不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

石原慎太郎の皇太子「五輪招致活動」協力要請は政治利用だけで終わらない

2008-07-25 01:49:37 | Weblog

 6月20日(08年)の都知事の定例会見で石原知事が五輪開催都市の投票を行う来年10月のコペンハーゲンで開催のIOC総会に皇太子の出席を政府を通じて正式に要請することを明らかにしたそうだが(≪東京五輪招致、東京に勝算は? ロビー活動がカギ 「皇室」による招致構想≫MSN産経/2008.6.22 21:21 )、迂闊にもこのようなニュースの存在に気づいていなかった。

 記事は6月22日付け。当ブログ記事≪石原慎太郎、東京五輪開催に向けた中国に対する態度三様≫を書いたのが7月21日。知らずに書いていたから、些かトンチンカンな内容が生じていると思う。悪しからず。

 テロ対策を名目にオリンピック開催期間中、監視カメラの設置だ、車両検問だ、手荷物検査だ、一般人の立ち入り禁止区域だ、車両進入禁止区域だと市民生活に不便を強いる監視社会とさせてまでする国威発揚か、日の丸誇示かと思っている上に人格の一部としている石原慎太郎の権性がオリンピック憲章だ、オリンピック精神だ、フェアプレーだを口にする資格はないはずだと思い定めているいるから、正直東京が落ちればいいと考えている国賊の一人だが、最終的な当落結果と東京開催に関わる石原慎太郎の動向に関心を持っていたにしてはまさに迂闊であった。

 その動向たるや石原慎太郎が皇室及び皇太子のネームバリューを利用する。日本人が皇室に担わせているその文化性でもって世界各国のオリンピック委員の気持を惹こうというのだから、なかなかの策士である。

 このことは昨07年7月4日に中米グアテマラで開催された2014年冬季オリンピック開催地決定のIOC総会にロシアのプーチンが直に乗り込んでロシア語、英語、フランス語で演説して国自らが約1兆5000億円の支援をすることを表明、同じく盧武鉉大統領が乗り込んでプレゼンテーションを行った前評判の高かった韓国の平昌(ピヨンチヤン)を51票対47票の僅差で押さえて開催都市をロシアのソチに決定せしめた劇的なプーチンの演説姿に日本の皇太子を重ねて二匹目のドジョウを狙いたい思いもあったに違いない。

 だが、KGB出身で権謀術数に長けている上に各国首脳相手に外交の場数を踏んでいるプーチンと日本の皇室の役目としてひたすら真面目で誠実な姿を演じるべく飼い慣らされた皇太子とではその政治的ハッタリは比べようがなく、裏でカネや贈答品が飛び交うと言われている開催都市決定の舞台の登場人物として果たしてふさわしいかである。

 裏でカネや贈答品が飛び交うその辺の事情は長野五輪の招致が証明している。長野冬季五輪は91年バーミンガム総会で決定したが、その前後にIOC委員への買収や過剰接待等が行われた疑惑が浮上、だが長野決定の91年のたった1年後に長野冬季五輪招致委員会の会計帳簿を焼却処分とする常識的に考えたなら証拠隠滅としか考えられない挙行に及んでいる。

 だが会計帳簿紛失問題の長野県調査委員会が県庁内で帳簿のコピーと内部資料を04年3月に発見したが、現在も調査継続中だからとその一枚を公表したことを05年1月13日の『朝日』朝刊(≪長野五輪招致 土産代に1766万円 91年IOC総会前後の支出 資料一部公表 総額3億6400万円に≫)が伝えている。箇条書きにすると、

1.招致委事務総長代行の土産代(ブローチ等)1766万円
2.IOC総会に関わる航空運賃、宿泊代、車借上費等9943万円
3.プレゼンテーション6671万円
4.ロビーイング1億1339万円
5.旅費、宿泊1億1374万円
  ――総会中の経費総額 3億6405万円

