町村信孝「教育問題で少し質問させて頂き ます。教育は今、そんなに緊急な課題かと言われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私共自由民主党にとって教育問題は常に最重要課題だと、こう私は思い、今日までずっと教育問題に取り組んで参りました。
自民党「修身」的線上の道徳のススメ『心のノート』変じて『わたしたちの道徳』へ全面改訂、第2次安倍内閣下でこれを教科書に道徳教育の教科化を目指し、児童・生徒に徹底的に植え付けようとしている。
『わたしたちの道徳』をほんの少し覗いてみたが、人間知らずの人間に育てようという魂胆しか見えてこない。
なぜなら、道徳は子どもたちの日々の行動の中で問題となる行動を捉えて、親や教師が子どもとどう行動すべきかを議論しながら問題提起すべきもので、そうすることの積み重ねによって問題となった自分の行動を通して自分を含めた人間という生き物を考える力や批判する力が身につくのであって、問題となる日々の行動のない教室という場所で様々な行動を材料に問題提起したとしても、問題行動という切迫感がないために知識のための道徳の役には立っても、人間を知る考える力や批判精神は育たない恐れが出るからである。
人間が現実生活に於ける対人関係の中での衝突や軋轢、協力行動、離反等によってあるべき行動をよりよく学ぶことも、教室での道徳教育の限界を知らしめ得るはずだ。
このことの一つの例として、一度結婚に失敗した人間が結婚について色々と学んで、二度目の結婚がうまくいくことを挙げることができる。
尤も、学びきれない人間も存在するが。
親や教師は日本人の行動様式である権威主義性から子どもの問題行動を、「バカッ」、とか「いい加減にしろ」とか頭から抑えることは知っていても、なぜしてはならないのかといった議論しながら問題提起することに不得手で、子どもは学校教育で学力は身についても、考える力は身につかないということになる。それがコミュニケーション不足とか言語能力不足となって現れることになる。
そして子どもが怒鳴ることでその行動を抑制しきれない年齢に成長すると、親も教師も自らの無力を思い知って放任主義に走る。親・教師――いわば大人たちの殆ど多くが子どもの行動秩序は運良く考える力、批判精神が身についた偶然に頼るしかない。
いつかは『心のノート』を取り上げてブログを書こうと思っているが、延び延びになっている。中身も満足に読んでもいない。この先も延び延びになるかもしれないが、書くつもりで、以前エントリーした関連記事を覗いていたら、2012年の自民党総裁選公開討論での安倍晋三の「改正教育基本法」についての発言が児童・生徒の批判精神涵養の視点を欠いていることに気づいて批判した、2012年9月23日の記事に出会った。
道徳教育にしても考える力・批判精神を涵養する教育でなければならないから、少しは参考になるかもしれないと考えて、参考のために再掲載することにした。
《安倍晋三首相では日本の教育が危なくなる/愛国心教育よりも批判精神涵養教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》
9月15日(2012年)日本記者クラブ主催自民党総裁選候補者公開討論会で、候補者から候補者へテーマ自由・質問対象者自由で質疑する形式のコーナーが設けられていた。
その中で外務大臣や文部大臣、そして文部科学大臣を歴任した町村信孝が元首相の安倍晋三に対して教育委員会制度をどう扱うのか質問した。
安倍の答弁から窺うことができるその教育観を、「安倍晋三首相では日本の教育が危なくなる」をテーマにして取り上げてみたいと思う。
ちゃんとした成果を上げられたかどうか、非常に反省することも多々あります。
そういう中で安倍内閣のときに教育基本法を戦後始めて改正し、あと残る法律は憲法だけというところまで来ているわけですが、これは安倍内閣の功績であり、私も長年、初当選以来、この教育基本法の改正に携わって参りました。非常に良かったと思っています。
で、この具体化するという中で、昨今、維新の関係でですね、安倍さんは『維新の教育方針いいんじゃないか』というふうに非常に肯定的な発言をされていらっしゃる。
確かに教職員組合のあまりにも横暴な政治活動の横行。こういうのは真(まこと)によろしくないし、基本法の精神に反していると思いますが、他方、教育委員会の廃止とまで言ってます。
ま、是非の両論はあると思いますが、私は政治的中立性を担保するという意味で、教育委員会の運用は直すけれども、制度としてはいいんじゃないかと思います。
そういう意味で、維新の政策が全ていいとは思いませんが、安倍さんの教育問題についてのお考えを聞かせて貰えればいいと思います」
