くが短い選手生命を代償とする。
短い選手生命を結果とするハードなスケジュールに基づいた過ぎたるハードなトレーニングも選手生命の長期化を阻害するという意味に於いて一種の体罰と言えるはずだ。そのトレーニンが選手の血となり肉となって心身に着実に根付いていったなら、逆に選手生命を長くしていっていいはずだからだ。
部員の主体性に恃んだ指導こそ、その指導が一過性に終わらずに血や肉として根付き、主体性に期待することによって、例えチームの成績が上がらなくても、部員たちの人間形成に役立つのだということを学ぶべきである。
橋下徹大阪市長が1月12日(2013年)午後、大阪市立桜宮高校中2体罰自殺の遺族宅を訪れ、「命を奪ってしまったことに釈明の余地はなく、すべて行政側の責任です」と謝罪した上、自身の過去の体罰容認発言の認識の甘さを反省したそうだ。
《橋下市長が遺族に謝罪“行政の責任”》(NHK NEWS WEB/2013年1月12日 19時19分)
遺族宅訪問後、記者団に経緯を報告。
遺族「今回のことをきっかけに、学校現場や保護者が『スポーツの指導ではある程度の体罰は必要だ』という意識を改めてほしい」
橋下市長(男子生徒の遺書を遺族から見せて貰ったことを明らかにして)「生徒は相当追い込まれていて辛かっただろう。最後の言葉をつづっている姿を想像するだけでも耐えられない。
私自身もスポーツの指導で手をあげることはあり得るという認識があったが甘かった。『スポーツの指導で手をあげることは全く意味がない』という専門家の意見に触れて、正していくべきではないかと感じている」――
要するに過去に於いては体罰を容認する考えであったが、今回の事件を受けたスポーツ指導者の意見に触れて考えを改めた。
と言うことは、自身の内面から発した体罰否認ではなく、他者意見に影響された体罰否認ということになる。
安倍政権が長期化して、その自信から独裁的になり、教育に於ける生徒指導に“強制”は必要であると正当化したとき、安倍晋三を尊敬している橋下徹にしても、再び体罰容認派へと変心する危険性が懸念される。
次の記事も橋下市長の体罰に関わる認識の甘さ発言を取り上げている。《橋下市長、遺族に謝罪 高2自殺、体罰「認識甘すぎた」》(asahi.com/2013年1月13日2時5分)
記事――〈橋下市長は「口で言って聞かなければ手を出すときもある」などと発言してきたが、両親と兄との2時間以上の面会後、「自分の認識は甘すぎた」と述べた。 〉云々――
橋下市長「顧問と生徒は絶対的な上下関係。そういう状況の中で厳しい指導を認めると、こういうことになってしまう。むしろ厳格に暴力は排除しなければ」――
橋下徹は「顧問と生徒は絶対的な上下関係」であること自体が間違いであることに気づいていない。「絶対的な上下関係」となっていること自体が上に位置する教師のすべてを絶対正義・絶対善とする上下の権威主義的な力関係を築くことになる。
役目上は上下の位置関係にあるが、意見を言い合うという点に於いて、いわば相互の主体性に関して、対等な関係でなければならない。忌憚なく意見を言い合う。
忌憚なく意見を言い合うことによって顧問も部員の生徒から学び、部員の生徒も顧問から多くを学ぶ。
ただ単に殴る体罰から、何を学ぶと言うのだろうか。
部員にしても人格を有した一個の人間であるのだから。その人格を尊重しなければならない。「絶対的な上下関係」は下からの意見を抑圧する。この抑圧は下の人格を認めないことによって可能となる。
下に置かれ、抑圧された主体性が、あるいは抑圧された人格が真の十全な力を発揮するだろうか。自らの人格を許された主体性に恃まなければ、十全な力の発揮は望むことはできないはずだ。
教師対生徒の「絶対的な上下関係」は教師の人格のみ、あるいは教師の主体性を絶対として、生徒の人格、あるいは生徒の主体性の否定以外の何ものでもない。
体罰をなくすためには先ずは顧問対部員の、あるいは教師対生徒の「絶対的な上下関係」の抹消から始めなければならないという認識がなければ、体罰はなかなかなくならない。
単に禁止されているから、体罰はできないといった規則の問題で終わることになって、部員、あるいは生徒の人間形成の面からの体罰の是非に進むことはない。
元巨人の桑田真澄が少年野球時代から自身の周囲でも横行していた体罰に否定的意見を述べているが、その意見を読むと、体罰を反面教師として野球人生を歩んできたことが分かる。
彼は常に自らの主体性を維持してきた。主体性を維持することによって、人間である以上、そのすべてを絶対とすることはできないが、兎に角も自らの人格を形成していった。