 「土産代」を除いて日本の招致委員会チームのみの移動及び宿泊に於ける実質経費が千万単位でかかるはずはない。石原慎太郎が01年のワシントン海外出張で最高で1泊26万3000円のホテルに宿泊しているが、招致委のメンバー全員がロールスロイスのリムジンで移動し、アラブの王侯貴族が利用するような超豪華ホテルに宿泊して贅沢三昧を尽くしたというなら相当なカネがかかりもしようが、招致を目的にしている以上、自分たちに大枚のカネをかけても効き目が出るわけでもないことで、「招致委事務総長代行の土産代(ブローチ等)1766万円」が象徴しているように歓心を買うために各国委員の便宜を図った過剰支出なのは目に見えている。

 裏で飛び交ったカネや贈答品関連の諸経費と見ざるを得ないということなのだろう。いや、日本の立場から言うと、裏でカネや贈答品を飛び交わらせたとなる。もし皇太子に総会で演説させるとなると、表舞台にのみ目を向けさせることとなって、例え意図しなくても結果としては決して美しくない舞台裏を隠す役目を皇太子に担わせることになるに違いない。

 石原慎太郎の皇太子東京五輪招致協力要請に対して宮内庁の野村一成東宮大夫は「招致段階からかかわるのは難しい」との見解を示した(≪石原知事、知事会でも批判「宮内庁のバカが余計なことを言って」≫MSN産経/2008.7.17 22:29 )ということだが、対して石原は宮内庁のバカが余計なことを言って」と批判したと同記事は伝えている。

 「国民が熱願することだ。宮内庁が反対する理由は私はないと思う。せっかくある皇室を私たちは大切にしてきたんだからこの際、『お国のために皇太子さんがんばってくださいよ』と声を上げるのは当たり前のことだと思う」といったことを主張したと同記事は紹介している。

 私人としての発言なら相手がその場にいないのだから、「バカ呼ばわり」は時と場合に応じて許されることもあるだろうが、公人としての発言と考えた場合、相手がいるいないに関係なしに許される発言ではないだろう。石原は公人・私人の立場にあるかどうかの区別をつけるだけの良識すら持ち合わせていないらしい。

 「宮内庁ごときが決める話じゃない」と言っていると別のインターネット記事は伝えてもいる。

 民主党の土屋敬之都議が7月16日に「自分の目的のために皇室を使うという発想には賛成できない」と批判。自民、公明、民主の都議らでつくる五輪招致議員連盟から脱退したことを明らかにしたと同日付の「47NEWS」≪「皇室利用」と知事を批判 五輪東京招致で民主都議≫が伝えている。

 「知事が中国の政治体制を批判してきたのに、北京五輪の開会式に出席するのは賛成できない。知事の提唱する東京五輪には反対していく」といったことも同記事は紹介している。

 この民主党都議の「皇室利用批判」に対して「日刊スポーツ」記事(≪皇室利用批判に石原都知事「影響ない」≫2008年7月18日18時14分)が「オリンピックには政治性があるが、オリンピックそのものは政治じゃない。
そういうくくり方はおかしい」

 「東宮大夫が判断する権利とか資格があるのか。あくまで宮内庁長官の問題じゃないか」と批判をかわした石原知事の姿を伝えている。

 どうも石原慎太郎の言っていることが合理性に欠け、理解できない。「オリンピックには政治性がある」としたら、オリンピック招致活動はより政治性を担うはずである。国威発揚とか国の威信をかけてとか政治性を持ったオリンピックは招致活動の産物だからだ。当然オリンピック自体よりも政治性を持つ。前述のグアテマラIOC総会に登場したプーチンなどは招致活動に於ける最たる政治性の演出者だったはずである。

 その政治性を持った「招致活動」に皇太子を巻き込むと言っているのである。
「天皇のお言葉」ならぬ「皇太子のお言葉」を裏で寄ってたかってこね繰り回して尤もらしげに仕上げ、皇太子に喋らせるといったことをするのだろう。これを「政治性」と言わずに何と表現したらいいのか。政治利用そのものと言えるだろう。

 前述の「47NEWS」の民主党土屋都議も石原知事の北京五輪開会式出席に触れていたが、北京市が今年1月、石原慎太郎に中国公使を通じて8月8日開催の開会式の招待状を出していたという報道があったことも迂闊も迂闊、全然知らなかった。

