安倍晋三の憲法改正意思は国民が望んでいない戦争する自衛隊を前提としたその明記であり、平和主義堅持はデタラメ

2020-01-06 10:50:06 | 政治
 安倍晋三の2020年1月1日年頭所感(一部抜粋)

 「未来をしっかりと見据えながら、この国のかたちに関わる大きな改革を進めていく。その先にあるのが、憲法改正です。令和2年の年頭に当たり、新しい時代の国づくりへの決意を新たにしています」――

  2019年1月4日安倍晋三年頭記者会見(一部抜粋)

 東京新聞記者島袋良太「総理は憲法改正について2020年の改正憲法の施行を目指す考えを示しておられますが、2019年は改憲に向けて、どのように取り組まれるか、教えてください」

 安倍晋三「憲法についてでありますが、憲法は国の未来、そして国の理想を語るものでもあります。本年は皇位継承が行われ、我が国で初のG20サミットが開催され、世界中の首脳が日本に集まります。

 そして、ラグビーのワールドカップ、2020年には東京オリンピック・パラリンピック、新しい時代の幕開けに当たり、私たちはどのような国づくりを進めていくのか。この国の未来像について議論を深めるべきときに来ていると思います。

 憲法改正について、最終的に決めるのは主権者たる国民の皆様であります。だからこそ、まずは具体的な改正案を示して、国会で活発な議論を通じ、国民的な議論や理解を深める努力を重ねていくことによって、また、重ねていくことが選挙で負託を受けた私たち国会議員の責務であろうと考えています。

 国会において活発な議論がなされ、与党、野党といった政治的な立場を超え、できる限り広範な合意が得られることを期待しています」――

 憲法は理想とする国の在り方(国民にとって当然そうでなくてはならないという国の状態)を規定しているが、国の在り方には、当然、理想とする国家権力の在り方に対する規定も含んでいることになるし、理想とする国民生活の在り方、国民一人ひとりの個人としての理想とする在り方に対する規定も含んでいることになる。いわば憲法は理想とするそれぞれの在り方に反してはならないという規定でもある。

 ゆえに国家権力も憲法に縛られるし、国民も縛られることになる。憲法改正は改正内容に応じて国家権力を新たに縛り、国民を縛る規定となる。縛った結果としての、その程度に応じて、新たな国の在り方へとバトンタッチされる。安倍晋三が言っている「新しい時代の国づくり」がそれである。

 安倍晋三の憲法改正意欲は突出している。「憲法改正について、最終的に決めるのは主権者たる国民の皆様であります」を常套句としていて、政治が決めるわけではない、政治がすることは決める元となる改正案を示して、国民が理解し、その判断材料となるよう国会で活発な議論をするよう促すことだとし、改正することに正当性を与えている。

 だが、9条に関して言うと、国民の間から9条のこの箇所が理想とする在り方と時代的にズレてきたから、改正すべきだとの機運が高まってきて、政治がそれを受け止めて改正の動きに出ているわけではない。安倍晋三という国家権力を率いる者が自らの理想とする9条の在り方、国家の在り方ともなるが、を提示して、選挙で獲得した国会での頭数と与党自民党と公明党、憲法改正を掲げている野党に投票した国民の数に恃んで改正発議と国民投票での投票総数2分の1以上の賛成獲得、改正成立を狙っている。

 このように国民の間から改正機運が高まってきたのではなく、国家権力そのものの安倍晋三自らが改正機運を意図的につくり出していることから、国民から見て9条改正が理想とする国家の在り方を新たに規定することにはならずに、安倍晋三という国家権力から見て理想とする国家の在り方を規定する改正となる危険性を抱き合わせかねない。

 では、安倍晋三はどのような憲法改正を狙っているのかをみてみる。

 2017年5月3日開催「第19回公開憲法フォーラム」にビデオメッセージ日経電子版/2017/5/3 15:19)を送っている。一部抜粋

 安倍晋三「憲法改正は、自由民主党の立党以来の党是です。自民党結党者の悲願であり、歴代の総裁が受け継いでまいりました。私が首相・総裁であった10年前、施行60年の年に国民投票法が成立し、改正に向けての一歩を踏み出すことができましたが、憲法はたった1字も変わることなく、施行70年の節目を迎えるに至りました。

 憲法を改正するか否かは、最終的には国民投票によって、国民が決めるものですが、その発議は国会にしかできません。私たち国会議員は、その大きな責任をかみしめるべきであると思います。

 次なる70年に向かって、日本がどういう国を目指すのか。今を生きる私たちは、少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化など、我が国が直面する困難な課題に対し、真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。

 憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです。私たち国会議員は、この国の未来像について、憲法改正の発議案を国民に提示するための「具体的な議論」を始めなければならない、その時期にきていると思います。