主体性を抜きにして、人間形成は不可能である。
【主体性】「自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度のあること」(『大辞林』三省堂)
要するに自分の判断で動け、他人の判断で動くなということである。そうすることによって主体性が確保でき、自らの人格を守ることができる。他者に許されるのは精々アドバイスまでだろう。アドバイスを受けてもなお、満足な動きをすることができなかったなら、本人の主体性か能力の問題となる。
本人の主体性か能力といった自発的問題を上の人間が他発的に殴って思い通りにしようするのは、それが能力の問題であるなら論外であって、主体性の問題であるなら、逆にそれを抑圧することになる。
もし殴って言いなりになるとしたら、体罰そのものが相手の主体性の否定を力学としているのだから、極めて未熟な主体性と言わざるを得ない。年齢相応に育っていない未熟な主体性に対して体罰が一時的に効果があっても、体罰が動かした従属性でしかなく、当然、長期的な持続性は望むべくもない。
殴られて育つ主体性は逆説そのものである。
橋下徹はテレビの番組に出演して以来、彼の発する発言は大きな影響力を持つようになった。多くの人間を動かす強力な情報発信力を得た。
その発信力が2008年大阪府知事選で新人候補ながら対立候補に80万票の大差をつけた初当選を保証したはずだ。
選挙戦中のテレビの露出の多さも他候補と比較して群を抜いていた。
発信力の絶大性の証明は大阪府知事選ばかりではなく、1944年4月14日発生の、いわゆる「光市母子殺害事件」の裁判中の弁護団に対する攻撃に於いても見ることができる。
1審、山口地方裁判所、無期懲役、2審、広島高等裁判所、検察控訴棄却。
検察、最高裁に上告。最高裁、高裁に差戻し。
高裁第2回公判で被告人、「赤ちゃんを抱くお母さんに甘えたいという衝動に駆られた。背後から抱きついたが、性的なものは期待していなかった」と当初の殺意と強姦目的を否認。
2008年4月22日高裁、死刑判決。
弁護側、最高裁に判決を不服として上告。最高裁は差戻し二審判決を支持して被告人の上告を棄却。2012年3月14日、死刑確定。
橋下徹は高裁第2回公判で被告人が、「赤ちゃんを抱くお母さんに甘えたいという衝動に駆られた。背後から抱きついたが、性的なものは期待していなかった」と当初の殺意と強姦目的を否認したのは弁護団の誘導によるヤラセだと憤激、2007年5月27日テレビ番組『たかじんのそこまで言って委員会』で、視聴者に対して弁護団懲戒の教唆呼びかけを行った。
橋下徹「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ。
何万何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求を立てて貰いたいんですよ」(Wikipedia)
この呼びかけに応じたテレビ視聴者が、口コミによる情報共有者も存在したに違いない、インターネット等で、「懲戒請求書の記載の仕方」を情報取得し、2006年度中の全弁護士会に対する懲戒請求総数の6倍以上の懲戒請求書約7558通が光市母子殺害事件弁護団に届いたという。
裁判に直接関わった人間以外は一般的には一般人に馴染みが薄いはずの懲戒請求であるはずである。それが一つの弁護団に対して2006年度中の全弁護士会に対する懲戒請求総数の6倍以上の約7558通も届いた。
橋下徹の情報発信力がどれ程に強力であるかをこの一事が物の見事に物語っている。
だが、弁護団が弁護している被告人の利益のためだとの口実のもと、証言を事実に反してどう誘導しようとも、弁護人の誰もがやることだが、その妥当性・正否を最終的に判断するのは裁判官である。
弁護団が誘導した被告人の証言に添った判決を下したとしても、裁判官の問題である。橋下徹の弁護団糾弾はお門違いそのものである。
だとしても、2007年5月27日テレビ番組『たかじんのそこまで言って委員会』での彼の情報発信力の視聴者に対する絶大な影響力を考えた場合、過去の体罰容認発言が世の体罰教師たちに自らの体罰に対して正当性を与える影響力を発揮しなかったと断言できるだろうか。
2008年10月27日の堺市内での府民討論会「大阪の教育を考える」での発言。
このことは当ブログ記事――《橋本知事体罰容認発言/体罰は有効な教育足り得るのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