 このことに関して7月16日の「MSN産経」≪石原知事、チャーター便で北京五輪開会式出席へ≫は「国会議員時代から『対中強硬派』で知られる石原知事は、過去に北京五輪について『ヒトラーの行った政治的なベルリン五輪に似ている』などと発言。中国側の強い反発を招いていたが、都が五輪招致を目指すことで昨年から双方の関係にも変化がみられるようになっていた。」と招待状を出すに至ったイキサツを解説している。

 あれほど中国側の反発を招いた「支那」発言も中国人犯罪手口の「民族DNA論」もどこかに吹っ飛んでしまっている。これら反発問題を帳消しにして開会式招待状を出していたとは驚きである。君子豹変とも言うべき中国側の態度変更ではないだろうか。

 尤も石原側から働きかけて裏で詫びを入れて既に手打ちが終わっていると勘繰ったなら、驚きでも何でもなくなる。手打ちがあったと仮定した場合、中国側にしても大衆に影響力のある石原慎太郎が「支那」発言、その他の中国批判を控えたなら、情報宣伝上自国に有利に働くと言う計算を働かせた、その類の手打ちに違いない。

 確実に言えることは2016年のオリンピック開催都市が決定するまで、それが東京都の場合であったなら、東京オリンピックが閉幕するまで石原慎太郎の口から中国批判の言葉は期待できないだろうと言うことである。「宮内庁のバカが」と言ったようには、「中国のバカが」とか、「胡錦涛のバカが」とは決して言わないということである。
 
 だがである、皇太子の「五輪招致活動」はいやでも他の国と争わせる政治性を担うということだけではなく、いくら石原と中国が手打ち式を行ったとしても都の長である石原のその権性と共に人格の一部をなしている対中国人蔑視感情に関係しないわけにはいかないだろう。例え気持の問題に限ったとしても、容認できるかできないか決着をつけなければならないはずである。

 皇太子がもし決着のプロセスを持たずに招致活動に協力できるとしたら、いわば石原慎太郎の権性も対中国人蔑視感情も何ら痛痒を感じずに無色透明で吸収することができるとしたら、問題は何も生じない。
信条的に容認できない立場にあるとしたら、自らの節を曲げる妥協が否応もなしに生じる協力となる。皇太子は自らを偽ることになって、その心理的な負担は大きなものがあるだろう。

 「日本のためだ、国民のためだ、東京都民のためだ」と言い聞かせながら招致活動を行う背後で石原都知事の「皇太子の活動が誰それに好印象を与えた。IOCのメンバーの多くを東京に惹きつけた」と皇太子を招致活動に巻き込んだのは自分だとさも自分の手柄として喜ぶ姿を見ることになるに違いない。

 石原の対中国人蔑視発言は過去のもので、未来志向で行こうと日本の過去の歴史をケロッと忘れるように気分転換できるなら幸せだが、できないとなったなら、「せっかくある皇室を私たちは大切にしてきたんだからこの際、『お国のために皇太子さんがんばってくださいよ』」と言われたからといって、ハイ、そうですかと気軽に引き受けることはできまい。

 いわば皇太子が極当たり前の人間感情の持ち主であったなら、皇太子自身の側からすると、「五輪招致活動」は政治的に利用されるだけで終わらないと言うことである。

 報道を見る限り皇太子を招致活動の舞台に引きずり出すことは困難のように思えるが、石原の皇太子五輪招致活動協力要請は裏を返すと、東京に決定しなかった場合の石原慎太郎自身に向けられるに違いない非難・謗りを計算に入れざるを得ない、その裏返しとしてある皇太子に依頼しなければならない程に後がないと言うことなのではないだろうか。

 独りよがりな自尊心だけは強い石原慎太郎なのである。だから公人の立場にある公の席であっても他人を平気で「バカ呼ばわり」ができるのだが、東京か否かは晩節を左右する決定となるだろうということを本人自身が自覚しているに違いない。

 東京都に決定しなかった場合、「あのバカが、余計なカネを使いやがって。ドブに捨てたようなものじゃないか」と非難の合唱が起こることは目に見えている。そうなることを切に願っている石原の権性・対中国人蔑視に同調できない手代木です。まあ、石原慎太郎にしたら痛くも痒くもない、「そんなの関係ねえ、オッパッピー」だろうが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする