日本の台湾統治時代のインフラ整備は台湾住民の幸福と利益が直接の目的ではなく、日本の国益獲得が主目的

2015-10-27 10:01:54 | 政治


 馬英九台湾総統が10月24日、国防部(国防省に相当)が新たに建設する軍事博物館の起工式で展示内容は軍事史だけでなく、「慰安婦など軍事に関連した迫害の史実」を加えたものとする意向を表明したと「産経ニュース」が伝えていたから、馬英九総統は日本に対して厳しい歴史認識で臨む姿勢を示したのかと思ったら、10月26日付「ロイター」が一方で台湾統治時代の日本の功績を認める姿勢を示したことを伝えた。

 《日本統治がもたらした恩恵も記憶を=台湾総統》2015年 10月 26日 14:11)

 10月25日の日本による台湾統治終了から70年を記念する今年の「光復節」での演説の中で述べたという。

 馬英九総統日本が統治時代に行った悪いことを忘れない一方、良いことを記憶するのも重要だ。日本の侵略により多くの命が奪われたことも、いわゆる「従軍慰安婦」などの問題が今日も大きな痛みをもたらしていることも事実である。

 (嘉南大シュウや烏山頭水庫など日本が監督した2つの水利事業を挙げて)日本の統治は台湾に建設事業をもたらした。これにより台湾の農家は恩恵を受けており、それは当然肯定すべきことだ。

 今後は双方が『恩と恨みを区別する』態度を持ち、議論していくことが必要だ」(下線箇所は解説文を会話体に直す)

 非常に公平な態度に見える。いや、多分、公平且つ合理的な歴史認識の持ち主なのだろう。

 《日本統治の功績》(桜の花出版)に次のような讃歌が刻まれている。   
 
 〈台湾には濁水渓という大きな川があります。この川は、濁った水と清水とが右左に分かれて流れ、どんなに嵐が来ても大水が来ても決して混ざり合わないのです。昔、老人たちはよく言っていたものです。濁水渓の水が澄んだら天下泰平になる、と。そして、その濁水渓の水が、日本軍が台湾を接収しに上陸した時、五日間だけ綺麗になったと伝えられていました。五日間澄んだので、人々は日本の統治はきっと五十年だろうと噂していました。

 日清戦争に勝利し清国から台湾を接収した日本は、新領土である台湾を素晴らしい島と思い、日本と同じ、いや、それ以上のものを台湾に作ろうとしたように思えます。台湾総督府は、「百年計画」という都市計画に則って台湾の産業や生活の基礎を築いていきました。

 それがどれほど優れているものだったかという証拠に、現在の台湾の都市計画は、日本時代の都市計画に基づいているのです。台北を走るMRT(地下鉄)や、上下水道、台湾の南北を繋ぐ縦貫鉄道や縦貫道路、等々全てです。

 それらの中には戦後に台湾に来た中国人が作ったと言われているものもありますが、それは間違いです。全部日本人が設計して作ったものです。鉄道の台南駅、新竹駅、台中駅、高雄駅などはどれも芸術的にも優れています。高雄駅などはまるでお城のように立派に建てられ、あまりに素晴らしいので、狭くなって建て替えた時も、壊すにはもったいなくて、下から掘り起こして移築したほどでした。

 また、日本人は教育にも力を入れていて、新しい土地に行くと必ず学校を作りました。台湾でも大学から中学校(現在の中学と高等学校を合わせたものに相当)、小学校、幼稚園まで作り、しかも、当時の日本よりも立派な建物でした。台湾大学も東大をモデルに作られています。〉・・・・・・・

 1895年(明治28年)4月17日、日清戦争の結果下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲されて日本の国土となったものの、日本人ではない台湾住民を台湾住民ではない日本人が統治するのだから、植民地以外の何ものでもなく、台湾の開発、産業振興や教育振興は日本の国益獲得を主体とした台湾のそれらであって、台湾住民自体の幸福と利益を目的とはしていない。

 具体的にはインフラ開発や産業振興・農業振興は日本国家に利益をもたらすことを目的とし、教育振興は開発や振興に役立たせる知識が必要だったからである。

 但しいくら教育振興に貢献したと言っても、台湾住民の教育機会は日本本土の日本人の教育機会を上回ることはなかったはずだ。上回ったとしたら、奇妙な事態となる。

 戦前の日本人の教育機会を見てみる。《日本の学校制度 ~小学校を卒業したら…~》

 先ず参考までに記すと、尋常小学校は数え年6歳から10歳までの義務教育4年間。高等小学校数え年10歳から14歳までの4年間の非義務教育。昭和16年の学制改革によって尋常小学校は国民学校と名を変え、数え年6歳からの国民学校初等科1年から12歳の国民学校初等科6年まで6年間義務教育、12歳から14歳まで国民学校高等科1年から2年間の非義務教育が行われていた。