橋下大阪府知事「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」
「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を条件としているが、橋下徹自身は体罰容認を内面的衝動としていることに変りはない。
地域や家庭の合意と橋下自身の内面的な体罰容認の関係を、文科省も世間一般も(あくまでも世間一般であって、体罰を歓迎する親も一部存在する)体罰を否定していながら、その否定の傾向に反して一部で体罰が横行している状況から考えた場合、「地域や家庭とのコンセンサス(合意)」を条件としていること自体が体罰容認発言を批判されないための単なる口実でしかなく、あくまでも自らの体罰容認の衝動に陽の目を与えて、体罰を社会的に正当化したい発言と見るべきだろう。
このような体罰容認の衝動を抱えていた以上、他にも様々な機会を捉えて体罰容認の発言をしていたはずだが、このような体罰容認発言、体罰容認衝動がその強力な情報発信力を伴って世の体罰教師に体罰の正当性を与えていなかったとは決して言えまい。
いわば体罰を助長する情報発信となっていた疑いである。
桜宮高のバスケットボール部顧問自身は直接的にその情報発信の影響を受けていなかったとしても、体罰容認の勢力が有名人が所属する上層社会に存在していたこと自体が、情報発信力を有していることと相まって体罰否認の世の風潮に抵抗の棹(さお)を差すこととなって、桜宮高の部顧問たちの体罰に直接・間接に反動的な影響を与えていなかった保証はない。
このような見方からすると、当然、自殺自体にも何らかの関連を見ないわけにはいかない。
少なくともその情報発信力を考えた場合、過去に体罰容認発言があったが、「認識が甘かった」だけでは済む問題ではないことだけは確かだ。
日本の教育が暗記教育であることを前提とする。暗記教育である以上、一般的に言って、教育に時間をかける程、暗記量が多くなって、成績が上がることになる。
だが、学校教育に於ける成績という名の成果はそれを競い合う児童・生徒にとって上限はない。成果が児童・生徒それぞれの暗記能力によって個人差が生じる上に、例えテストで100点満点を取るだけの個人差の頂点に立ったとしても、その成果に満足して、競い合いを停めるわけにはいかない。異なるテストの設問に暗記能力を同じように100点満点分発揮する保証はないからだ。
また年齢と共に教育内容が難しくなった場合、これまでと同様に個人差の頂点に立つ保証もない。
いわば一度や二度100点満点を取ったとしても、それがその場の上限足り得ても、将来に亘っての恒久的な上限を保証するわけではない。
中には早々に暗記能力で競い合うことを諦めて、受験戦争の戦場から脱落する児童・生徒も存在するが、その場その場の成果を恒久的な上限とすることのできない、常に競い合いを運命づけられた児童・生徒はその上限のなさを時間を掛けた努力で以って暗記能力に磨きをかけ、解決しようとする。
このような上限のなさと時間をかけた努力との追い掛けっこの心理的な蟻地獄に陥った児童・生徒は蟻地獄から逃れることの強迫観念に駆られて学校の授業以外にも時間を求めて恒久的な上限を克服できないままに克服しようとする。
学校の授業以外の時間とは勿論、塾の時間であり、裕福な家の子は家庭教師が用意する時間である。
あくまでも一般論だが、塾に通って、そこで受ける塾の授業時間に応じてテストの回答に必要な知識・情報を叩き込まれた児童・生徒の方が塾に通わない児童・生徒よりも成績が良いのは当然の帰結であろう。
例え塾に通わない代償に家でテスト勉強をしたとしても、塾の効率の良い知識・情報の叩き込みに敵うとは言えない。
成績という上限のない成果を他者よりも時間をかけた努力によってその時期その時期のその場限りの上限を克服しようとする以上、可能な限り年少の頃から学校の授業に限らない、それ以外の時間を求める必要が生じる。
あるいは同じ学校の授業時間を利用するにしても、高度な知識・情報を効率よく成果とすべく優秀な教師を集めた私立の小学校・中学校に通って、その場限りの上限に挑戦させるという手もあるが、これも所得に十分に余裕がないと叶わない。
カネが許すなら、最善は優秀な教師を集めた私立の小学校・中学校に通い、尚且つ東大生とか京大生とかの家庭教師を雇う、あるいは有名塾へと通う方法が、単に大学卒ということだけではなく、比較的有名大学卒、あるいは絶対的有名大学卒というよりよい学歴獲得の早道となり得る。