 わが党、自由民主党は未来に、国民に責任を持つ政党として、憲法審査会における『具体的な議論』をリードし、その歴史的使命を果たしてまいりたいと思います。

 例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。

 私は少なくとも、私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません。そこで『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは国民的な議論に値するのだろうと思います」

 安倍晋三は「少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化」等の日本が「直面する困難な課題」を挙げて、その克服法として憲法改正の必要性を訴えているかのように見せかけているが、改正の要点を隠すわけにはいかないから、最後には「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」との物言いで自衛隊合憲の証文を9条に書き込むことを明らかにしている。

 一方で「9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません」と誓っているが、国民の方から望んだのではなく、安倍晋三自身が望んで仕掛けている改憲意思からすると、国民が日本国憲法に抱いている平和主義が安倍晋三が抱いている国家権力に即した平和主義へと変質、国民がいつしかそのことに慣らされていく経緯を踏まない保証はない。

 このことは「憲法改正は、自由民主党の立党以来の党是です。自民党結党者の悲願であり、歴代の総裁が受け継いでまいりました」と言っていることに対して2012年4月27日に自民党当時の総裁谷垣禎一が発表した「自民党憲法改正草案」と安倍晋三の自衛隊合憲証文の9条書き込みまでの移り変わりから窺うことができる。文飾は当方。

 日本国憲法現行9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」を、改正9条では、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」というふうに、「永久に放棄する」から単に「用いない」に変わっている。

 そして現行第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が改正草案では「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」に変えていて、「自衛権の発動」の際は「武力による威嚇又は武力の行使」を用いることができるとしていることになる。

 そして自民党新憲法草案は9条の2を新設、5項まで設けて、「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と国防軍の創設とその行動規定を定めている。

 対して安倍晋三の改正案は上記自民党改正案をさらに改正させたものではなく、安倍晋三自身が唱えて、自民党が従った改正案となっている。2017年5月3日の「第19回公開憲法フォーラム」で提案したように「自民党憲法改正草案」とは違って、9条1項と2項をそのまま残した上で現行憲法にはない、自民党新憲法草案と同じように「第9条の2」を設けて、その1項で、「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」と自衛隊の保持を謳い、第2項で、「自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」とその行動を規定している。

 日本が既に保持している自衛隊を改正した憲法でその保持を謳う。この矛盾は安倍晋三の中では矛盾していない。自衛隊合憲の証文を是が非でも獲ち取りたいと願っているからだ。このことは安倍晋三がこれまでに明らかにしてきた憲法改正意思が証明する。

 そして安倍晋三が自衛隊合憲の証文を必要としている理由は上記憲法フォーラムに向けたビデオメッセージで述べている次の発言から窺い得る。

 「例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任で」、「私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである」

 要するに憲法学者や一部政党の「自衛隊を違憲とする議論」――自衛隊違憲論を封じ込める必要性からの自衛隊合憲の証文の9条への書き込みである。

 だが、安倍晋三のこの立派な決意には別の矛盾が潜んでいる。自衛隊を戦争主体と見た場合は、「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」の「何かあれば」の「何か」とは戦争、あるいは武力紛争ということになり、安倍晋三が「9条1項、2項を残し」た場合は現行憲法の9条1項、2項で謳っている戦争放棄と武力の不行使、交戦権の否認をそのまま生かすことになって、その条文に抵触することになる。

 大体が武器を持っていること自体が自衛隊が戦争主体であることの証明であり、違憲だ、合憲だと議論することも、自衛隊が戦争主体であることを前提としているからこそであろう。

 自衛隊を災害救助主体と見ると、「何かあれば」の「何か」は災害ということになって、憲法違反の問題は生じないが、9条に明記する意味を失う。逆に自衛隊を戦争主体視しているからこそ、9条への明記を必要とすることになっている。
 少なくとも安倍晋三が「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである」と言っていることは自衛隊を、勿論、災害が発生した場合には災害救助に派遣するだろうが、一次的には戦争主体と見ていて、災害救助主体であることは二次的な役割と見ていることになる。

 自衛隊を主として戦争主体と見ているからこそ、違憲とされることに拒否反応を持ち、結果的に戦争や武力紛争を暗に想定した安倍晋三の改憲意思となっているのであって、そのような改憲意思だからこそ、9条の2の1項を自衛隊合憲の証文とすることに向かわせることになっている。

 こういった点にこそ、国民が現憲法に見ている平和主義と安倍晋三が見ている平和主義とは大きな違いがあって、その違いが国家権力に即した平和主義へと変質することになりかねない懸念となって跳ね返ってくる。

