新イタリアの誘惑

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エドゥアール・マネとその時代を歩く⑧ 第一回印象派展はオペラ座のすぐ近くで開かれた。そしてマネの茶目っ気

2017-03-21 | マネと印象派

 マネが口火を切ったアンシャンレジームへの反逆は、次第に新たな方向へと模索をし始める。
 保守的権威の象徴であった「サロン」は、依然として既成美術界への受け入れを一方的価値観で識別していた。これに対抗して始まった展覧会が「印象派展」だった。

 第一回印象派展は、1874年4月15日から1か月間、パリ中心部のキャプシーヌ大通り35番地の会場で開かれた。 そこはマネの友人だった写真家ナダールのアトリエ。それだけに、内部は閉鎖された会場ではなく、自然光が十分に差し込む空間だった。


 出品作は、冒頭に掲げたモネの「印象、日の出」を始めとして、ルノワールの「桟敷席」

 セザンヌの「首吊りの家」

 ベルト・モリゾの「ゆりかご」など30人の画家の165点に上った。

 この展覧会は、賛否両論の大きな反響を呼び起こした。「ぼやけた絵」「壁紙のようだ」などの酷評もあり、そんなふうに否定的に引用されたモネのタイトル「印象」が、展覧会の名称となって行った。

 一方で、権威に囚われない自由さ、新鮮さ、心に訴えかける力などを挙げて賛同する評論家も多かった。

 そうした‟事件”となった印象派展は8回続いたが、実は印象派の先駆けとのいうべきマネは1回も出品しなかった。彼にとっては、保守アカデミズムとの戦いの場は、あくまでもサロンだった。そして、一貫してサロンへの出品を続けていた。



 第一回展の開かれた会場に行ってみた。キャプシーヌ大通りは、東西に延びるイタリア大通りが、オペラ座の前で名称を換えた通りの名前だ。

 ちょうどオペラ座通りと交差しており、まさにパリの中心地点。

 5階建てのビルの一角にあったナダールのアトリエは今はなく、ビル全体がファッションビルのように各種のテナントが入っている。

 その前の広い歩道と車道との間にマロニエの並木が連なり、いかにも芸術の都にふさわしいさわやかな通りとなっている。
 私が訪れたのは4月15日。まさに印象派展開催日のちょうど141年後の同じ日。

 すっきりと晴れた青空の下、春の柔らかな陽光が降り注いでいた。

 マネは、明るく社交的な性格であり、立ち居振る舞いは優雅だった。また、いろいろな方面に関心を持つ、能動的な性格でもあった。
 まず、スペインに興味をひかれたマネは、1865年に実際にスペインを旅してゴヤやベラスケスに触れた。

 初めてサロンに入選した作品が「スペインの歌手」だったのも、そんな関心の表現だった。
 また、ジャポニズムへの興味は「ゾラの肖像」の中に見られる。

 人物の背景には力士絵が描かれている。これは二世歌川国明の「大鳴門灘右衛門」の模写だ。

 ここで、もう1つのマネの性格を現す1点の作品を紹介しよう。

 
 1880年に描かれた「アスパラガス」。絵画収集家のシャルル・エフルッシに「アスパラガスの束」という作品を800フランで売買した。ところが、エフルッシは1000フランを送金してきた。そこでマネは「アスパラガスが1本足りませんでした」とのメモを添えて、この1本だけ描かれたアスパラガスの絵を送ったという。

 何という茶目っ気!!

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