いわばカネをかけることと時間をかけることが何よりの有効且つ高度な上限達成の手段となっていて、学校教育に関わる自身の上限を最終的に知ることになる。
このようなことを可能とするのはやはり日本の教育が暗記教育だからであって、暗記教育を前提とした教育構造が学歴に於けるそのような人生コースを採らしめる。
かなり前だが、九州からだったか、飛行機で東京だかの塾に通う小学生をテレビが取り上げていた。
以上のような結果がつくり出すこととなった親の収入格差が子どもの学力格差、その成果としての学歴格差という図式の社会的固定化であろう。
親の子どもに対する年少からの教育投資の有無、額の多寡が子どもの将来を決定する。
政府・自民党は祖父母が孫などに教育資金を纏めて贈与した場合、贈与税の一定額を非課税とする減税措置を創設するという。
1月11日(2013年)に閣議決定した《「日本経済再生に向けた緊急経済対策」について》には次のように書いてある。
〈高齢者の資産を若年層に移転させるとともに、教育・人材育成をサポートするため、祖父母からの教育資金の一括贈与について、贈与税を非課税とする措置を創設〉――
非課税とする贈与額については言及していないが、新聞記事によると、1千万~1500万円を上限とする方向で調整しているという。
この税制措置はまさしくカネ持ち優遇の教育格差拡大に貢献する政策となり得る。
勿論、教育面での低所得者対策も公約で手を打っている。
『J-ファイル2012 自民党総合政策集』
〈高校授業料無償化については、所得制限を設け、低所得者のための給付型奨学金の創設や公私間格差・自治体間格差の解消のための財源とするなど、真に公助が必要な方々のための制度になるように見直します。〉――
だが、教育格差は親の収入に応じて幼稚園児等の年少の頃から始まっているのである。児童手当等で補助を受けたとしても、カネ持ちの子どもに対する教育投資額に焼け石に水の太刀打ちし難く、給付型奨学金を受ける頃には既に大きな差がついているはずだ。
カネ持ちはカネ持ちの子孫を残し、貧乏人は貧乏人の子孫を残す。その循環が続く。
学歴不問のお笑い芸人になるのもいいかもしれないが、生き残るのは僅か、なかなか大変だ。
先ず最初に断っておくが、“隠蔽”という行為には二種類あるはずだ。気づいていながら、あるいは半ば疑いながら、気づかない振りをして事実を突き止めようとはしない、いわば事実を明らかにせずに隠す隠蔽と、実際に起きた事実を隠す二種類である。
隠してはならないことを隠す隠蔽だから、どちらも責任回避行動であるはずだ。
国家の主役が国民であるように学校の主役は児童・生徒であるはずだ。国家が国民の生命・財産を守ることを第一意義の役目としているように学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目としている。
これは理想論かもしれない。だが、そのような学校社会であるべく努力することを学校運営者たる校長と教師たちは責任を負っているはずである。例え学校側の児童・生徒に対するあるべき生命(いのち)の育みに協力しない児童・生徒が存在したとしても、彼らをあるべき生命(いのち)に持っていくべく最大限の努力をする責任を免除されているわけではないはずだ。
だが、学校内にイジメが起きたり、イジメが原因で児童・生徒を自殺に追いやったり、教師の体罰が原因で怪我や死に至らしめたり、あるいは教師の体罰を児童・生徒に自殺の動機とさせたりする危機管理上の失態が世間の目に触れることになると、学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目とした組織ではなく、自らの責任回避を通して学校そのものを守ることを第一意義としていた組織であることが露わとなる。
このことは以下の記事が如実に教えている。
一つ目は、《バレー部体罰を隠蔽、校長が報告せず…桜宮高バスケ部主将自殺》(スポーツ報知/2013年1月11日06時03分)
大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の顧問教師が部のキャプテンである中2男子に恒常的に体罰を加えて、男子が自殺した。しかし体罰はバスケットボール部だけでではなく、バレー部の顧問教師も部員指導の手段としていたことがこの程発覚した。
バレー部顧問男性教師(35歳)、2011年9月、6人の部員に平手打ちなどの体罰を1年4か月間に亘り約250回繰返したとして停職3か月の停職処分。2012年3月に復帰。