 安倍晋三が自衛隊を戦争主体視していることと、その平和主義がどのような質を抱えているのかは2004年1月27日発売の安倍晋三と元外交官岡崎久彦(2014年10月26日死亡)の対談集『この国を守る決意』でのネット上に流布している発言からも窺うことができる。

 安倍晋三「言うまでもなく、軍事同盟というのは“血の同盟”です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし、今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです。実際にそういう事態になる可能性は極めて小さいのですが、しかし完全なイコールパートナーと言えるでしょうか。日米安保をより持続可能なものとし、双務性を高めるということは、具体的には集団的自衛権の問題だと思います」

 アメリカ軍が血を流した場合は自衛隊も血を流す「双務性」を求めている。かくこのように自衛隊を戦争主体視している上にこのような“血の同盟”に基づいた平和主義を自らの思想としている。

 国民の平和主義は世論調査から見ることができる。〈「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」の概要〉(2015年3月・内閣府政府広報室)

 調査時期2015年1月8日~1月18日(調査員による個別面接聴取)

4 自衛隊の役割と活動に対する意識

(1)自衛隊が存在する目的
 問4 自衛隊には各種の任務や仕事が与えられていますが,あなたは自衛隊が存在する目的は何だと思いますか。この中からいくつでもあげてください。(複数回答)
(上位4項目)

                                     2012年1月→ 平成27年1月
・災害派遣(災害の時の救援活動や緊急の患者輸送など)             82.9% →  81.9%
・国の安全の確保(周辺海空域における安全確保,島嶼部に対する攻撃への対応等)  ※    → 74.3%
・国内の治安維持                               47.9%  → 52.8%
・国際平和協力活動への取組(国連PKOや国際緊急援助活動など)        48.8%  → 42.1%

 調査時期2015年1月8日~1月18日は憲法解釈によって集団的自衛権行使容認と海外派遣を可能とする「自衛の措置としての武力の行使の新3要件」を閣議決定した2014年7月1日から5ヶ月余となっている。当然、戦争する自衛隊、戦争主体視した自衛隊への関心が高まっていていいはずだが、国の安全の確保74.3%に対して災害派遣が1位の81.9%を占めていて、明らかに災害救助主体と見る向きがより多数を占めていて、国民の平和主義の一端と安倍晋三の平和主義との大きな違いを窺うことができる。

 同じく自衛隊の活動に対して国民の意識を尋ねた2017年3月15日に調査票を郵送して4月24日までに届いた返送総数2077通・有効回答2020通となった2017年5月2日付の「朝日新聞世論調査」を見てみる。

 「自衛隊が海外で活動してよいと思うことに、いくつでもマルをつけてください」

 災害にあった国の人を救助する92%
 危険な目にあっている日本人を移送する77%
 国連の平和維持活動に参加する62%
 重要な海上交通路で機雷を除去する39%
 国連職員や他国軍の兵士らが武装勢力に襲われた際、武器を使って助ける18%
 アメリカ軍に武器や燃料などを補給する15%
 アメリカ軍と一緒に前線で戦う4%(以上)

 戦争する自衛隊と見ることになる「アメリカ軍と一緒に前線で戦う」は僅かに4%、対して災害救助する自衛隊と見ることになる、日本も含むはずである「災害にあった国の人を救助する」が92%も占めていて、上記内閣府調査よりも国民の平和主義がどこにあるかを色濃く物語っている。

 同調査の憲法に対する問を見てみる。

「憲法第9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」

 変えるほうがよい29%
 変えないほうがよい63%――

 他の世論調査でも、安倍内閣に求める政策の優先度で憲法改正は殆どが最下位を占めている。

 やはり自衛隊を災害救助主体と見る国民の割合が多数を占めていて、その割合がそのまま平和主義の質を決めることになっている。その平和主義の質は改憲意思に反映、その程度を現すことになる。

 安倍政権は2019年12月27日に中東海域で航行する日本関係船舶の安全確保のための情報収集を目的として海上自衛隊の護衛艦と哨戒機を派遣することを閣議決定したが、そのことに対する世論調査は賛成・反対いずれかが僅差で上回っているが、あくまでも目的が情報収集であって、不測の事態が発生して武器を使うことになる紛争に発展した場合、国民の平和主義から類推するに派遣中止の世論が湧き上がって然るべきであろう。

 当然、上記「第19回公開憲法フォーラム」で発言している、「例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています」はどちらかと言うと災害救助する自衛隊に対する信頼であって、戦争する自衛隊に対してではないことになる。

 かくまでも安倍晋三の自衛隊を戦争主体視した憲法改正意思とその平和主義の質が違いながら、「憲法改正について、最終的に決めるのは主権者たる国民の皆様であります」と、最終決定者を国民だとすることで改正の正当性を振り撒く一種のペテンに勤しんでいる。