安倍晋三「ありがとうございます。改正した教育基本法は全面的な書換えでした。この原案については町村先生も原案づくりに参加をしていただいたと思っております。新しい教育基本法には教育の目標をくっきりと書いたんです。
道徳心を培う。公共の精神。日本の伝統と文化を尊重する。郷土愛。そして愛国心。
また第一意義的には家庭が教育の責任を持ってということを書き込んでいきました。
これに則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした。
ま、しかし、教育委員会によってこの教科書採択が決定されますが、この教育委員会は常勤の方々によって構成されているわけではありません。なる程立派な方が多いんですが、しかし常勤でない方が大変な仕事を背負ってるがため、事実上教育長・事務局が用意する資料によって色々なことが決まっていることも事実です。
学校でいじめの問題がありましたね。では、あれは現場なのか、首長(くびちょう)なのか、教育委員会なのか。
教育委員会、やっぱり責任が大きんです。そこで今自由民主党でつくっている原案の一つとしては、教育委員会をなくすということではなくて、教育委員会は諮問機関にしましょう。そして責任者はやっぱり教育長ですね。
教育長は首長が指名します。首長は選挙に於いて、こういう教育をやっていくということを市民に約束をし、そして教育長を通じ、諮問機関の教育委員会と相談しながら実行していく。
責任が明確となり民意との関係もはっきりとしていくんではないかなあと、このように思います」
町村信孝は安倍晋三が考える教育委員会制度の今後の在り様を聞いた。対して教育委員会は廃止するのではなく、諮問委員会に制度替えすると、たったそれだけの主張を相手に伝えるために聞かれもしない改正教育基本法のことまで交えて長々と話しているばかりか、前段の主張が尻切れトンボとなっていて、どこかに消えてしまう論理の“混線”を演じている。
要するに論理的な思考能力が欠如しているから、こういった“混線”が生じるのだろう。
一般的に教育委員会制度は医師とか弁護士等の教育の専門家ではない非常勤の委員が詰めていて、実質的な権限は実務権限者である教育長に丸投げする形式的制度となっている、形骸化していると言われているが、ここではこのことは扱わない。
あくまでも安倍晋三の教育問題に関わる発言から見た論理的思考力を問うつもりでいるから、尻切れトンボとなった改正教育基本法に関する言及を取り上げることにする。
改正教育基本法成立に「則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした」と、何を血迷ったのか、恰も学習指導要領もできず、教科書に登場しなかったかのように言っているが、文部科学相諮問機関「中央教育審議会」が既に03年3月答申で、「現在の教育の危機的状況を打破するには具体的な改革が必要」と基本法改正に言及、「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心を育てる」ことを掲げ、学校教育法や学習指導要領などにも改正の趣旨を反映させることを求めている。(朝日新聞コトバンクから)
要するに03年3月答申を受けた安倍改正教育基本法であって、安倍関連の発想ではない。
教育現場では06年12月に教育基本法が全面的に改正される半年前の06年6月時点で既に愛国心教育が行われていて、06年6月10日朝日新聞記事――《通知表に「愛国心」190校》は既にそのことに触れている。
「愛国心」が小6もしくは小5の社会科の『関心・意欲・態度』についての評価項目に盛り込まれていて授業が行われていたとしている。
その典型として記事は〈「我が国の歴史や政治、国際社会における役割に関心を持ち、意欲的に調べることを通して、国を愛する心情や 世界の人々と生きていくことが大切であるということの自覚を持とうとする」〉という、茨城県龍ヶ崎市の基本目標を取り上げている。
改正教育基本法が成立する以前に既に愛国心授業が行われていた以上、改正に添って学習指導要領が一部改定、あるいは改訂されないはずはなく、当然、教科書会社は学習指導要領の変化を教科書に反映しないはずはない。
教科書に反映されれば、当たり前のこととして授業で教えることになる。
だが、改正教育基本法成立に「則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした」などと、学校教育に導入されなかったが如くに言う。
この論理的思考能力の愚鈍さは如何ともし難い。