同顧問、停職解除3月から8カ月後の2012年11月、部員の頭を平手でたたく体罰。佐藤芳弘校長は体罰を把握しながら、市教委に報告していなかった。
バスケットボール部キャプテンの中2男子生徒が部顧問の体罰を原因として11月23日(2012年)に自殺したことと大阪市教育委員会が調査に入っていることがマスコミに知れた1月8日の翌日の1月9日、市教委は他の部も体罰を指導の手段としていないか調査したのだろう、バレー部の顧問に聞き取りを行ったが、顧問は行なっていないと否認。だが、1月10になって、体罰の行使を認める。
佐藤校長が10日夜に記者会見。
佐藤校長(バレー部顧問の体罰を把握していながら、市教委に報告しなかったことについて)「(バレー部顧問の)将来的なことも頭をよぎり、報告すると重い処分になるのではと心配した」
記者「生徒の将来のことは心配しなかったのか」
佐藤校長「甘かった」
記者「11月に調査していれば、(12月の)バスケット部主将の自殺を防げたのでは」
佐藤校長「結びつくことはなかったと思う。きちんと措置すべきだった」――
「(バレー部顧問の)将来的なことも頭をよぎり、報告すると重い処分になるのではと心配した」という発言は体罰を手段とした指導が生徒の人格や主体性を阻害する悪影響に対する教育的配慮よりも、顧問の身分を守ることを優先させていることが分かる。
不祥事や失態、最悪犯罪を犯した教員の校長による、それら不始末の隠蔽を手段とした身分の保守は人事の管理責任者たる校長の責任を同時に隠蔽する行為であり、自らの責任を隠蔽することによって校長としての身分の保守を行ったのである。
いわば、「報告すると重い処分になるのではと心配した」とバレー部顧問の身を案ずるようなことを言っているが、隠蔽は自身の責任も問われて何らかの処分を受け、自らの経歴に傷がつくことを恐れた責任回避を実態としていたのである。
このような責任回避行動からは児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育むことを第一意義の役目としなければならない学校の姿は見えてこない。見えてくるのは第一番に自身を置いているのだろうが、自身と共に運営構成員である教師を守ることによって結果として学校組織を守ることになる姿のみである。
前任の校長も現校長と同じく、児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育むことを第一意義の役目とはせず、責任回避を第一意義の役目とし、結果として学校組織を守ることとなっていた。
隠蔽は学校を守るためだと自分に言い聞かせていたとしても、実質は自身の責任回避が出発点となっているはずだ。
《顧問教師 “指導方針理解得ている”》(NHK NEWS WEB/2013年1月10日 18時27分)
大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問教師が部員に対して体罰を行なっているという情報が2011年9月に学校に寄せられた。学校側は顧問に対して聞き取り調査をした。
顧問教師「体罰は一切ない。トラブルもない。保護者会を年に数回開いているので、問題があれば、その場で情報が寄せられる。保護者には自分の指導方針を理解してもらっている」
調査は15分程で終了、部員なり、生徒なりに対する聞き取り調査を行わなかった。
いわば顧問の否定を鵜呑みにし、その言葉に正当性を置いた。この鵜呑みした事実を学校は市教委に報告。市教委はその報告を了承し、追加の調査を求めず、幕引きとした。
前任校長(NHKの取材に)「生徒に直接、聞き取り調査することは当時、考えもしなかった。今となっては大変申し訳なかったとしか言いようがない。今回の自殺は防げた可能性があり、本当に後悔している」――
もし学校は児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義の役目としているという責任意識を教師時代から校長となった当時でも自らの行動様式の基準としていたなら、顧問の言い分のみを以って体罰の有無に判定を下す不公平を犯さず、部員なり、生徒なりに対しても聞き取り調査を行なって体罰の有無に判定を下す公平な判斷を心がけただろう。
だが、「生徒に直接、聞き取り調査することは当時、考えもしなかった」と言い、生徒に対する教育的配慮の視線を排除している。