 安倍晋三が自衛隊に対する国民の信頼は9割を超えているものの、「多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています」と言い、自身やその一派の自衛隊合憲の根拠は「憲法の番人は最高裁である」ことを理由にして砂川事件最高裁判決に置いている。

 2015年6月1日の衆議院憲法審査会。

 高村正彦「現在国会で審議をしている平和安全法制の中に集団的自衛権の行使容認というものがありますが、これについて憲法違反である、立憲主義に反するという主張があります。これに対して、昭和34年のいわゆる砂川判決で示された法理を踏まえながら、私の考え方を申し述べたいと思います。

 憲法の番人である最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であります。言いかえれば、この法理を超えた解釈はできないということであります。

 砂川判決は、憲法前文の平和的生存権を引いた上で『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない』と言っております。

 しかも、必要な自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしておりません。ここが大きなポイントであります。個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていないわけであります。

 当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったと主張する方もいます。しかし、判決の中で、国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べていますので、この主張ははっきり誤りであります。

 そして、その上で、砂川判決は、我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲無効でない限り、内閣及び国会の判断に従う、こうはっきり言っているわけであります」――

 2015年6月26日の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する衆議院特別委員」

安倍晋三「平和安全法制について、憲法との関係では、昭和47年の政府見解で示した憲法解釈の基本的論理は変わっていないわけであります。これは、砂川事件に関する最高裁判決の考え方と軌を一にするものであります。
そこで、砂川判決とは何かということであります。この砂川判決とは『我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない』、つまり、明確に、必要な自衛の措置、自衛権について、これは合憲であるということを認めた、いわば憲法の番人としての最高裁の判断であります」――

 憲法の番人である砂川事件最高裁が下した自衛隊合憲説の判決だと、水戸黄門の葵の印籠並みのオールマイティを与えている。

 砂川事件は1957年のアメリカ軍の立川基地拡張に対する反対運動が旧日米安保条約に基づいたアメリカ軍の日本駐留が違憲であるか、合憲であるかのが憲法判断に発展したもので、高村正彦は最高裁判決を自分に都合のように色々と解釈を施しているが、判決文から自衛隊が合憲か違憲かに関してのみ取り上げてみると、どこにも合憲であるとも、合憲であると解釈させる文言も見つけることはできない。

 砂川最高裁判決が自衛隊をどのように憲法解釈しているか、その箇所を見てみる。文飾当方。

 「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである

 要するに日本国憲法第9条2項が「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指」すと、自衛隊を指して日本国憲法が保持を禁止している違憲の戦力であると判断している。

 但し「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」との表現で日本駐留のアメリカ軍は日本国憲法第9条2項に言う「戦力には該当しない」とし、さらに他の判断も加えて、アメリカ軍の日本駐留は日本国憲法に違反していない、合憲であると判決している。

 高村正彦が都合の良い解釈をしている一例を挙げてみる。

 高村正彦「当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったと主張する方もいます。しかし、判決の中で、国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べていますので、この主張ははっきり誤りであります」

 集団的自衛権に関する砂川事件最高裁の判断は、アメリカ軍の日本駐留を合憲とする解釈とも重なるが、次のとおりである。

 「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、(サンフランシスコ)平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。」

 「(サンフランシスコ)平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認してい」たとしても、日本国憲法は第9条1項、2項でそれらの権利の承認を認めない構造を取っている。いわばそれらの権利に制約を加える役目を果たしていたのであって、「国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えている」などと砂川最高裁判決のどこにも述べてなどいない。

 当然、安倍晋三の「砂川判決とは『我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない』、つまり、明確に、必要な自衛の措置、自衛権について、これは合憲であるということを認めた、いわば憲法の番人としての最高裁の判断であります」にしても自己都合主義に彩った砂川判決解釈そのものであり、自己都合一色の自衛隊合憲説に過ぎない。

 憲法の番人として砂川最高裁判決に従うと、自衛隊は戦争主体としては実際は違憲ではあるが、市民権を既に獲得しているために違憲には見えないだけの話に過ぎないということになる。
 
 「多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています」と、さも自衛隊違憲論は間違っているかのような言説もデタラメなら、国民が望んでもいない、自衛隊を戦争主体視した憲法改正意思なのだから、「9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません」にしてもデタラメとなる。

 結局のところ、9条の2を設けて自衛隊を明文化することに成功すれば、自衛隊が憲法違反だと誰もが言うことができない状態にすることができて、例え9条1項と2項を手つかずにしておいて対置させたとしても、新安保法制で如何ようにも自衛隊を駆使できる、そのことが狙いの日本国憲法への自衛隊明記であろう。

 何もかもデタラメである。デタラメは安倍晋三の得意技である。

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