元ロッテの村田兆治。
鎌を上段から振り下ろすようなフォーム(伝説の「マサカリ投法」だ)から繰り出すストレートとフォークを武器に、現役通算215勝。
しかし選手生活は波乱万丈で、1982年に肘を故障し、当時タブーとされていた手術を敢行し、1984年の終わりに復帰。
翌1985年の最初の試合に、執刀医のフランク・ジョーブ博士から「100球以上は投げたらダメ」という指示を無視し、155球を投げ完投勝利。
そこから、毎週日曜日に登板し、開幕から11連勝。「サンデー兆治」と呼ばれ、ついにはシーズン17勝を挙げ、見事カムバック賞を獲得しました。
野球大好き少年(サッカーより好きだったかも)だった私にとっては、憧れの存在で、あの投球ホームはホントよく真似をしましたものです。
今日もテレビでやっていて思わず録画して見てしまいましたが、現在村田兆治がライフワークとしているのが離島への野球指導と普及活動です。
現役引退後、ある離島へ赴き、子供達の前で速球を披露したところ、大きな衝撃を与え、逆に村田も「自分のプレーをもっと見せて、喜んでもらいたい。しかも、そんな機会が全くない離島の子供達に」という思いが湧き、16年前から活動はスタート。
最初はたったひとりでの訪問だったのが、2005年にはとうとう長崎県の対馬に「まさかりドリームス」を結成(もちろん投手兼監督)。北別府や藤田平など結構な豪華メンバー。
さらには、村田の夢でもあった離島だけの全国大会を昨年開催(東京都伊豆大島)。
今年は、第二回大会を隠岐の島で開催。チーム数も、昨年の10チームから16チームに増え、規模も大きくなりました。
まあ、村田兆治のネームバリューはあるとはいえ、それ以上にもうすぐ60歳の今でも140キロのストレートを投げれる体力と徹底した自己管理、全国139の離島自治体で構成される離島振興協議会など地方自治体も引っ張り出すエネルギーは尊敬に値します。
私は今37歳を過ぎたところですが、村田兆治を見ていて、時間がかかってもいいから自分も何か「ライフワーク」といえるものを持ちたいなと思いました。
鎌を上段から振り下ろすようなフォーム(伝説の「マサカリ投法」だ)から繰り出すストレートとフォークを武器に、現役通算215勝。
しかし選手生活は波乱万丈で、1982年に肘を故障し、当時タブーとされていた手術を敢行し、1984年の終わりに復帰。
翌1985年の最初の試合に、執刀医のフランク・ジョーブ博士から「100球以上は投げたらダメ」という指示を無視し、155球を投げ完投勝利。
そこから、毎週日曜日に登板し、開幕から11連勝。「サンデー兆治」と呼ばれ、ついにはシーズン17勝を挙げ、見事カムバック賞を獲得しました。
野球大好き少年(サッカーより好きだったかも)だった私にとっては、憧れの存在で、あの投球ホームはホントよく真似をしましたものです。
今日もテレビでやっていて思わず録画して見てしまいましたが、現在村田兆治がライフワークとしているのが離島への野球指導と普及活動です。
現役引退後、ある離島へ赴き、子供達の前で速球を披露したところ、大きな衝撃を与え、逆に村田も「自分のプレーをもっと見せて、喜んでもらいたい。しかも、そんな機会が全くない離島の子供達に」という思いが湧き、16年前から活動はスタート。
最初はたったひとりでの訪問だったのが、2005年にはとうとう長崎県の対馬に「まさかりドリームス」を結成(もちろん投手兼監督)。北別府や藤田平など結構な豪華メンバー。
さらには、村田の夢でもあった離島だけの全国大会を昨年開催(東京都伊豆大島)。
今年は、第二回大会を隠岐の島で開催。チーム数も、昨年の10チームから16チームに増え、規模も大きくなりました。
まあ、村田兆治のネームバリューはあるとはいえ、それ以上にもうすぐ60歳の今でも140キロのストレートを投げれる体力と徹底した自己管理、全国139の離島自治体で構成される離島振興協議会など地方自治体も引っ張り出すエネルギーは尊敬に値します。
私は今37歳を過ぎたところですが、村田兆治を見ていて、時間がかかってもいいから自分も何か「ライフワーク」といえるものを持ちたいなと思いました。