顧問の言い分が正しいのだろうかと疑い、その正否を生徒側の言い分を以って証明して初めて生徒に対する教育的配慮の視線を担保することができる。担保すること自体が児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守ることを第一意義とする役目行動とすることができる。
前任校長がこのような役目を自らの第一番の責任行動としていなかった以上、児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守る点であってはならない教師の体罰として扱ったのではなく、学校組織を守り、校長の責任を守る点であってはならない体罰として扱ったからこそ、顧問の聞き取りとその否定のみで判斷を下した、校長の責任回避行動であったはずだ。
大河内清輝くんのイジメ自殺事件でも、学校は彼の顔にアザがあるなどのイジメの状況を様々に把握していながら、本人に尋ねてイジメを否定すると、深くは追及せず、学校内設置の「いじめ・登校拒否対策委員会」で顔のアザなどを話題にしたものの、本人の否定を優先させてイジメか否かのレベルで議論せず、ついには自殺に追いやってしまった。
学校教育者でありながら、イジメられている子が自尊心やイジメている子からの報復を恐れてイジメを否定するという、ごく当たり前の心理さえ弁えることができないままに生徒に相対していた。
児童・生徒のあるべき生命(いのち)を育み、守るということを第一意義の役目としていたなら、弁えることができていた心理であったはずだ。
大津中2イジメ自殺事件でも、女子生徒等がイジメの現場を目撃して教師に報告しながら、本人がイジメではないと否定すると、そのまま放置し、遂には自殺に追いやることとなった。
教師たちは、校長をも含めて、自らの責任行動としなければならない、児童・生徒に対する第一意義の役目を知らず知らずのうちに希薄化させ、自身の経歴をキズつける責任問題の浮上だけを恐れて平穏無事に職を全うさせることを第一番の役目とする、触らぬ神に祟りなしの責任回避の行動を優先させていたのである。
一見すると、校長・教師たちの個々の行動には見えても、相互性を取ることによって、責任回避行動が暗黙的に組織全体の性格とすることになる。結果としてそれぞれの責任回避行動が組織を守る行動としての相互性をも帯びることになる。
その有効な手段が隠蔽という行為であり、イコール責任回避行動の組織全体に於ける蔓延ということであるはずだ。
文部科学省が1月8日(2013年)、小中高校、大学を「6・3・3・4」で区切る現行の学制改革に向け、児童生徒や保護者を対象にした全国アンケートを実施することを決めたという記事がある。《6・3・3改革で意識調査 「教育再生」たたき台に 文科省、来年度実施》(MSN産経/2013.1.9 08:12)
平成25年度予算の概算要求に必要経費を盛り込み、同年度内に実施すると書いている。
要するに児童生徒や保護者対象の全国アンケートを実施して、現在の「6・3・3・4」学区制の理想的改革の姿を模索しようということなのだろう。
予定質問項目は――
1.小1(6歳)から始まる義務教育の前倒し
2.小中高校の区切りの変更
3.早期卒業や飛び入学の是非
――などだそうだ。
調査は外部委託。項目の設定や対象人数などの具体的な調査方法は今後検討。予算規模は数千万円。
記事解説。〈自民党は衆院選の公約に学制改革を掲げており、政府が月内に設置する「教育再生実行会議」も議題に取り上げる見込み。アンケートの結果は議論のたたき台にする方針だ。〉――
アンケートの結果を議論の叩き台とするということは、公約に掲げた学制改革は中身は決まっていなかったことになる。
いわば中身を決めないままに、これから決める学制改革を、『63 激動の時代に対応する、新たな教育改革(平成の学制大改革)』と大々的に銘打って『J-ファイル2012 自民党総合政策集』に掲げた。
安倍晋三はなかなかの“心臓”だ。
但し『政策集』には学制改革については次のように断りを入れている。〈現行の6・3・3・4 制の是非について検討し、子どもの成長に応じた柔軟な教育システムとするため、新時代に対応した「平成の学制大改革」を行います。〉云々と。
『政策集』でも是非の検討を書いているのだから、何の齟齬もないが、是非の検討の前の段階にあるのだから、いわば是か非か不明の段階にあるのだから、「平成の学制大改革」と銘打つのは時期尚早であるはずだ。
その根拠の一つが、学校教育を暗記教育で放置したままでは、学制をいじっても大して意味はないからである。
