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タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)の墓と宝鏡寺その1

2014-07-30 08:45:56 | Weblog
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)の墓と宝鏡寺

寺伝によりますと香宗我部親泰(1543年~1593年、長宗我部元親(1539~1599年)の弟で(香宗我部親秀の養子)が曹洞宗(禅宗の一派)瑞応寺(土佐郡江ノ口村・現高知市)の末寺として開山。現在は寺域の西南に観音堂があります。

『長宗我部地検帳』には「寺中二段五代二歩、堂床三十代(約600m2)」とあります。寺跡は南北2段になっており、南には後世並べたと考えられる五輪塔14基とその部分の石塔(卵塔含む)が並んでいます。

北の一段高い所に親泰の五輪塔、同秀政、同政氏らの石塔や板碑が並んでいます。
なお、東隣にあった境内社の祇園社は、今香宗川右岸堤防道路西側に八坂神社として祭られています。











高知県香南市子供の森にある、レッドウッド(世界一高くなる木)

2014-07-28 08:20:02 | Weblog
高知県香南市子供の森にある、レッドウッドという木があります、
アメリカより寄贈されたものではじめてみました、写真の中央の
2本がよくみえまがその周りの木もレッドウッドです。
アメリカでは大きい木は1000年もので、100メートルにも
なるそうです。

カリフォルニア州最北端の海岸沿いにある国立公園で、526k㎡  東京ドームの1万1200倍)の広大な公園内には、セコイアの一種であるレッドウッドの巨木が集まった欝蒼とした森が広がっています。その巨木は、樹齢1000年以上、高さは100mに達するものもあり、まるで自分が小人になったような錯覚に陥ってしまいます。この静かな森の中をのんびりと進めば、エルクやハゲタカなどの野生動物達にも出会えるかもしれません。

レッドウッドの巨木は、耐久性がありながら加工がしやすい良質な材木として重宝され、19世紀半ば大量に伐採されてしまいました。特にゴールドラッシュ移住者の住居用に多量の木材を必要としたことで、レッドウッドの森の面積は、ゴールドラッシュ後に激減。現在残っている森は、かつての20分の1の広さとなってしまいました。世界的にも貴重な森を保護するため、1980年、レッドウッド国立州立公園は世界遺産に登録され、現在もかつての森の姿を取り戻すべく、植林作業が地道に続けられています。

公園内の見どころは、このレッドウッドの森と海岸沿いの眺め。海岸沿いのコースタル・ドライブを走ると、断崖絶壁の上から太平洋が見下ろせます。レッドウッドの観察ポイントでは、レディ・バード・ジョンソン・グローブやスタウト・グローブがおすすめです。また、ゴールドブルックスビーチやフェルンキャニオン周辺で見られる外界から閉ざされたエメラルドグリーンの渓谷は忘れられない旅の思い出になるでしょう。そして、南へ向かって50km ほど曲がりくねった道が続くアベニューオブジャイアンツの景観は言葉に出来ないほどです。







香南市の姫倉城跡-姫倉月見山

2014-07-27 09:03:02 | Weblog
香南市の姫倉城跡-姫倉月見山
現在は「高知県立月見山こどもの森」になっています。城跡らしいものはまったくといってよいほどありません。
国道55号線を安芸市のほうに行くとヤシーパークがあり、少しいくと左側に小山があります、ここが子供の森です。
この中に城跡がありますが、少々見つけにくいです。
この城跡は安芸国虎(高知県の東部)の前衛基地で、永禄十二年(1569)元親が国虎に和睦を申し入れたが聞き入れられず姫倉城を攻撃。城主・姫倉豊前守は200騎を引き連れ何度も打て出ては寄せ手を敗走させるが、数多の寄せ手に叶わず、安芸へ落ちる途中、元親に降伏する。矢流れ決戦には元親の参謀として参戦。戸次川の戦いで戦死。末裔不明。


高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮

2014-07-24 08:48:21 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮
香南市>若一王子宮. 若一王子宮. 香宗川河口から真っ直ぐ北上し ている道路がここでT字型の交差点に突き当たる、香我美町徳王子にある古い神社です 。 若一王子宮といい、鎌倉時代に熊野新宮を勧請したのだそうです。










高知の神風特別攻撃隊(菊水白菊隊)の碑

2014-07-21 07:55:09 | Weblog
この碑は高知竜馬空港の南側にあります。白菊隊の特攻機は2人のりで26機で52名のかたがたが、特攻したといわれています。

 昭和二十年三月、練習航空隊から実施部隊に改編された第十三聯合航空隊は、第十航空
艦隊の命により「白菊」による「神風特別攻撃隊」を編成した。高知航空隊(菊水白菊隊)
徳島航空隊(徳島白菊隊)・鈴鹿航空隊(若菊隊)・大井航空隊(八洲隊)である。これ
が世にいう「白菊特攻隊」である。

 編成を完了した各航空隊は、離陸発進・接敵・攻撃(体当たり)などの訓練を、昼夜に
わたって実施した。そして、着々とその錬度を向上していった。夜間出撃が可能となった
「白菊特攻隊」は、五月二十日、聯合艦隊の命を受け、第三航空艦隊及び第五航空艦隊に
それぞれ配属され、ついに「菊水作戦」と呼ばれた「特攻作戦」に参加することになった。

 関東方面に備える第三航空艦隊に配属された大井航空隊(八洲隊)と鈴鹿航空隊(若菊
隊)は、「特攻待機」の状態で更に訓練を続行することになった。九州及び沖縄方面に備
える第五航空艦隊隷下の第十二航空戦隊に配属された高知航空隊(菊水白菊隊)は鹿屋基
地へ、徳島航空隊(徳島白菊隊)は串良基地へとそれぞれの作戦基地へ進出展開した。

 そして、五月二十四日の「菊水七号作戦」が開始されるや、勇躍基地を飛び立って沖縄
周辺の敵艦船群に対して「体当たり攻撃」を敢行したのである。「白菊」の速力は最大で
も百二十ノットと極端に遅く、 爆装すれば百ノットそこそこである。だから、昼間の攻撃
は不可能と判断され、夜明け前に突入する戦法がとられた。そのため、基地を発進したの
はすべて夜半であった。(私の調査した資料によると、夜間に発進した「特攻機」は白菊
と水上偵察機のみである)