 〈複雑ながらも多様な学校の存在した戦前の学校制度ですが、当時、ほとんどの人々は義務教育課程の尋常小学校か、高等小学校が最終学歴(中途退学者も多く含みます)でした。中学や高等女学校など中等教育機関を卒業した人々はおよそ10人に1人か2人程度に過ぎません。そのわずかな卒業生のうち、さらに高等学校を卒業した人となると、ほんの一握りです。
 時代の推移とともに高等学校の数も増加しますが、戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1パーセントを越えることはありませんでした。また、基本的に上級学校への進学機会が閉ざされていたため、高等学校や大学で学んだ女性は極めて希なケースとして存在するのみです。〉――

 昭和16年で見ても、義務教育が6歳から12歳までの国民学校初等科6年間が義務教育期間で、12歳から14歳までの国民学校高等科の2年間は非義務教育機関ということなら、「職人の子は職人の子、学問は必要ない」とする一般的風潮が強かった時代であり、その風潮は戦後も暫く続いていたことを考え併せると、国民学校の6年間で終了した生徒が多かったと見ていいはずだ。

 そういった傾向を受けた〈戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1パーセントを越えることはありませんでした。〉、その他の傾向であろう。

 要するに当時機械化されていない手作業中心の農業や末端の工場労働者、あるいは職人等の下級労働者として必要な知識を植え付ける教育を主体としていた。

 植民地下の台湾に於いても推して知るべしである。あくまでも日本の国益を計算して行った開発、産業振興・農業振興であって、台湾が生み出す農産物や工業製品を台湾住民への直接的恩恵に結びつけることを目的としたのではなく、日本の利益に還元することを目的としていたはずだ。

 このことは次のネット記事が証明する。《毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」 日本にとって植民地とは何であったか》 

 〈台湾では、米作と砂糖業が順調に成長した。朝鮮でも、台湾ほどではないが、米作が一定の伸びを示した。これらの米や砂糖は、日本本土に輸出された。1930年代後半には、本土の砂糖輸入の9割以上が台湾からであり、米の輸入の殆ど全部が朝鮮と台湾からであった。しかし朝鮮人と台湾人の食糧事情は、悪化していった。一人当たり産米消費量(年平均)は、朝鮮人の場合、1911~12年に100キログラム、1937~38年に75キログラムまでと減り、台湾の場合でも同じ時期に、130キログラムから100キログラムに減少している。

 不足分は、台湾ではいも類、朝鮮では粟・麦などで補った。台湾でも、台湾人用の外米を輸入したし、朝鮮は外米と粟などの雑穀を輸入した。農業振興によって、米の生産が増えたが、現地の人びとの食べる米は減っていた。食糧生産は増えたが、しかし食物は減った。土地所有でも、次第に日本人地主が増えていた。 〉・・・・・

 日本国内でも1937年(昭和12年)に始まった日中戦争の決定打のない一進一退の膠着状態が兵員の増強を必要としたこと、関係悪化した対米戦争に備えた兵器増産に偏った軍備増強が軍需工場要員を必要としたことなどから、兵士及び工場労働者の一大供給地の農村が人手不足と資材不足に陥って米の生産量が需要を大幅に下回り、その補充に朝鮮と台湾から米を移入しているが、それでも追いつかずに日本人の主食たる米は昭和14年秋から地域を限って、昭和16年4月からは六大都市を対象に麦まで加えて本格的配給割当制が実施されていたのである。

 台湾や朝鮮半島の住民が十分に食べることができる食糧などあろうはずはない。あれば搾取されて、内地の日本人や外地の日本兵の食糧として送られていただろう。

 「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ!」のモノ不足は、日本のモノの供給基地であった台湾や朝鮮からの提供があっても、解消不可能の状態に陥っていた。

 にも関わらず、日本は1941年(昭和16年)12月12日に対米戦争を開始している。

 こういったことのための、あるいは既に触れたように日本の国益獲得を主目的とした「嘉南大シュウや烏山頭水庫など日本が監督した2つの水利事業」に過ぎない。

 それを馬英九台湾総統は「日本の統治は台湾に建設事業をもたらした。これにより台湾の農家は恩恵を受けており、それは当然肯定すべきことだ」と、まるで日本の統治が台湾の住民自体の幸福と利益を目的としていたかのように言う。

 外国人に征服された国がその住民の多くを奴隷として連れて行かれ、征服した国で宮殿か教会等の巨大な建築物の建築に満足な食事も与えられずに従事させられ、それが時代が下がるに連れて優れた建築物として世界的に有名となっていき、世界各国から大勢の観光客が訪れて、その国のバカにならない収入源の一つとなって、かつて征服された歴史を抱えている国の今のリーダーが、あの建築物は我々祖先が建築したのだと誇るようなこととほぼ同じことを馬英九総統は言っているようなものである。

 安倍晋三も似たところがあるが、なぜこうも一国のリーダーは単細胞にできているのだろうかと思う。


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