MITメディアラボの石井裕氏が日経新聞のインタビューに答えて、「同質性が知の創造を阻む」と発言している。《日本の若者たちよ、慣れ親しんだ環境から世界へ出よう》(日経電子版/2013/1/9 6:30)
「同質性」とは暗記教育の成果であるはずだ。文部省の学習指導要領に忠実に従うことから、日本全国ほぼ同じ内容、同じ体裁を取った教科書を使い、教師が伝える教科書からの知識・情報を児童・生徒がほぼそのままに頭に暗記させていくのだから、否応もなしに頭から足の先まで同質性にどっぷりと浸ることになる。
同質性は教師が伝える知識・情報を児童・生徒が自ら考えて、自分自身の考えへと発展させる独自性とは正反対の極にある。
いわば独自性を排除することによって、同質性は成り立つ。
確かに日本の技術は凄い。だが、優れた技術を生み出す頭脳は日本の同質性教育からはみ出した頭脳であるはずである。独自性を排除し、同質性にまみれている頭脳からは新しい技術は生まれない。
問題は新興国の安価な人件費に対抗して人件費が高騰した成熟した経済社会・民主主義社会が経済の競争力をつけるにはホワイトカラーをも含めた一般労働者の生産性を上げることが重要なポイントとなると言われているが、暗記教育が成果とする同質性教育からでは目に見える生産性の向上は期待できない。
同質性教育に慣らされた同質的な集団形成は労働の現場で上の指示を一人ひとりが学校の教室でも同じ状況にあるのと同じで、その延長として、皆が皆、指示されたとおりに従って指示された通りの動きをすることには役立っても、そこには指示に従いつつ、それぞれが独自に考えて動き、それぞれの独自性の総合を集団的調和とする選択肢は存在しない。
同質性はあくまでも内側に向かう力の方向を取るが、独自性は良くても悪くても外に向かう力の方向を取る。外に向かう力の集団的調和こそがエネルギーが爆発する方向性を取り、生産性の向上を招き寄せるはずだ。
暗記教育=同質性教育に安住したままでは、児童・生徒それぞれの独自性を内包した教育の発展も知識の発展も望むことはできない。
当然、どのような学制改革であっても、「平成の学制大改革」と銘打とうが打たまいが、是非の検討を行おうが、行わまいが、学制をいじっただけで終わるに違いない。
安倍教育観でもう一つ問題なのは相変わらず国家主義の体裁を帯びていることである。
〈『J-ファイル2012 自民党総合政策集』
大学の9月入学を促進し、高校卒業から入学までのギャップターム(半年間)などを活用した大学生の体験活動(国とふるさと、環境を守る仕事、例えば、海外NGO、農業・福祉体験、自衛隊・消防団体験等)の必修化や、学生の体験活動の評価・単位化を行い、企業の採用プロセスに活用します。〉――
安倍晋三は2006年自由民主党総裁選挙で総裁に選ばれ、首相となったが、官房長官の時から大学9月入学、高校卒業後の4月から大学入学の9月までの5ヶ月間を「例えばボランティア活動やってもらうことも考えていい」と、奉仕活動の義務化を自身の教育政策の一つにしていた。
だが、国が上から押し付けることの反対意見が強く、また9月入学が決まっていなかったために立ち消えとなった。
それを再び持ち出して、体験活動の必修化の企みに変えた。
体験活動のする・しないはあくまでも個人の自由選択に任せるべき事柄であるはずである。それを国の制度で必修化という上からの強制的選択として、評価・単位化する。国家主義そのものの強制であろう。
暗記教育を栄養分として育った無考えの同質的行動を国家が制度で支配した場合、義務としやすく、「評価・単位化」がなおさらに義務化を促進することになるはずだ。
評価・単位を得るための義務として行なう体験活動化への道を進むだろうということである。
自らが考えて自らの自由選択で行なう、国の強制ではない主体的体験活動こそが外に向かう力の方向を取って、独自性ある創造性を広げていき、「知の創造」を育む一助ともなり得る。
日本の教育を暗記教育で放置しておくことも問題だが、安倍晋三のように国家主義の衣服を纏わせて上からの強制で教育を支配しようとする先走った衝動も、あまりにも単細胞・カラッポ頭としか評価しようがない。
第一次安倍内閣の教育政策と今回提示の教育政策が殆ど変わっていないことの参考までに――
2006年12月2日当ブログ記事――《教育再生会議/何が問題となっているのか(1) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
《教育再生会議/何が問題となっているのか(2) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》