タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

坂本竜馬の銅像(風頭公園(カザガシラコウエン)

2015-11-30 17:33:32 | 蛙をたべる
腕組みをし、世界とつながる長崎港へ力強い眼差しを向ける龍馬像。

日本で最初の貿易商社「亀山社中」を長崎に設立した坂本龍馬。その長崎の地に龍馬の像を建てようという「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけに賛同した全国の有志から寄せられた資金で、1989(平成元)年5月、亀山社中跡に近い風頭公園に『坂本龍馬之像』が建立された。高さ4.7m(全身像3.2m+台座1.5m)、長崎港を一望できる風頭公園に威風堂々と立ち、腕組みをして日本の未来を見据えるかのような姿―これには未来を担う青少年へのメッセージが込められ、龍馬の実像に最も近い像とも言われている。

長崎市街地の東にある風頭山一帯に風頭公園が開設されたのは、1978(昭和53)年3月。毎年、春に長崎名物の凧(ハタ)揚げが行われることでも有名だ。また龍馬像をはじめ、公園近隣には歴史スポットが多い。長崎の観光スタイルとして定着した“長崎さるく”でも、風頭公園を含めたコースが人気だそう。地元ガイドとともに、長崎のまち歩きを楽しんでみてはどうだろう。




















萩市椿東の赤童子立像 重要文化財です、

2015-11-29 15:02:48 | パタヤビーチ
くぞう   あかどうじりゅうぞう
木造 赤童子立像
指定年月日 : 明治35年7月31日
所有者 : 宗教法人 大照院
所在地 : 萩市大字椿
員数 : 1躰
 赤童子像は他にほとんど類例がなく、奈良県大和郡山市の植槻神社に赤童子の絵画(室町時代)があるくらいである。
 本像は像高61.2cm、ヒノキ材寄木造り、極彩色、玉眼に水晶入りの像で鎌倉時代の作である。この像で特筆すべきことは、中国の宋朝様式が混入していることである。上衣の肩の曲線文の飾り、両襟の渦巻形円文などは宋朝様式の影響を示すものである。また頭上の鋼製の宝冠は長い年月の間に失われて、現存するものが少なく、製作当初のものが残っているのは珍重すべきことである。
 躰は唐服をまとい、上腹部に帯をしている。左右に束ねた髪や袖口の反り、裳の上腹部あたりの厚ぼったい感じは鎌倉末期ごろの作といえる。






尾道の対岸 向島の河野旅館で泊まる、

2015-11-28 11:20:25 | パタヤビーチ
尾道対岸、向島のラドン温泉
 尾道と、尾道水道を挟んだ対岸の島を向島(むかいしま)という。その水道を行き交う船がひっきりなしに通っている。尾道というと、この水道と千光寺の風景が代名詞だが、向島に渡ると、風景も変わり、むしろ尾道市街や千光寺の風景が一望でき、昼の船の行き交う様子、夜景が楽しめることを知っている観光客は、案外少ない。その向島は、造船業が盛んな町で、30余年余り前、なかば必然的に始めたのがこの「旅館 河野温泉」。当時は、素泊りだけのサービスだけだったらしいが、現在は、食事の対応は、もちろんのこと、2005年には温泉も掘り、ビジネス客だけでなく、観光で訪れる人も多い。この温泉の泉質はラドン温泉で、海が目の前からか、潮湯で、尾道には数少ない温泉である。

 また、館内や部屋は、観光旅館ほどの色気はないが、屈託のない接客の様子はくつろげ、法事等で地元の利用も多いと言う料理は、尾道の魚を用い、海の幸を堪能できる。「泊まられた方が写真や絵を飾らせてほしい」と頼まれたとか、「たまたま来られた客が、その後、幾度となく宿泊されるようになった」と、うれしそうに話をする女将の笑顔は、この宿を表している気がする。