そもそもからして改正教育基本法に、道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養を「くっきりと」目標としたと言うなら、「政治は結果責任」である以上、その効果を語るべきだが、一言も語らず終いであることも、論理的思考能力の愚鈍さの証明としかならない。
尤も効果があったりしたら困る。
教育の目標が例え道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養であったとしても、その欠如が昨今盛んに言われている基本的能力としての考える力――思考能力を備えていなければ、知識・情報の単なる無条件・無考えの機械的な受容となって、植え付けられた同じ知識・情報を持つ人間ばかりとなる危険性を抱えることになる。
国家が「勝つまでは欲しがりません」、それが愛国者だと言い出すと、右へ倣えで、「勝つまでは欲しがりません」と唱える、あるいはそう思い込む、戦前存在したような、そういった人間ばかりとなる。
考える力――思考能力を備えて初めて、批判精神を対応させることになる。愛国心教育を受けても、その知識・情報を機械的に丸呑みするのではなく、自分なりの批判精神に照らして、正しい愛国心なのか間違った愛国心なのかを問うことになる。
あるいは愛国心発揮の対象としての国の姿を問うことになる。
国の姿とは政治の姿であり、時の体制の姿である。自民党政治の日本は愛することができないと言う国民もいるだろうし、逆に民主党政治の日本は愛することができないと言う国民もいるはずである。
また、郷土の風土や人間性を愛することができない国民もいるはずである。
いわば頭から一緒くたに「国を愛せ」、「郷土を愛せ」と強要することはできない。それぞれが考えて決めるべき事柄であるはずである。
その国の歴史に於いても、現在の国家の状態に於いても、負の面もあれば、正の面もある。国を愛せと言われて、ハイ、愛しますと無条 件・無考えには決して言えない様相を国家は常に抱えている。
それを無視して、頭から一律的に愛せと言われて、ハイ、愛しますと言うことの方が遥かに危険である。歴史でも文化でも、伝統でも、 国家体制であっても、批判べき点は批判し、矛盾や負の面を正して、よりよい状況、よりよい発展を模索する戦いが必要である。
当然、道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養を教育の第一義的目標とするのではなく、先ずは考える力――思考能力の涵養を第一義的目標としなければならないはずだ。
だが、論理的思考能力を欠いているためだろう、安倍晋三はこのことに気づかない。
安倍著『この国を守る決意』には、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちませ ん。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」の一節があるそうだ。
この一節に安倍晋三の愛国心思想が凝縮されているに違いない。
直接読んではいないが、この言葉の意味するところは国民による国家に対する一方的な無償の奉仕要求である。
「投げうつ」という言葉そのものが無償の奉仕要求を含んでいる。
【投げ打つ】「投げ捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない」(『大辞林』三省 堂)
なぜ一方的な無償の奉仕要求になるのかと言うと、自分たちが考えている国家を絶対としているからだろう。絶対としていなければ、無償の奉仕要求は成り立たない。
当然、安倍晋三等、同根の国家主義者たちは「国家」と言うとき、常に国の姿を問わない文脈となる。
戦前の日本の国の姿を問うことをしたなら、そこに絶対は存在しないことに気づいて、国の姿を問う姿勢を持つようになるはずだが、気づかず、そういった姿勢を持たないままに推移しているのは安倍晋三ならではの優れた資質なのだろう。
国の姿を問わないままに自分たちが考えている国家を絶対とし、国民に一方的に国に対する無償の奉仕要求をする愛国心教育は児童・生徒の批判精神を介在させない、国の側から言うと、批判精神を障害物とする無条件・無考えの受容が必要となる。
考える力、思考能力、批判精神を養わない教育とはどのような教育なのだろう。
このことを取り上げただけでも、安倍晋三が首相になり、安倍晋三流の愛国心を植え付けようとして、その代償として批判精神の涵養を遮断したりしたら、日本の教育そのものが危なくなる。
安倍晋三の戦前の日本国家をモデルとした日本国家絶対主義は彼の戦前の天皇制をモデルとした天皇絶対主義と相互対応している。