尾道からフェリーで5分で到着、料金は車が120円車なしの人は60円
です、一泊二食で6000円でした、



旅館はフェリーの桟橋の前にあり、朝は通勤客と、学生たちで、賑わって
います、




前田旅館

長崎 グラバー邸に行きました、

2015-11-24 08:04:59 | パタヤの水上マーケットその1
木造平屋建、屋根は多角形の寄棟造、桟瓦葺き、建築面積510.8平方メートル。附属屋は木造平屋建、桟瓦葺き、建築面積129.2平方メートル。居住者のトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover, 1838年 - 1911年)はイギリス人商人で、安政6年(1859年)の長崎開港直後に来日。グラバー商会を設立して茶や絹の輸出と船舶・武器の輸入に従事し、薩摩藩、長州藩や後の明治政府の要人らとも関係が深かった。親日家であったグラバーは日本人女性ツルを妻とし、明治44年(1911年)に没するまで日本にとどまった。旧グラバー住宅は、南山手の丘上の見晴らしのよい地に建つ。グラバーが文久元年(1861年)にこの地(南山手3番地)を借地した記録があり、住宅は修理時に発見された墨書から文久3年(1863年)の建築と判明する。日本に現存する木造洋館としては最古のものである。グラバーの死後は、同人の庶子で跡継ぎとなった倉場富三郎(1870年 - 1945年)が家主となるが、昭和14年(1939年)、三菱重工業長崎造船所が当住宅を取得する。その後、太平洋戦争終結後は一時接収されて進駐軍の宿舎となったこともある。昭和32年(1957年)、造船所の創業100周年を記念して、三菱造船(当時)から長崎市に寄付された。昭和42年度(1967年)に修理が完了し、明治20年代の姿に復元されている














長崎港の豪華客船に驚き!ロイヤルカリビアンシー

2015-11-23 20:12:31 | カメラ
何か港に大きなビルがあるような景色を見ました、
車の中から写したものです、この船の名前はロイヤルカリビアンシーです、バハマ船籍です、
ロイヤル・カリビアンならではの斬新なアイデアで『洋上初』の驚きの施設や遊び心が満載のクァンタム・オブ・ザ・シーズ。海上約90mからの絶景が楽しめる宝石型展望カプセル「ノース・スター」やスカイダイビング体験が出来る「リップコード・アイフライ」、洋上最大のスポーツとエンターテイメント屋内施設「シー・プレックス」など子供から大人まで楽しめる最先端施設で新しいワクワク・ドキドキを楽しみましょう!













長崎チャンポンを食べに行く!

2015-11-22 17:07:10 | カメラ
長崎チャンポンを食べに行く!
眼鏡橋沿いに少し行くと、共楽園というチャンポン屋さんが有ります、
ネットで調べて食べに行きましたが、行列ができる店で、味も上等でした、
混んでいる割には厨房が二箇所にあり、素早く出てくるのには、驚き
です、












長崎 眼鏡橋に到着、

2015-11-22 08:35:38 | 水辺のトンボ
橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。

1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた[2]。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している[2][3]。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた[2][4]。1982年(昭和57年)の長崎大水害では中島川の橋が流失したが、眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた[5]。

修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された[6]。橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている[7]。

流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された[8]。眼鏡橋の辺りは増水時の氾濫対策として川幅を広げる必要があったが、橋などの姿をなるべく残すよう、川幅や橋はそのままにして、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けることで解決した[9]。この際、左岸側バイパス建設地の上から川の上にまで張り出した家屋や商店など46戸は約20年の交渉を経て全戸が移転し、跡地には歩道と街路樹が整備された。


















島原半島殉教者記念堂 島原カトリック教会

2015-11-21 07:56:00 | 水辺のトンボ
この聖堂は、1612年~1658年の間に、島原半島一帯で殉教した数万人にもおよぶキリスト教信者のため、日本26聖人殉教400周年と島原の乱から360年の節目にあたる、1997年に祈りの家として建てられました。
聖堂は美しい八角形の建物で、大きな八角形のドームを持っています。「八」は聖書の中で復活と再創造を示す特別な数字であるとともに、イエス様の山上の説教にちなんだ「真福八端」を理念するという意味があります。
聖堂内はイタリア産の大理石を使っており、殉教者の姿を現している十字架上のイエス像や、訪れた人の心を天に向けるようにと造られたドーム型の吹き抜けの天井がひときわ目を引きます。
堂内には殉教地雲仙地獄で始まったという踏み絵のマリア像、島原の乱の陣中聖旗の図案にもなった御聖体組のシンボルの油絵があり、1620年島原半島地域の代表者がローマへ送った署名入りの信仰告白書の複製、殉教者名簿をつらねた掲示板などが島原半島の殉教の歴史を教えてくれます。
教会の窓に設けられたステンドグラスは神の3つの神秘(誕生、苦しみ、復活)を表しているそうで、信仰の歴史を受け継ぎ、伝えようとしています。
聖堂の入口上部には真福八端を表現したバラ窓もあり、夕陽が差し込むとステンドグラスが鮮やかに輝いて、床や壁に光を投げかけ、まるで宝石箱のような空間が広がります。
また、玄関両サイドには、イグナチオ内堀、マグダレナ林田二人のこどもの殉教者像が建っており、境内にあるルルドは島原半島の殉教地とセミナリヨ発祥の地から集められた石で制作されたそうです。
「わが子よ」と題された像は、キリスト生誕2000年の大聖年(ヨベルの年)に建てられたもので、神様のもとに人々が帰ってくるようにとの願いが込められています。
ここは殉教者の心を思い、祈った人々の真心が込められた教会であり、島原キリシタンの光と影をあらためて考えさせる場所です。